蒋介石国民党は1950年以降、地方公職選挙を導入して、台湾人エリートの地方政治への参加を可能とし、中央政治における外省人支配との二重構造とした。青年層対策では1952年10月、蒋介石の長子蒋経国は中国青年反共救国団を設立し、青少年に軍事訓練や娯楽を提供するとともに、これを組織化、政治的教化をし、反政府化を予防した。
1950年代には、外省人知識人らによる雑誌『自由中国』が、国民党公認の反共自由主義から国民党の独裁を批判する傾向を強め、1959~60年には蒋介石の憲法改正、総統三選の動きを社説で批判、また、「中国民主党」結成を図った。
この動きに対し、1960年9月、国民党は同誌編集長を逮捕・投獄し、同誌を廃刊とし、少数のリベラル知識人による民主化運動を圧殺した。
この結果、中国大陸で共産党との内戦に敗退した国民党は、台湾での体制改革と基盤強化に成功し、権威主義支配を再建した。
これを可能にした背景には、神聖天皇主権大日本帝国政府が1905年から45年の敗戦まで植民地として支配するために作り上げた、すべての土地・住民を把握する体制がすでに存在していた事があり、国民党はこれを基盤として強固な支配を確立したのである。
(2022年11月25日投稿)