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ソ連への和平仲介の依頼工作:近衛文麿特使携行の和平条件要綱に沖縄の切り捨てが

2024-11-17 10:22:35 | 沖縄

 神聖天皇主権大日本帝国政府は、敗戦前から和平条件として沖縄県を日本領土から切り捨てる方針を決定していた。それは沖縄県を戦争終結の交渉材料としていたという事である。結果的には目的を達成できなかったが。

 神聖天皇主権大日本帝国政府は、沖縄戦の敗北が明確となり、またドイツが無条件降伏(5月8日)すると、重臣グループの木戸、岡田、東郷、米内は当時の鈴木貫太郎首相を動かし、5月11日から14日にかけて停戦問題を議題とし最高戦争指導会議(首相・外相・陸相・海相・参謀総長・軍令部総長)を開かせた。阿南陸相と梅津参謀総長は本土決戦論をとなえ、米内海相と東郷外相らは和平促進を主張。とりあえず、「ソ仲介対米英和平」を元外相広田弘毅を介して駐日ソヴィエト大使と打診交渉を行う事を決定した。しかし、失敗した。

 しかし、6月8日、木戸はソヴィエトの仲介による和平交渉をあきらめず、具体化するための試案を起草し、6月18日の最高戦争指導会議に提案し、三つの方針を決議させた。それは、①日ソ中立条約の延長(ソ連は4月8日にすでに不延長通告)、②ソヴィエトの好意的中立の取り付け、③ソヴィエトに戦争終結の斡旋を依頼する、である。

 6月22日には最高戦争指導会議で昭和天皇が対ソ工作を指示した。

 7月10日には最高戦争指導会議で近衛元首相を天皇の特使としてソ連派遣を決定した。

 7月12日、天皇が近衛を特使に下命し、東郷外相はモスクワの佐藤尚武大使に対して、無条件降伏方式の緩和によって戦争終結が可能となる事を示唆した申し入れをモロトフソ連外相に行う事と近衛が天皇親書を持ち訪ソする事のソ連側の了解を求めるよう訓電した。

 この近衛特使派遣の際携行する予定で作成されたものが「和平条件の要綱」であった。この作成には近衛と酒井中将が練り上げ直接天皇の御璽をいただくというものであったという。内容は、一、方針には、聖慮を奉戴し、なし得る限り速やかに戦争を終結し、以ってわが国民は勿論世界人類全般を、迅速に戦禍より救出し、御仁慈の精神を内外に徹底せしむる事に全力を傾倒す、とある。また、二、条件としては、まず、国体の護持は絶対にして一歩も譲らざる事とし、国土については、止むを得ざれば固有の領土を以って満足すとし、固有領土の解釈については、沖縄、小笠原、樺太を捨て千島は南半部を保有する程度とする事、として沖縄県を捨て、と明記していた」(『近衛文麿』近衛文麿伝記編纂所)。

 この事はつまり、神聖天皇主権大日本帝国政府は、「固有の領土(本土)」の安全や利益を守る事だけを重要事とし、そのためには必要とあればいつでも沖縄県を切り離して(トカゲの尻尾切り)、政治経済上利用できる材料として沖縄県を扱い犠牲とする事を厭わなかったという事である。日本本土に対しての外部からの脅威や圧力の緩衝地帯として位置づけられていたという事であり、沖縄県民は本土の日本人とは平等待遇ではなくそれ以下の差別的待遇を受けていた事を示している。そして、その位置づけは敗戦後の昭和天皇の意志と吉田茂日本政府が日米安全保障条約を締結し米国政府の施政権下に置くという選択によって、その後も継続したのである。

 さて話をもどして、モスクワの佐藤大使は訓電の内容を7月13日にソ連側に申し入れた。しかし、モロトフ外相はドイツのベルリンへ出発する(ポツダム会談7月17日~8月2日出席)ために多忙という理由で応じなかった。

 そして、7月18日、ソ連側から佐藤大使に、「近衛が何をしに来るのか分からないので回答できない」という返事が伝えられた。

 これに対し、7月25日、佐藤大使が、「近衛の使命は戦争終結のためソ連政府の尽力斡旋を同政府に依頼する事にある」と改めて申し入れたが、その申し入れの交渉が停滞した。そして、

 7月26日、ポツダム宣言が発せられたのである。

(2016年6月3日投稿)

 

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