2020年7月17日の朝日新聞の「いにしえナビ」が革命家・孫文ゆかりの建物として『移情閣』を取り上げていた。「孫文が1913年に神戸を訪れた際、歓迎会の会場となったのが、舞子にあった中国人実業家・呉錦堂の別荘でした。移情閣はその2年後に別荘の東側に建てられ、……」と紹介していた。建物についての説明はそれ以外にも書いていたが、孫文についてはそれ以外にはまったく触れておらず、ひじょうに物足らないもので残念であった。
孫文がなぜこの別荘や移情閣に、また神戸や日本にゆかりがあるのかをもっと詳しく伝えるべきである。孫文は、日中両国関係のあり方について、現在の日本国民にも示唆を与える言葉を残しているからだ。
孫文が神戸(日本)を訪れた回数は、資料的に確認できるだけでも18回である。そしてその理由は、革命活動(亡命)にあり、1895年の、広東省広州での武装蜂起の失敗から始まるのである。そして、「いにしえナビ」が紹介する1913年には、前年就任した「全国鉄路督弁」として鉄道借款交渉のため来日し、朝野の大歓迎を受け、2月から3月にかけて東京、大阪、神戸、福岡などを訪問している。その後帰国したが、袁世凱大総統と対立し、第2革命を起こしたが失敗し、8月に、翌々年に結婚し妻となる宋慶鈴とともに日本に亡命している。神戸にひそかに上陸し、在神協力者(呉錦堂など)の援助を受けて滞在している。この際に呉錦堂の舞子にあった別荘に招かれ歓迎会が行われているのである。1916年には第三革命にも失敗し神戸を訪れている。
孫文は1925年の死の前年の1924年にも来日し11月末には神戸を訪れている。この時には11月28日に兵庫県立高等女学校(当時は現在の県庁所在地に存在)講堂において、『大アジア主義』と題して講演を行っている。この講演会は神戸商業会議所が主催し、新聞社4社(神戸又新日報、神戸新聞、大阪朝日新聞、大阪毎日新聞)が後援して開催された。その内容は、当時すでに「21か条要求」を押し付け、中国への侵略を推し進めていた神聖天皇主権大日本帝国政府を明確に批判し反省を促そうとするものであった。それは、
「アジアの文化は仁義道徳を語る王道文化であり、ヨーロッパの文化は武力の文化であり、武力を用いてアジアを圧迫している。日本は日露戦争の勝利でアジアの人々を励ますなど武力を身につけており、また、アジアの王道文化の本質ももっているが、西方覇道の手先となるか、東方王道の守り手となるかは日本人は慎重に考慮してその一つを選ぶべきである」と訴えるものであった。
しかし、この後の神聖天皇主権大日本帝国政府は、孫文の「訴え」に応えず期待を裏切る道を選び、中華民国に対して最も露骨な侵略者となっていった事は歴史が示す通りである。
孫文が1924年の来日記念に揮毫した言葉は彼が革命によって実現しようとした「天下為公」である。中国古典『礼記』の「礼運篇」にある言葉で、「人々が等しく天下を共有する」「政権というものは一般平民が共有するものである」という意味である。
1925年3月12日、孫文死去(59歳)。
(2020年8月30日投稿)