「金玉均(独立党・甲申事変指導者)を神聖天皇主権大日本帝国はどう扱った?」 goo.gl/4k5eVi
— takechan (@take1take26) 2018年8月22日 - 17:01
金玉均は閔妃政権下の独立党(親日改革派)指導者であり、日本政府や民間日本人の支援を受けて甲申事変を起こしたが失敗した。支援したのは、政府では伊藤博文、外務卿・井上馨、朝鮮駐在公使竹添進一郎、民間日本人では福沢諭吉とその弟子・井上角五郎、及び後藤象二郎であった。彼らは、清仏戦争(1884年、翌年仏がヴェトナムを保護国化)を機会に朝鮮政府から親清派(閔妃政権)を追放する手段として金玉均・朴泳孝らと結びついたのである。
日本公使館守備駐留軍(1882年の壬午事変処理の済物浦条約で認めさせた)は朝鮮王宮を占拠し、金らは一旦政権を樹立したが閔妃の要請を受けた清軍に敗れ日本公使館も破壊され失敗した。金・朴らは日本に亡命した。日本政府はこの事が漏れて国際的非難を受ける事を恐れて政変に関する電文、新聞原稿に厳しい検閲を行った。
日本の一般国民はもちろん、自由民権運動家でさえ事の真相をまったく知り得なかった。記事は厳しく管制されており、清国に対する排斥感情を煽るような被害記事のみが大きく取り上げられた。世論は反清感情一色で塗りつぶされた。『報知新聞』『毎日新聞』の論調は、この事件の責任は朝鮮にはなく清にあるとみなし、清兵の朝鮮撤退、内政不干渉、朝鮮の独立の承認、および日本への賠償と謝罪を一致して要求していた。ただ『毎日』が戦争回避論を述べるのに対し、『報知』は強硬で、もし要求が拒絶されるなら、太沽・天津を陥れ、北京城下の盟を結ぶべしと武力解決論を主張、『自由燈』なども主戦論である。旧自由党員の動きは、さらに過激であった。『自由党史』によると、高知では板垣・片岡が先頭に立ち、義勇兵を編成して、昼夜猛訓練を行い、鹿児島・長野・福島・富山・宮城などにも従軍を願い出る者、献金をする者が続出した。大阪事件を起こした大井憲太郎の目的は日本人自身の手で一旦失敗した「朝鮮改革(甲申事変)」を断行し、再び日清間の緊張を作り出す事が日本の内政改革に有益だと判断し、閔氏一派を爆弾で倒して開化派(親日派)に政権をとらせ、清国からの独立と民主改革をやらせるという計画であった。大井・影山英子らの考え方の中には、一つの国、一つの民族の革命は、その国民自体の仕事であって、何人も関わって行う事はできないという認識が欠けていた。彼らが真に朝鮮を援助しようとするなら、まず第一に、日本政府が朝鮮に押しつけた不平等条約である日朝修好条規を自国(神聖天皇主権大日本帝国)の政府に撤廃させる事から始めなければならなかったにもかかわらず。
さらに、日本政府は自らクーデターに加担して失敗しておきながら、外務卿・井上馨に軍隊をつけてソウルに行かせ、朝鮮に「謝罪」「賠償」などを認めさせる漢城条約を認めさせ、日清両国間では天津条約を締結させた。
亡命してきた金・朴に対して日本政府は冷遇を極めた。政変に失敗して利用価値を失い邪魔ものになったからである。1886年8月には小笠原諸島父島に勾留した。金は小笠原送致の命令を受けて各国公使に手紙で救援を訴えた。「予はあたかも日本の罪人と同一の取扱を受く。予は曽て日本の法律を犯したる事なきを以て、斯く過厳の取扱を蒙るべき理由なき事を飽くまでも抗論したれど、官吏は予の自ら起て行かざれば、腕力を以て予を連れ去らんとするの勢いあり。……嗚呼社会に対し開明の政府と呼ばれん事を試むる政府にして此の如き待遇を加ふべしとは予も人も共に信ずるを得ざる所なり」(鈴木省吾『朝鮮名士金氏言行録』1886年)
また、閔氏政権が金氏を暗殺するため池運永を派遣した事に対し送った「諫争書」(1886年)は、「日本は前年来何等の考えにや一時熱心に我邦の国事に干渉し居たるも、一変(甲申事変)の後はたちまち之を棄てて顧みざるの状あり。又何ぞ恃むに足るべけんや」と述べている。
さて1890年に金氏は許されて東京に帰った。しかし、1892年5月、閔妃政府から金・朴両氏暗殺の密命を受けた朝鮮人李逸植、権東寿、権在寿が来日した。李は在日朝鮮人金泰元、洪鐘宇、日本人川久保常吉を仲間に入れた。李逸植は金玉均を上海におびき出して暗殺するため、清国北洋大臣李鴻章とその養子・李経方との会見をすすめ旅費も出してやった。李逸植は洪鐘宇にピストルと短刀を与えて同行させ、自分は朴泳孝暗殺のため他の仲間とともに日本に残留した。金玉均は洪のピストル3発で絶命した。李の朴暗殺は失敗し、逆に朴に監禁された。金玉均の死体は一時従僕の和田延次郎に引き渡されたが、手違いから清国の手に移った。朝鮮政府は清国政府に金玉均の死体と洪の引渡しを交渉した。清国はこれを承諾して軍艦で仁川まで金玉均の死体と洪を護送した。金玉均の死体は朝鮮官憲の手で寸断され、さらしものにされた。
1894年3月28日に上海駐在大越領事が送った電文は30日、日本の各新聞に掲載された。「金玉均本日(28日)当地日本ホテルに於て同行の洪鐘宇の為め殺害せられたり。凶行者洪鐘宇は現場より逃走せり」
神聖天皇主権大日本帝国政府やメディアは、朝鮮侵略に利用できる限りにおいて、金玉均らに同情し、専制的朝鮮政府の「改革」を唱えたのである。
この体質は神聖天皇主権大日本帝国政府がイギリスの支持の下で日清戦争を始めるきっかけとした1894年の甲午農民戦争に対する姿勢ついても同様である。詳細は別の稿で伝えたい。
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— takechan (@take1take26) 2017年8月26日 - 11:21
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— takechan (@take1take26) 2018年8月14日 - 21:55