つれづれなるままに心痛むあれこれ

知る事は幸福度を高める

憲法全面改正に手段選ばず見解も翻す歴史の歪曲も。その①GHQ改正指令で作った幣原内閣「松本烝治案」

2024-05-04 16:54:53 | 憲法

 安倍自民党ワールドは、公然と憲法第99条「憲法尊重擁護の義務」を侵害して「憲法全面改正」を主張している。このような国民を馬鹿にした態度を黙って許していて良いのか?

 安倍首相の「憲法全面改正」の目的は、安倍ワールド(天皇家皇族も結託)を守るためであって、彼らが日本を支配し為政者としての地位と権力と財産を維持するためのものであり、そのために国民の権利と財産と生命を利用(搾取・収奪・奴隷化)するためのものであって国民を「正義の使者」のように国民を守るためではない。その彼らの思惑を隠していかにも国民のためであるかのように装い「改正」を訴えているのである。安倍ワールドと国民とは、利害が異なる立場に生きている事に今こそ気付かなければ後悔する事になるだろう。18歳以上の参政権を持つ国民は、将来、子孫から今の自分の対応を問われて言葉に詰まらないために。

 安倍首相は、憲法改正について参院選で国民の信任を問う争点化を明言した。米国のお膳立てと軍事力を後ろ盾にして吉田茂内閣が手に入れたと言ってよい「自衛隊」という存在を、「7割の憲法学者が『憲法違反の疑いがある』と自衛隊に対して疑いを持っている状態を、無くすべきではないかという考え方もある」「国内では軍ではないと言い、海外では軍として認められているという詭弁は憲法を改正してやめるべきだ」(12年末の衆院選の各党党首討論会)と責任転嫁したうえにさらに「既成事実を認め明記すべきだ」とする手前勝手な理屈で、自分たちがいかにも正当な考え方であるかのように思わせる説明をして、改正の意思をアピールしている(9条だけではなく「自民党憲法改正草案」のすべての実現が目的)。またもやこれも、これまでの安倍の手法と同じである。しかし、もう驚いていてはいけない。これを超える手法で闘うべきである。安倍が「命がけ」で安倍ワールドの利害を守るためなら、国民も「まさか」と思う「お人よし」を止めて自らを守る現憲法を「命がけ」で守る事が大切である。

 さて、安倍は日本国憲法の制定過程について、「日本が占領下でGHQがある中で、逆らえない。その中で憲法が作られたのは事実であろう」と国民が望まない内容の「憲法」を国民が「押し付けられた」と述べている。本当にそうだろうか。GHQ草案をベースとしてGHQと日本政府が交渉を重ねて作った「憲法改正草案」に対して、今日の自由民主党の母体となる憲法制定時の「日本自由党」と「日本進歩党」は「天皇主権の国体護持」を堅持していた。それに対して国民は、「毎日新聞」の世論調査(1946年5月27日)によると、「象徴天皇制」を85%が、「戦争放棄条項」を70%が、「国民の権利」を65%が支持していた。これを見ると、「押し付けられた」として受け入れたのは大日本帝国下で権力を握り国民を支配する側にいた連中であり、そのため今日まで一貫して「大日本帝国憲法」の復権(憲法全面改正)をめざしてきたのである。しかし、そうではない国民は自力で獲得しえたわけではないが待ち望んで喜んで受け入れたといえる。このほかにもどれほど歴史を歪曲し安倍が自分の目的を実現するために歴史を隠し歪曲し国民をごまかして信任を得ようとしているのかを見てみよう。今回は先ず、マッカーサー幣原首相に、憲法改正(憲法の自由主義化)を示唆し、松本烝治国務相らが作成しGHQに提出した松本案甲案「憲法改正要綱」を紹介しよう。結果的に、GHQに提出した松本案は「大日本帝国憲法」とほとんど変わりのない内容であったためGHQは拒否し、GHQが草案を作成する流れを導く。

○1945年10月25日、松本は「憲法問題調査委員会」を発足。

○同年10月27日、第1回総会。松本は「憲法問題調査委員会という名称をつけたのは、明治憲法を改正するとか、しないとかいう事ではなしに、ただそういう事の問題を研究する委員会という意味に過ぎない。それに調査を充分にするためには、たっぷり時間をかけた方がいい。あまり早くやろうとすれば、どうしても行き過ぎのような事が起こる」と発言。

※同年11月12日に日本共産党が「新憲法案骨子」を発表した。

第89議会(同年11月29日)での議員の意見発言。

 斎藤隆夫議員の発言「いかに憲法を改正するとも、これによってわが国の国体を侵す事はできない。統治権の主体に指を触れる事は許されない」

 鳩山一郎議員の発言「天皇が統治したまうという事が、国民の血肉となっている信念である。日本は族長的国家の典型的なもので、一大家族的集団である。この美しさを土台として発展してきた日本の中心は天皇である。我々は国家の中心を失う事は絶対できないのである」

 幣原首相の発言「もし憲法の若干の条規を改正する事によって、将来の疑義を閉ざし、濫用のおそれを断ち、国運の伸張に貢献し得らるるものがあると認める場合には、この方向に歩を進める事が望ましい」

○同年12月8日の予算委員会で「松本4原則」発表。

 ①天皇が統治権を総攬せらるる原則に変更がない。⇒明治憲法の第1、3、4条をさす。

 ②議会の権限を拡充し、従来のいわゆる大権事項を制限する。⇒根本は変わらない。

 ③国務大臣の輔弼の責任を国務全般にし、それ以外のものの介在する余地をなからしめる。国務大臣は議会に対して責任を持つ。⇒それ以外のものとは、軍部の事で内閣のみが責任をもって国をリードしていく。

 ④臣民の自由、権利を保護し、国家の保障を強化する。

○同年12月22日に松本委員会総会開催。「第1条から4条は決定保留、天皇の地位に関する条項に触れたくない。民主的な味付けをする修正にとどめたい。」⇒憲法改正に積極的でなく尻込みしていた。

※同年12月26日、鈴木安蔵らの憲法研究会が「憲法草案要綱」を発表し、GHQと日本政府に提出した。

○1946年2月1日、毎日新聞が「松本委員会」の「乙案」(甲案の天皇主権を薄めた内容)をスクープ。

○同年2月3日には毎日新聞コラムで「松本委員会案」を批判。「憲法改正調査委員会の試案を見て、今更の事ではないが、あまりに保守的、現状維持的のものに過ぎない事を失望しない者は少ないと思う。つまり、憲法改正という文字に拘泥し、法律的技師の性格を帯びた仕事しかできないで、新国家構成の経世的熱意と理想に欠けているからである。今日の憲法改正は単なる法律的の問題ではない。それは最高の政治である。法律家(東大商法専門家)の松本烝治国務相を中心とし、あたかも民法とか商法とかの改正調査会のようなものを作って、これに原案を作らせるという考え方が、すでに革命的の時代感覚とはおよそかけ離れたもので、……」

○1946年2月2日、第7回総会をもって任務完了し解散。幣原内閣の松本烝治を中心とする「憲法問題調査委員会」の体質を理解してもらえたと思う。

マッカーサーは同年2月3日に民政局に「3原則」を示し、2月4日から1週間かけて「GHQ憲法草案」の作成を指示した(同年2月12日に完成)。

マッカーサー3原則は①天皇は国の元首のままでかまわない。皇位の継承も世襲とする。天皇の職務及び権能は憲法に基づいて行使されるが、それは憲法に示された国民の基本的意思に基づいて定められる。②国権の発動としての戦争は放棄する。日本はいかなる事があれ、紛争解決のための手段として戦争を選択しない。さらには自らの安全を保持するための手段としての戦争も放棄する。日本の防衛は国際社会を動かしている崇高な理想に委ねる事にし、日本が陸海空軍をもつ権能は将来にわたって与えられる事はなく、交戦権が与えられる事もない。③日本の封建制度は一掃される。国会の型は英国の議会政治にならうが、貴族院をはじめ枢密院、それに特権階級である華族制度などは廃止される。以上。

○同年2月8日、松本烝治国務相はGHQに「憲法改正案(甲案)」(天皇統治権を認める大日本帝国憲法とほとんど同じ内容)を提出した。

○同年2月9日、松本は御文庫で天皇に会い、委員会案提出を報告した。その時の天皇と松本との問答は(木下道雄侍従次長『側近日記』)。

天皇「これ(明治憲法の第1、4条)はむしろ簡明に『大日本帝国は万世一系の天皇、この憲法の条章により統治す』としてはどうか。天皇が統治す、といえば権の字を特に用いる必要はないのではないか」

松本「仰せはもっともにございますが、その観点からの議論は、閣議にても出なかった事でございまして、……また第4条はもともとが外国(ドイツ)憲法の翻訳でございますれば、……それに憲法改正は陛下のご発議によるものであります以上、第1ないし第4条に触れます時は、議会で色々と議論を呼ぶ恐れもございます」

木下「とにかく松本という人は、自己の在任中に憲法改正を終了してしまいたいという意思が非常に強いようだ。これは総理大臣の幣原にも言おうと思うが、そんなに急がなくとも、改正の意思さえ表示しておけば足る事で、改正案は慎重に議論をなさしむべきである」以上。

○同年2月12日の夕方、GHQから楢橋渡書記官長に電話がかかってきた。「本日に予定されていた会談を延ばして、明日13日にしたい。なお、憲法問題でこちらから重大な提案をするからそのつもりで会合の準備をせよ」 

○同年2月13日午前10時に外務大臣官邸で会合。

日本側吉田茂外相松本国務大臣、終戦連絡中央事務局次長:白洲次郎、外務省通訳:長谷川元吉の4人。

GHQ側はホイットニー准将、ケーディス大佐、ハッシィ中佐、ラウエル中佐の4人。

 この時GHQは、松本の提出した「委員会案」=「憲法改正要綱」拒否表明をし、作成した「GHQ憲法草案」(英文。鈴木安蔵らの憲法研究会の「憲法草案要綱」などを参照)を幣原内閣(吉田茂、松本烝治など)に提示した(回答期限は2月22日)。この時の両者のやり取りについては「ラウレル文書」、松本烝治「松本会見記略」)。

【松本烝治案「憲法改正要綱」】

第1章 天皇

第1条:大日本帝国は万世一系の天皇之を統治す

第2条:皇位は皇室典範の定むる所に依り皇男子孫之を継承す

第3条:天皇は至尊にして侵すべからず

第4条:天皇は国の元首にして統治権を総攬しこの憲法の条規に依り之を行う

第5条:天皇は帝国議会の協賛を以て立法権を行う

第6条:天皇は法律を裁可し其の公布及び執行を命ず

第7条:①天皇は帝国議会を召集しその開会閉会停会及び衆議院の解散を命ず ②衆議院の解散は同一事由に基づき之を命ずることを得ず

第8条:①天皇は公共の安全を保持し又は其の災厄を避ける為緊急の必要に由り帝国議会閉会の場合に於いて法律に代わるべき勅令を発す、②この勅令は次の会期に於いて帝国議会に提出すべしもし議会に於いて承諾せざるときは政府は将来に向かってその効力を失うことを公布すべし ③緊急勅令を発するには議院法の定むる所に依り帝国議会常置委員の諮詢を経るを要す

第9条:天皇は法律を執行する為に又は行政の目的を達する為に必要なる命令を発し又は発せしむ但し命令を以て法律を変更することを得ず

第10条:天皇は行政各部の官制及び文武官の俸給を定め及び文武官を任免す但しこの憲法又は他の法律に特例を掲げたるものは各々その条項に依る

第11条:天皇は軍を統制す

第12条:①天皇は軍の編制及び常備兵額を定む ②軍の編制及び常備兵額は法律を以て之を定む

第13条:戦を宣し和を講じ又は法律を以て定むるを要する事項に関する条約若しくは国に重大なる義務を負わしむる条約を締結するには帝国議会の協賛を要するものとすること但し内外の情形に因り帝国議会の召集を待つこと能わざる緊急の必要あるときは帝国議会常置委員の諮詢を経るを以て足るものとし此の場合に於いては次の会期に於いて帝国議会に報告しその承諾を求むべし

第14条:①天皇は戒厳を宣告す ②戒厳の要件及び効力は法律を以て之を定む

第15条:天皇は栄典を授与す

第16条:天皇は大赦特赦減刑及び復権を命ず

第17条:①摂政を置くは皇室典範の定むる所に依る ②摂政は天皇の名に於いて大権を行う

第2章 臣民権利義務

第18条:日本臣民たるの要件は法律の定むる所に依る

第19条:日本臣民は法律命令の定むる所の資格に応じ均しく文武官に任ぜられ及び其の他の公務に就くことを得

第20条:日本臣民は法律の定むる所に従い公益の為必要なる役務に服する義務を有す

第21条:日本臣民は法律の定むる所に従い納税の義務を有す

第22条:日本臣民は法律の範囲内に於いて居住及び移転の自由を有す

第23条:日本臣民は法律に依るに非ずして逮捕監禁審問処罰を受けることなし

第24条:日本臣民は法律に定めたる裁判官の裁判を受けるの権を奪われることなし

第25条:日本臣民は法律に定めたる場合を除く外其の許諾なくして住所に侵入せられ及び捜索せらるることなし

第26条:日本臣民は法律に定めたる場合を除く外信書の秘密を侵されることなし

第27条:①日本臣民は其の所有権を侵されることなし ②公益の為必要なる処分は法律の定むる所に依る

第28条:日本臣民は安寧秩序を妨げざる限りに於いて信教の自由を有す

第29条:日本臣民は法律の範囲内に於いて言論著作印行集会結社の自由を有す

第30条:日本臣民は相当の敬礼を守り別に定むる所の規定に従い請願を為すことを得 ②日本臣民は本章各条に掲げたる場合の外凡て法律に依るに非ずしてその自由及び権利を侵さるることなし

第31条:(非常大権)削除

第32条:(軍人の特例)削除

第3章 帝国議会

第33条:帝国議会は参議院衆議院の両院を以て成立す

第34条:参議院は参議院法の定むる所に依る選挙又は勅任せられたる議員を以て組織す

第35条:衆議院は選挙法の定むる所に依り公選せられたる議員を以て組織す

第36条:何人も同時に両議院の議員たることを得ず

第37条:すべて法律は帝国議会の協賛を経るを要す

第38条:①両議院は政府の提出する法律案を議決し及び各々法律案を提出する事を得 ②衆議院に於いて引続き3回その総員3分の2以上の多数を以て可決して参議院に移したる法律案は参議院の議決あると否とを問わず帝国議会の協賛を経たるものとす

第39条:両議院の一に於いて否決したる法律案は同会期中に於いて再び提出することを得ず

第40条:両議院は法律又は其の他の事件に付各々其の意見を政府に建議することを得但し其の採納を得ざるものは同会期中に於いて再び建議することを得ず

第41条:帝国議会は毎年之を召集す

第42条:帝国議会は3カ月以上に於いて議院法に定めたる期間を以て会期とす必要ある場合に於いては勅命を以て之を延長することあるべし

第43条:①臨時緊急の必要ある場合に於いて常会の外臨時会を召集すべし ②臨時会の会期を定むるは勅命に依る

第44条:①帝国議会の開会閉会会期の延長及び停会は両院同時に之を行うべし ②衆議院解散を命ぜられたるときは参議院は同時に停会せらるべし

第45条:衆議院解散を命ぜられたるときは勅命を以て新たに議員を選挙せしめ解散の日より3カ月以内に之を召集すべし

第46条:両議院は各々其の総議員3分の1以上出席するに非ざれば議事を開き議決を為すことを得ず

第47条:両議院の議事は過半数を以て決す可否同数なるときは議長の決する所に依る

第48条:両議院の会議は公開す但し両議院の会議を秘密会と為すは専ら其の院の決議に依るものとす

第49条:両議院は各々天皇に上奏することを得

第50条:両議院は臣民より呈出する請願書を受けとることを得

第51条:両議院は此の憲法および議院法に掲げるものの外内部の整理に必要なる諸規則を定むることを得

第52条:①両議院の議員は議院に於いて発言したる意見及び表決に付院外に於いて責を負うことなし但し議員自ら其の言論を演説刊行筆記又は其の他の方法を以て公布したるときは一般の法律に依り処分せらるべし ②会期前に逮捕せられたる議員は其の院の要求あるときは会期中之を釈放すべし

第53条:両議院の議員は現行犯罪及び内乱外患に関わる罪を除く外会期中其の院の許諾なくして逮捕せらるることなし

第54条:国務大臣及び政府委員は何時たりとも各議院に出席し及び発言することを得

第4章 国務大臣及び枢密顧問

第55条:①国務各大臣は天皇を輔弼し帝国議会に対して其の責に任ず ②すべて法律勅令その他国務に関する詔勅は国務大臣の副署を要す ③衆議院に於いて国務各大臣に対する不信任を議決したるときは解散あるたる場合を除く外其の職に留まることを得ず ④国務各大臣を以て内閣を組織する旨及び内閣の官制は法律を以て之を定む

第56条:①枢密顧問は枢密院官制の定むる所に依り天皇の諮詢に応え重要の国務を審議す ②枢密院の官制は法律を以て之を定む

第5章 司法

第57条:①司法権は天皇の名に於いて法律に依り裁判所之を行う ②裁判所の構成は法律を以て之を定む

第58条:①裁判官は法律に定めたる資格を具える者を以て之に任ず ②裁判官は刑法の宣告又は懲戒の処分に由るの外其の職を免ぜらるることなし ③懲戒の条規は法律を以て之を定む

第59条:裁判の対審判決は之を公開す但し安寧秩序又は風俗を害するの虞あるときは法律に依り又は裁判所の決議を以て対審の公開を止めることを得

第60条:特別裁判所の管轄に属すべきものは別に法律を以て之を定む

第61条:行政事件に関わる訴訟は別に法律の定むる所に依り司法裁判所の管轄に属するものとす

第6章 会計

第62条:①新たに租税を課し及び税率を変更するは法律を以て之を定むべし ②但し報償に属する行政上の手数料及び其の他の収納金は前項の限りにあらず ③国債を起こし及び予算に定めたるものを除く外国庫の負担となるべき契約を為すは帝国議会の協賛を経べし

第63条:現行の租税は更に法律を以て之を改めざる限りは旧に依り之を徴収す

第64条:①国家の歳出歳入は毎年予算を以て帝国議会の協賛を経べし ②予算の款項に超過し又は予算の外に生じたる支出あるときは後日帝国議会の承諾を求むるを要す

第65条:①予算は前に衆議院に提出すべし ②参議院は衆議院の議決したる予算に付増額の修正を為すことを得ず

第66条:皇室経費中其の内廷の経費に限り定額に依り毎年国庫より之を支出し増額を要求する場合を除く外帝国議会の協賛を要せず

第67条:憲法上の大権に基づける既定の歳出は政府の同意なくして帝国議会之を廃除し又は削減することを得

第68条:①特別の須要に因り政府は予め年限を定め継続費として帝国議会の協賛を求むることを得 ②予備費を以て予算の外に生じたる必要の費用に充つるとき及び予備費外に於いて避くべからざる予算の不足を補う為に又予算の外に生じたる必要の費用に充てる為に支出を為すときは帝国議会常置委員の諮詢を経べし

第69条:避くべからざる予算の不足を補う為に又は予算の外に生じたる必要の費用に充てる為に予備費を設くべし

第70条:①公共の安全を保持する為緊急の需要ある場合に於いて内外の情形に因り政府は帝国議会を召集すること能わざるときは勅令に依り財政上必要の処分をなすことを得 ②所定の財政上の緊急処分を為すには帝国議会常置委員の諮詢を経るを要す ②前項の場合に於いては次の会期に於いて帝国議会に提出し其の承諾を求むるを要す

第71条:帝国議会に於いて予算を議定せず又は予算成立に至らざるときは政府は会計法の定むる所に依り暫定予算を作成し予算成立に至るまでの間之を施行すべきものとし此の場合に於いて帝国議会閉会中なるときは速やかに之を召集し其の年度の予算と共に暫定予算を提出し其の承諾を求むるを要す

第72条:①国家の歳出歳入の決算は会計検査院之を検査確定し政府は其の検査報告と俱に之を帝国議会に提出すべし ②会計検査院の組織及び職権は法律を以て之を定む

第7章 補足

第73条:①将来此の憲法の条項を改正するの必要あるときは勅命を以て議案を帝国議会の議に付すべし ②両議院の議員は各々其の院の総員2分の1以上の賛成を得て憲法改正の議案を発議することを得 ③此の場合に於いて両議院は各々総員3分の2以上出席するにあらざれば議事を開くことを得ず出席議員3分の2以上の多数を得るに非ざれば改正の議決を為すことを得ず

第74条:①皇室典範の改正は帝国議会の議を経るを要せず ②皇室典範を以て此の憲法の条規を変更することを得ず ③天皇は帝国議会の議決したる憲法改正を裁可し其の公布及び執行を命ず

第75条:(憲法及び皇室典範変更の制限)削除

第76条:①法律規則命令又は何らの名称を用いたるに拘らず此の憲法に矛盾せざる現行の法令は総て遵由の効力を有す ②歳出上政府の義務に係る現在の契約又は命令は総て第67条の例に依る

                                           以上

(2016年2月6日投稿)

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

神聖天皇主権大日本帝国田中義一政権は緊急勅令で治安維持法改正、山本宣治襲撃事件、ファシズムの強化と中国侵略本格化

2024-05-03 18:36:41 | 緊急事態

 山本宣治(1889~1929)は1928年2月の第1回普通選挙で、労働農民党から当選した代議士であった。第56帝国議会で治安維持法改正反対し奮闘したが、29年3月5日に右翼の黒田保久二により暗殺された。

 1889年、父は山本亀松、母はタネといい、京都府に生れた。宣教師の「宣」と明治の「治」をとり、「宣治」と名づけられた。19歳の頃、カナダに渡った。皿洗い、ホテルの臨時給仕、新聞配達などをし、鮭缶工場などでも働いた。牧師の世話で、英人小学校からハイスクールにもすすんだ。「父、病重し」との電報を受け取り、5年間のバンクーバーでの生活を後にした。帰国後、同志社、三高、京都大学に通い、植物学、遺伝・生態などの動物学を学んだ。東京大学の時には、マルクス主義研究の「新人会」に加わった。

 学校を終えると、同志社大学予科で「人生生物学」と名づけた「性教育」講義を始めた。1922年、米国から産児制限運動家サンガー夫人の来日をきっかけに、労働者、農民の間に産児制限運動を始めた。やがて各地の労働学校、農民組合、水平社、学生の社研などに東奔西走した。

 1926年1月には、治安維持法違反で、河上肇とともに家宅捜索を受け、同志社からも追放された。同年5月には南山城の小作争議の指導に奔走。

 1928年2月、第1回普通選挙で、労働農民党から当選した。労働農民党・社会民衆党・日本労農党など無産政党は466議席中8議席しか得なかったが、日本共産党左派が労農党の背後で活動したと考えた時の田中義一政権(1927年4月~29年7月)は、28年3月15日、治安維持法を適用し、共産党員とそのシンパ約1600人の大検挙(3・15事件)を行った。4月16日にも大検挙(4・16事件)を行った。山宣は事件の犠牲者救援運動の先頭に立ち、全国各地を回り、被告の受けた「拷問」についての調査をし、これに基づき政府を徹底的に糾弾した。

 しかし、1928年6月29日、田中政権は昭和天皇の緊急勅令治安維持法を改悪し、最高懲役10年であったのを、無期及び死刑に改めた。枢密院で承認を受け、公布・即日施行した(7月には未設置の全県警察部に特別高等課設置)。

緊急勅令……天皇大権(天皇が議会の協力なしに行使できる権能)の一つ。緊急の必要により議会閉会中に天皇が発令し、法律に代わらせた勅令。ただし、事後に議会の承認を必要とした。

※勅令……国務大臣の輔弼のみにより議会の審議を経ないで制定される立法

 1929年3月5日、山宣は衆議院第56議会で、治安維持法改正(改悪)に反対(事後承認に反対)したが、討議打ち切りの「動議」を出されて発言を封じられ、249対170の票差で「事後承認」されてしまった。

 そしてその夜には、神田の定宿「光栄館」にいた山宣は、右翼の黒田保久二により襲撃され殺されたのである。部屋の壁には「戦争撲滅のため奮闘せよ」と書いた紙を貼っていた。

 さらに今日の主権者国民が驚くべき事は、警視庁(東京)特捜課長が、黒田を「正当防衛」と発表したのである。この事は検察庁をも驚かせたというが、神聖天皇主権大日本帝国政府の恐ろしさを示しているといえる。

 この事件の後、神聖天皇主権大日本帝国政府はファシズム化を強め、1931年9月18日には満州事変を引き起こし、中国東北部への侵略を本格化したのである。

(2020年5月3日投稿)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

衆議院議員の任期延長は戦前に1回、その後「翼賛選挙」強行へ、自公政権は緊急事態条項で議員任期延長への危険性

2024-05-03 18:24:27 | 帝国議会

 林銑十郎内閣時1937年4月30日に第20回衆議院総選挙が実施された。次回第21回は通常どおりでは1941年4月30日の予定であった。しかし、1940年7月22日に成立した第2次近衛文麿内閣(~1941年7月16日)は、日中戦争(1937年7月7日~1945年9月2日)下である事を理由にして「議員任期を1年延長」し、任期満了は1942年4月29日とした。そして、その間、第2次近衛内閣は「大政翼賛会」(1940年10月12日)を成立させ、陸軍大臣と内務大臣を兼任した東条英機内閣(1941年10月18日~1944年7月18日)が1942年2月18日に「翼賛(政府推薦)選挙貫徹基本要綱」を閣議で決定し、同年4月30日に「翼賛選挙」(第21回総選挙)を実施した。投票率は全国平均83.2%(前回73.2%)であった。

 神聖天皇主権大日本帝国東条内閣のこの総選挙における目的は、「大東亜戦争完遂」のため政府・軍部に全面的に協力する翼賛議会を確立し、議会勢力を再編成して「政治力の結集」を図る事であった。新聞の見出しは、「国民の熱意・翼賛一票に顕現、全国の投票頗る好調、征戦完遂へ一致邁進」と煽った。

 政府は部落会・町内会・隣組(隣保班)を動員し官民一体の一大啓発運動を展開し、最適候補者推薦(候補者推薦組織として翼賛政治体制協議会結成。推薦候補へは選挙資金臨時軍事費から流用)の機運を盛り上げた。政府がその基本方針を決め、運動全般を指導し、地方官庁は基本方針に応じて地方での運動を指導した。大政翼賛会翼賛壮年団や在郷軍人会がそれに協力して運動を展開した。

 地方の翼賛壮年団は1942年1月には「大日本翼賛壮年団」として全国組織化した。彼らは、非政府推薦候補者に、「親英米的」「自由主義者」「非国民」「反軍思想」などとレッテルを貼って攻撃した。鳩山一郎尾崎行雄片山哲中野正剛は「翼賛(政府推薦)選挙」を批判したため選挙妨害を受けた。また、内務省は、斎藤隆夫の8万数千枚に及ぶ選挙運動用の印刷物すべてを差し押さえた。警察は、非政府推薦候補者の選挙事務長や運動員を経済事犯として検挙し、選挙関係の書類や資金を押収した。またその選挙事務所を訪れた者を直ちに留置した。

 「翼賛選挙」では「選挙」は、国民にとって、政治に参加する権利行使ではなく、政府の政治に翼賛する義務とされた。ゆえに「棄権」行為は義務を怠る行為として厳しく非難された東京府当局は、「棄権」する者はその理由を隣組長報告するようにという通達を出した。

 選挙結果は、当選者総計は466人、推薦者381人(81.8%)、非推薦85人(18.2%)であった。1942年5月20日、政府は翼賛政治会を発足させた。帝国議会衆議院予算審議権立法権も実質的に大幅に制限された。

 清沢洌の『暗黒日記』(1943年7月22日)は「議会とは現地派遣軍に感謝決議を行うところである」と皮肉と憤りを記している。

追記:「衆議院議員の任期延長に関する法律」は1941(昭和16)年2月24日公布、即日施行された。現任衆議院議員に限り1年間延長する事や、現任衆議院議員の在任期間中は現職議員数が定数の3分の2未満にならない限り補欠選挙や再選挙を行わない事を規定。翼賛選挙(第21回総選挙)での議員改選により、この法律が対象とする議員がいなくなり実効性は喪失したが、1954(昭和29)年5月1日公布、即日施行の「自治庁関係法令の整理に関する法律」により廃止された。

(2022年12月16日投稿)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

憲法全面改正に手段選ばず見解も翻す歴史歪曲も。その③現憲法成立と天皇の暗躍

2024-05-02 18:01:28 | 憲法

  「大日本帝国憲法」の改正手続きにより第90回帝国議会で審議された「日本国憲法原案」は、1946年10月29日、内容は一部修正されて吉田茂内閣の下で成立した。その一部修正とは「芦田(均)修正」とも呼ばれたもので、「戦争放棄」を定めた第9条第2項に「前項の目的を達するため」という字句を追加した事をさす。(他の追加には第25条「生存権」もある。)この表現はのちに、「前項の目的(国際紛争の解決)」以外(自衛)のための戦力保持は憲法違反ではないという論拠となる。

 吉田茂は日本国憲法についてどのように考えていたのか。岸信介は『岸信介の回想』で述べているが、吉田茂は「俺も今の憲法は気に食わないけれど、あれを呑むよりほかなかったのだから、君らはそれを研究して改正しなきゃいかん」と述べたと。この言葉から、吉田茂は改憲論者であったという事がわかる。

 天皇は日本国憲法をどのように思っていたのであろうか。1975年の外国人記者団との会見では「(日本人の)戦前と戦後の(価値観は)変化があるとは思っていません」「第1条ですね。あの条文は日本の国体の精神にあった(合った?)事でありますから、そういう法律的にやかましい事をいうよりも、私はいいと思っています」「今話したように、国体というものが、日本の皇室は昔から国民の信頼によって万世一系を保っていたのであります。その原因というものは、皇室もまた国民を赤子と考えられて、非常に国民を大事にされた。その代々の天皇の思召しというものが、今日をなしたと私は信じています」「(戦前と戦後の役割を比較して)精神的には何らの変化もなかったと思っています」と述べている。つまり、天皇は戦前と戦後の価値観に変化はなく連続したものとして認識しており、第1条の意味は、「国民」は「無責任」の「象徴」である「天皇」を「象徴」として「統合」されているという事を意味しているという事になる。

 1945年12月17日に公布された「改正衆議院議員選挙法」について、天皇や支配層(米国もか?)の意識を知るうえで重要な点を付け加えておこう。女性参政権が付与された事はよく知られているが、植民地支配を受けていた朝鮮人、台湾人の選挙権及び被選挙権が停止されたのである。1925年の普通選挙実施以降この改正まで、日本内地に在住する外国人は、国政・地方のレベルを問わず参政権を有していた。ハングル投票も可能であったのだが。この「選挙法」に見える方針は、米国との共同作業であった憲法制定の段階でも日本側は押し通した。GHQ憲法草案には「外国人は法の平等な保護を受ける」という条文が存在したがそれを削除したのである。日本国憲法第14条には現在「法の下の平等」がうたわれているが、そこから意図的に削除したのである。この件は憲法施行の1947年5月3日の前日(5月2日)に天皇の最後の勅令として「外国人登録令」を出す事により、明確に憲法の権利保障の対象から除外するのである。「日本国籍」を有しているが「外国人」であると見なしたのである。さらに、1952年4月28日のサンフランシスコ講和条約の発効により、国籍選択の自由も認めず日本国籍をはく奪し、「外国人登録法」により、「指紋押捺」と「外国人登録証明書」の常時携帯を義務付けた。それ以降日本政府(自民党)の主導により日本社会は「国籍条項」に基づいて外国人に対する差別を正当化する。

 また、米軍の占領軍政下にあった「沖縄県」も「改正選挙法」の施行について日本政府は「例外扱い」とした。そのため、日本国憲法を審議した1946年の国会には沖縄県選出の議員はおらず、日本国憲法は沖縄県民を除外して成立したのである。そして、「日米安全保障条約」締結にあたっても同様に扱ったのである。

 また、「安全保障条約」締結については、締結にいたる裏側で「天皇」の暗躍があった。1947年5月3日に「日本国憲法」が施行された4か月後の1947年9月(天皇の暗躍は憲法違反であるにもかかわらず)、宮内庁御用掛の寺崎英成氏をマッカーサーの政治顧問シーボルトの下へ訪問させ、沖縄の将来に関する天皇の考えを伝えさせたそれは、

「天皇は、米国が沖縄その他の琉球諸島の軍事占領を継続するよう希望している。そのような占領は、米国に役立ち、また、日本に保護を与える事になる。天皇は、そのような措置は、ロシア社会主義)の脅威ばかりでなく、占領終結後に、右翼および左翼勢力が増大して、ロシアが日本に内政干渉する根拠に利用できるような事件を起こす事をも恐れている日本国民の間で広く賛同を得るだろう(憲法第9条により軍隊をもたないため、実は天皇制を護持しようとする天皇自身の強い希望)と思っている。さらに、沖縄(及び必要とされる他の島々)に対する米国の軍事占領は、日本に主権を残したままでの長期租借(25年ないし50年あるいはそれ以上)という擬制に基づくべきであると考えている。この占領方法は、米国が琉球諸島に対して永続的野心を持たない事を日本国民に納得させ、またこれにより他の諸国、特にソ連と中国が同様な権利を要求するのを阻止するだろう。手続きについては、「軍事基地権」の取得は、連合国の対日平和条約(サンフランシスコ講和条約にあたる)の一部をなすよりも、むしろ、米国と日本の2国間条約(日米安全保障条約に結実)によるべきである。前者の方法は、押し付けられた講和という感じがあまりにも強すぎて、将来、日本国民の同情的な理解を危うくする可能性がある」というものであった。

(2016年2月11日投稿)

※昭和天皇は戦後の日米両政府の望むべき姿について自ら構想し働きかけ、利害の一致した米国政府とともに、「天皇制護持(象徴天皇制)と軍隊放棄(憲法第9条)」と「日米安全保障条約締結」と「沖縄を犠牲にした米軍事基地化」を実現していったのである。昭和天皇は優しく親しみ安く善人そうな見かけとは異なり、本質は恐るべき冷酷非情で狡猾無比の策士「人非人」であった。現天皇も推して知るべしである。天皇家とはそういう人間の集団なのである。民主主義を大切にする国民はこのような「憲法に規定されない」特殊な価値観を持つ存在をこのままにして置かず、普通の人間の生活ができるようにすべきである。この事によって国民の思考や判断も「思考停止」状態に陥る事無く、すっきりとした科学的論理的なものとなり、曖昧模糊とした日本社会の価値観の混乱も解消されるはずである。

(2016年2月11日投稿)

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

憲法全面改正に手段選ばず見解も翻す歴史の歪曲も。その②GHQ草案を飲んだ天皇・幣原・吉田内閣の本音

2024-05-02 17:53:22 | 憲法

 1946年2月13日に外務大臣官邸で、GHQの指示で「憲法改正」についての会合を持つ事となった。日本側は吉田茂外相、松本烝治国務相、終戦連絡中央事務局長白洲次郎、外務省通訳長谷川元吉。GHQ側はホイットニー准将、ケーディス大佐、ハッシィ中佐、ラウエル中佐である。

 GHQは2月8日に松本烝治が提出した憲法草案「松本案」を拒否した。そして、マッカーサー(連合国軍総司令部総司令官)の「三原則」に沿ってGHQによって作成された「GHQ憲法草案」を4人に渡し受け入れるか否か検討して回答するよう求めた。その際、ホイットニー准将はマッカーサーの意思を伝えた(『ラウエル文書』、松本烝治『松本会見記略』)。そして、GHQは認否の回答期限を2月22日と定めた。

「あなたたちが知っているか否かは別にして、最高司令官は、天皇を戦争犯罪に関係があるとして尋問すべきだという声が他国のなかにあるが、その圧力から天皇を守ろうとしている。これからも最高司令官は守るでしょう。しかし、その努力には限界があります。さしあたりこの憲法草案を受け入れる事で、天皇制は守られるという事になります。この憲法草案を受け入れる事こそ、あなた方の唯一の生き残りの道でもあるのです日本国民はこの憲法を選ぶか、こうした民主主義の原則を包含していない別な憲法を選ぶかの自由を持つべきだ最高司令官は判断しています」(『ラウエル文書』より)

上記のGHQ側の記録に対して、日本側の記録(松本烝治『松本会見記略』)では、 

「本案は内容形式ともに決して之を貴方に押し付ける考えにあらざるも、実は之はマッカーサー元帥が米国内部の強烈な反対を押し切り、天皇を擁護申し上げる為に、非常なる苦心と慎重の考慮を以て、之ならば大丈夫と思う案を作成せるものにして、また最近の日本の情勢を見るに、本案は日本民衆の要望にも合するものなりと信ずといえり」としている。

 つまり、「日本の為政者に対して、天皇は戦争犯罪を問われている、日本の為政者が、その地位と権力の源泉である天皇と天皇制に基づく国家体制を守りたいのなら、マッカーサーが守ると言ってるから、GHQ改正草案を受け入れる事をすすめる、日本国民の要望にも応えられる内容のものだから」というわけである。マッカーサーは『スターズ・アンド・ストライプス』(1946年2月15日)に、「天皇の命を救ったのは自分だ。当時の世界の世論は、天皇は日本の侵略戦争の最高責任者であるから、当然国際裁判にかけて絞首刑に処すべしという世論が圧倒的であったけれども、自分は、天皇を絞首刑にすると、日本の労働者や学生や日本人民大衆が勢いを得て、人民主権の民主主義の徹底的実現を要求し、とても占領軍がこれを抑える事ができないであろうと考え、むしろ自分が天皇の生命を救う事によって、天皇をして占領軍に協力させる事が占領政策上もっともよろしいと判断したのだ」と述べていた。

 米国におけるギャラップ社の世論調査(1946年6月初旬)では、「戦後、日本国天皇をどうすべきであると考えますか」という質問に対し、

①殺害する、苦痛を強いる餓死……36% ②処罰もしくは国外追放……24% ③裁判に付し、有罪ならば処罰……10% ④戦争犯罪人として処遇……7% ⑤不問、上級軍事指導者に責任あり……4% ⑥傀儡として利用……3% ⑦その他……4% ⑧意見なし……12%、となっており、米国民は天皇に対して厳しい処分を望んでいた。

 また、米国だけでなく、ソ連オーストラリアなど連合国内部には天皇の責任を問う声が強かった。

 先の会合後の2月19日、松本国務相は「閣議」でGHQの「憲法草案」について詳しく報告をした。それは「彼らの作成せる原案は、この憲法は人民の名によって制定する、天皇には統治権もなければ主権もない、総理大臣は議会が任命する、任命された総理大臣は各大臣を任命して議会の承認を得る事、貴族院は廃止されて衆議院の一院となる事など、あたかもソビエト(ソ連)の言いそうな、またドイツのワイマール憲法のような、主権は人民にありというので、現行憲法を改正せんとするにあらずして、むしろ、革命的な連合軍司令部より、この憲法によって民主政治を樹立すべしと命令せらるるに少しも異ならない……」というもので、天皇主権の国家体制を否定されている事に憤慨している。

しかしすでにマッカーサー(米国政府)は、日本の占領統治を進めやすくするために、主権をもつ「天皇制」を主権をもたない「象徴天皇制」に変更し存続して利用しようとしていた(1946年1月25日、アイゼンハワー大統領あての電報)。さらに米国は、東西冷戦下で、日本を共産主義の防波堤として利用するためにも天皇は重要であると考え、象徴天皇としようとした。

 同年2月21日、幣原喜重郎首相がマッカーサーに面会した。幣原はGHQ憲法草案で天皇が「シンボル」とされているを、「元首」としたいと伝えている。その意図は、同じく「人民」とされているのを今まで帝国憲法通り「臣民」のままにしておきたかったのである。その時マッカーサーは幣原に「48時間以内に回答を持参」するよう要求した。

 同年2月22日、幣原は閣議に、「主権在民と戦争放棄は、総司令部の強い要求です。憲法改正はこれに沿って立案するよりほかにない。それ以外はなお交渉を重ね、こちらの意向を活かすように努める。そうご了承賜りたい」と報告した。天皇制の護持のためには、GHQ憲法草案を受け入れて天皇をシンボルとする事と、戦争放棄に同意したのである。そして、閣議を中止し、天皇へ報告をした。それに対して天皇は「最も徹底的な改革をするが良い。たとえ天皇自身から政治的機能のすべてをはく奪するほどのものであっても全面的に支持する」と述べた。それを聞いた後閣議を再開し、閣僚に伝えた。全員反対せず、松本国務相も「やむなし」と納得した。ここで重要な事は、米国政府と天皇と日本の支配層それぞれの思惑利害が一致したという事であり、それが日本国憲法として結実するのである。

※これより前の1月1日に、天皇はマッカーサーのすすめにより、俗にいう「人間宣言」を発表していた。正式には「新日本建設に関する詔書」詔勅)という。天皇の戦争責任追及をかわすためと、戦後の日本の国家体制も天皇が作るのであり、それは大日本帝国(天皇制民主主義)なのだという事(戦前国家の再生)、を国民に明示する事を目的としたものであった。「宣言」(詔勅)については、1977年8月22日の那須御用邸での記者会見で「あの詔勅の第1の目的は五箇条の御誓文であった。神格(否定)とかは2の問題であった。民主主義を採用したのは明治大帝の思し召しであり、それが五箇条の御誓文で、それがもとになって大日本国憲法ができた。民主主義は決して輸入のものではない事を示す必要があった。日本の誇りを国民が忘れると具合が悪いと思い誇りを忘れさせないために、明治大帝の立派な考えを示すために発表した。」と述べている。何という厚顔無恥、無責任、狡猾、傲慢な態度である事か。 

 GHQ憲法草案を受け入れた天皇や幣原政府(支配者)は、英文の草案を日本語に訳し、手直しして「日本政府草案」(英文)として3月4日にGHQ側に提示した。幣原政府の翻訳については、ジョン・ダワー『敗北を抱きしめて』によると、

「『人民の意志の主権』を強調したGHQ 憲法草案の前文を省略し、家族制度の廃止を条文化した条項を削除、衆議院の権威を制限するような参議院の創設を提案し、中央政府による支配を容易にするように地方自治に関する条項を変更していた。さらに政府は、多くの人権保障に関する条項を、時には大日本帝国憲法を連想させるような決まり文句を挿入する事で骨抜きにした。言論、著作、出版、集会、結社の自由は、今や『安寧秩序を妨げざる限りに於いて』のみ保障され、検閲は『法律の特に定むる場合の外』には行わない事になった。労働者が団結したり、団体交渉したり、集団行動をする権利も同様に『法律の定むる所に依り』という文言で束縛された。また、外務省が準備したGHQ憲法草案の当初の訳文では『people』を『人民』(米国では当たり前)としていたが、松本らはそれをやめて、本質的に保守的な用語である『国民』という用語を採用した」とし日本政府の抵抗を暴露している。

 ※「前文」は松本らはこれを入れるつもりはなかったが、GHQは譲らなかった。

 幣原政府による「日本政府草案」は、GHQと幣原内閣の間で相互の意思を確認しながら交渉が重ねられた末に作成されGHQは了承した。幣原政府は「GHQ了承案」を3月6日に閣議で正式に承認し、国民にも発表され、天皇は勅語を発表した。その内容(部分)は、

「国民の総意を基調とし、人格の基本的権利を尊重するの主義に則り、憲法に根本的改正を加え、以て国家再建の礎を定める事をこいねがう」と納得している。

 幣原首相はこの勅語について「「わが国民をして世界人類の理想に向かい同一歩調に進ましむるため、非常なる御決断を以て現行憲法に抜本的改正を加える事を了解した」と述べている。

 マッカーサーも声明を発表し、「この憲法は、5カ月前に余が内閣に対して発した最初の指令以来、日本政府と連合国最高司令部の関係者の間における労苦に満ちた調査と、数回にわたる会合の後に起草されたものである」と述べている。

 1946年4月10日、幣原政府の下で敗戦後初の衆議院議員選挙が実施され、保守の日本自由党が第1党となった。5月22日には吉田茂内閣が成立した。第1党は自由党の総裁は鳩山一郎であったが、GHQ に反抗的とみなされ、GHQによる軍国主義者の公職追放により組閣できず(幻の鳩山内閣)、衆院の議席を持たなかった吉田茂が「大命降下」による最後の首相として就任した。石橋湛山は大蔵大臣となったが公職追放となった。

 6月2日、吉田政府は第90回帝国議会に「日本国憲法原案」を提出した。その時の吉田は「皇室の御存在なるものは、これは日本国民、自然に発生した日本国体そのものであると思います。皇室と国民の間には何らの区別もなく、いわゆる君臣一如であります。君臣一家であります。国体は新憲法によっていささかも変更せられないのであります。」と述べた。

(2016年2月9日投稿)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする