2017年4月19日、内閣府は、HPで中央防災会議の「災害教訓の継承に関する専門調査会(2003~10年度)報告書」が閲覧できなくなっている件で記者会見を開き、閲覧できない理由は「HPの刷新に伴うもので、意図的な削除ではない。技術的な問題で、刷新が終われば4月中にも再び閲覧できるようにする」と説明した。
関東大震災の報告書の第2編(09年作成)には「殺傷事件の発生」として「朝鮮人虐殺」について、「震災全体の死者・行方不明者が10万5千人を超え、このうち殺害による死者数を1~数%と集計。官憲、被災者や周辺住民による殺傷行為が多数発生した。虐殺という表現が妥当する例が多かった。対象となったのは、朝鮮人が最も多かったが、中国人、内地人も少なからず被害にあった。大規模災害時に発生した最悪の事態として、今後の防災活動においても念頭に置く必要がある」と書いていた。
ところで、4月18日の段階で内閣府の担当者の説明では、「朝鮮人虐殺」の内容について、「なぜこんな内容が載っているんだ」という苦情批判の声が多く、掲載から7年も経つので担当部局内での判断で、すべての報告書を載せない決定をし、データを順次消す作業をしている。掲載した資料は今後も保管され、希望者にはメールでの配布を検討する」としていた事を考えれば、冒頭の記者会見の説明とは整合性がない事は誰の目にも明らかである。つまり、事実は意図的な「削除」(歴史を修正する)であったが、問題が大きくなり、安倍政権の評価にマイナス影響が出る可能性を恐れて、速やかな火消しを狙い、とりあえず前言をごまかすために詭弁を弄し、追及をかわして開き直ろうとしている事は疑いない。また、安倍政権に追及が及ぶのを避けるために「担当部局内での判断」とし、さらに、自己が責任をかぶる事をも避けるために「技術的な問題」という説明で事実をスリカエているのも姑息な考えである。「削除した意図は安倍政権にとって都合が悪く認めたくない歴史的事実であるからで、それを国内外の眼に触れないように隠滅しようとしたと考えて間違いない。安倍政権は自己にとって都合の良いように歴史を書き変える事を意図しているのである。その事によって国民を洗脳し、政権を支持するようにさせようとしているという事である。
以下に、朝鮮人虐殺の実態を紹介しておこう。
関東大震災は1923年9月1日正午頃に起きたが、午後3時頃には早くも「社会主義者及び鮮人(朝鮮人への蔑称)の放火多し」「鮮人が井戸に毒を入れた」「鮮人が暴動を起こしている」などの流言が発生し、翌2日午前10時頃には「不逞鮮人の来襲あるべし」となり、午後2時頃には「鮮人約3千名、既に多摩川を渉りて洗足村及び中延附近に来襲し、今や住民と闘争中なり」というまでに拡大した(警視庁『大正大震火災誌』)。この流言は計画的に流されたものであるか、民衆の対朝鮮人蔑視感情の裏返しの恐怖感の爆発なのかは明確ではない。しかし、その流布に警察、軍隊が大きな役割を果たした事は否定できない。というのも、2日、警視庁は朝鮮人の厳戒を管内に命令していた。また、同日在郷軍人を中核に組織された自警団が、午後6時発令の戒厳令下で広範な朝鮮人狩りを行っていた。自警団は、鳶口、竹槍、こん棒、銃剣などを持って全通行人を検問し、朝鮮人と疑わしきものは手当たり次第に殺した。3日、朝鮮人の暴動が事実無根とわかり、当局は自警団の行き過ぎを抑えようとしたが、抑えきれなかった。荒川放水路、利根川原、多摩川原などでは数百人の朝鮮人が殺された。暴行の範囲は東京、横浜から関東一円に及び、被虐殺者3000名とも6000名ともいわれる。朝鮮人虐殺が行われている時、社会主義者の虐殺も行われた。亀戸事件と大杉事件である。
朝鮮人革命家金山の回想を聞き取った、ニム・ウェールズ『アリランの歌』では、「9月3日、政府は東京の警視総監に朝鮮人無政府主義者と民族主義者が日本人無政府主義者と協力して家を焼き払い、人々を殺し、金銭や財産を盗んだりしている旨を布告させ、住民には生命と財産を守るためにあらゆる必要手段を用いよ、と訴えた。この布告は人目に付くあらゆる場所に貼りだされた。それは嘘であったし、住民の大多数はどう考えてよいかわからなかった。しかし、反動どもはすでに20人ないし100人ずつの隊をつくって密に動員され、短刀、竹槍、日本刀、ハンマー、鎌などをふるって、たちまち虐殺を始めた。多くの朝鮮人に竹槍で拷問を加えながらなぶり殺しにした。拷問者たちはまわりに並んで拍手喝采した。若い女学生や婦人もそれに加わった。……3千名の死者は大部分東京、大阪、名古屋など不安動揺しつつあった工業中心地で殺されたものである。9月5日に、日本政府は虐殺を中止する事、また警察はすべての朝鮮人を保護すべしという命令を出した。そうした上で、約10万人を朝鮮に強制送還した。朝鮮人同胞が虐殺されていたその時に、朝鮮本国ではすべての朝鮮人家庭が米を無料供出して日本人を助けねばならなかった。われわれ朝鮮人は日本人を飢餓から救うため200万担(1担=約60㌔)の米を与えたのだ」としている。
そしてこれらの事件は、前年の議会で廃案となった過激社会運動取締法案が9月7日に治安維持の緊急勅令として発動されたり、1925年の治安維持法制定の大きなきっかけとなった。
(2017年8月26日投稿)