神聖天皇主権大日本帝国政府が、琉球藩を廃止し沖縄県を設置(琉球処分)したのち、琉球は大日本帝国と清国の両政府にどう対応したのか?清国と大日本帝国の両政府は琉球(沖縄県)の領有についてどう対応したのか?清国はグラント前米大統領に「琉球領有問題」の調停を依頼した。
【経過】
○1871年、清国と大日本帝国の両政府は対等の立場で「日清修好条規」を締結。条約は大日本帝国と清国の両政府が西洋に対抗するという「日清提携路線」が基調。清国政府は「日清提携路線」という立場を継続したが、大日本帝国政府は「小西欧主義」へ路線変更し清国政府を裏切る。
○清国政府はこの意外な展開に、大日本帝国政府に対し「琉球処分」の撤回を要請。1879年、清国へ来遊してきたグラント前米大統領に「琉球領有問題」の調停を依頼。
〈グラント調停案(分島改約案)〉
➀沖縄を2分し、先島諸島(八重山列島、宮古列島)を清国に譲渡。➁日清修好条規の改正(日本に一方的に西欧並みの条約上の権利=最恵国待遇を認める)。
〈李鴻章清国案〉
沖縄を3分し、先島諸島を清国政府、奄美諸島を大日本帝国政府に、沖縄本島の独立
○1880年、大日本帝国政府は、グラントの調停に応え、清国政府側に「分島改約案」を提案。
「分島」……先島諸島を清国政府に割譲する事。
「改約」……「分島」の代償として「日清修好条規」を改正し、大日本帝国政府に清国内地での欧米並みの通商権(最恵国待遇)を一方的に与えるという条項を追加する。
○1880年10月、日清両国政府は「グラント調停案」に同意。しかし、清国政府は調印を引き延ばした。理由は密使幸地朝常(脱清人)らが李鴻章(清国政府総理)を訪ね「琉球分島案」に同意しない事と、琉球王国完全復活を泣訴したため。北京の久米村出身の林世功は「祖国救援」嘆願書を書き、同年11月20日自殺。李鴻章は「最恵国待遇条項」の追加は、不利と考え調印回避し、事実上「分島改約案」は不成立。
○脱清人らは琉球再興の訴えを、この後も彼らが清国で死ぬまで続けた。
○1895年4月17日、清国政府から朝鮮国の支配権を奪うために大日本帝国政府が仕掛けた日清戦争後の下関条約で「琉球」大日本帝国政府の領有を確定させた。その後、日本語教育を徹底し、本土との同化を進めていった。
(2023年12月7日投稿)