靖国神社は、その「神門」手前の第2鳥居下の左右に「高札」(掲示板)を設置しているが、主権者国民はその右側の「高札」の内容に関心を持った事があるだろうか。この高札の内容には、敗戦後であるにもかかわらず、昭和天皇が靖国神社に深く関わっていた事を示す文言が明確に示されており、看過してはならないのではないだろうか。また、神社側が今日までこの「高札」を設置し続けているのは、昭和天皇以後の各天皇もこの「高札」内容を否定する意志が無いという意志を表明していると見なして良いだろうし、破棄する意志も持っていないという事を表明していると見なしてよいだろう。
高札の内容には、「勅裁如件」の文言があるが、「勅裁」とは「天皇の裁可」を意味しており、昭和天皇が裁可し、それを受けて神社側が敗戦後の1946年10月に設置したものである。ここに問題がある。なぜなら、1946年2月には、神社の権宮司が全職員に対して靖国神社が宗教法人の一つとして新たに発足する事をすでに告示していたからである。また、昭和天皇が裁可した内容は靖国神社の例大祭日の変更についてのものであり、その変更を「天皇の裁可」によるものとして公表しているからである。
神聖天皇主権大日本帝国政府のアジア太平洋戦争敗戦までの靖国神社の例大祭は日露戦争戦勝記念日であり、春季例大祭は陸軍青山練兵場における観兵式の日である4月30日、秋季例大祭は横浜沖における海軍の観艦式の日である10月23日であった。敗戦後、GHQの占領政策である「靖国神社の非軍国主義化」により、1946年9月9日に「靖国神社例祭規程」の一部改正をし、旧暦の春分・秋分の日を新暦に換算し、春季例大祭は4月22日、秋季例大祭は10月18日に変更する事を決めた。理由は「従来の日露戦争戦勝記念日では、戦争放棄を宣言する新憲法が発布されようとする時に、新発足の途上にある靖国神社において、この両日を例祭日として存続するのはふさわしくない」ためとしている。この変更に昭和天皇の裁可が必要だったという事を「勅裁如件」の文言が証明しているのである。
昭和天皇は靖国神社に対して、敗戦までの神聖天皇主権大日本帝国政府と同様に政教分離の原則や憲法第99条を無視した「祭政一致の原則」(国家神道体制)を敗戦後の日本国憲法下においても維持継続したのであり、彼以後の平成天皇においても現天皇においてもそれを継承している事を意味しているという事なのである。主権者国民はこれを放置看過すべきではない。
※憲法第99条……憲法尊重擁護義務。「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負うふ」
(2020年3月17日投稿)