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天声人語「プラカード事件」(食料メーデー);「過激な言い回しに共感はできない」は国民生活実態の認識に誤り

2024-05-10 22:23:03 | 労働組合

 「プラカード事件」は、GHQ天皇国民の権力関係を象徴的に示した事件であった。

 「天声人語」の筆者はなぜ、「プラカード」の実際の文言の最初の部分に「国体はゴジ(護持)されたぞ」という文言が書かれていた事を紹介しなかったのだろう。そして、なぜそれ以下の文言を「過激な言い回し」と感じ、「風刺精神」として理解しているのだろう。このような体裁の記事にしたのは、おそらく読者に対する情報操作を目的としたものであろうと推測する。

 2017年1月26日の天声人語は、1946年5月19日「飯米獲得人民大会」(食料メーデー)に起こった「プラカード事件」に触れていた。「プラカード」の文言を「朕はタラフク食ってるぞナンジ人民飢えて死ねギョメイギョジ」と紹介し、筆者は「過激な言い回しに共感はできないが、底にある風刺精神だけは胸に残った」と書いている。

 「プラカード」の文言は正しくは、「詔書 国体はゴジ(護持)されたぞ、朕はタラフク(腹一杯)食ってるぞ、ナンジ(汝)人民飢えて死ね、ギョメイギョジ(御名御璽)」である。

 「国体護持」については、天皇は「終戦の詔勅」で「『忍び難きを忍』んで降伏し『国体を護持し得』た事を喜び、『神州の不滅を信じ』、今後いよいよ『誓って国体の精華を発揚』する事を国民に求めていたのであり、天皇制維持の一点以外のすべては問題としていなかった」事は事実であり、天皇家の食生活が豪華であった事も事実であった。それに対し国民の食生活は「竹の子生活」といわれ、敗戦直後からインフレはますます進んでいた。また、敗戦年の産米は風水害・天候不順・肥料不足などのために記録的な凶作となっていた。農民は安い供出にまわすより高い闇値で売り、生活維持に懸命であった。消費者は主食難となった。また、軍隊や軍需工場からの復員者により購買力の一時的増加、敗戦直後、臨時軍事費からの軍需品の未払い代金や注文打切りによる補償金などが一時に支払われた。しかし、物資は極端に不足しており、インフレは高進した。食糧不足は多くの国民を死に追いやり、栄養失調者を多く出していたのである

 また、朝日新聞の45年11月2日の記事や、同年12月12日の投書欄「声」にも上記と同様の悲壮な国民生活の状況を示す記事が載っている。

 プラカード事件は、1946年5月19日に、皇居前広場で、労働戦線統一世話人会の呼びかけで行われた「飯米獲得人民大会」(食料メーデー、25万人参加)の後のデモ行進で上記のプラカードが掲げられた事により起こった。 大会では「上奏文」も採決された。内容は「わが日本の元首にして統治権の総攬者たる天皇陛下の前に謹んで申します。私達勤労人民の大部分は今日では三度の飯を満足に食べておりません。空腹のため仕事を休む勤労者の数は日毎に増加し今や日本の総ての生産は破滅の危機に瀕しております。しかも現在の政府はこの現状に対し適切な手段を取る事無く、権力を持つ役人、富を握る資本家や地主達は食糧や物資を買い溜めて自分達だけの生活を守っているのであります。このような資本家地主の利益代表者たる政府並びに一切の日本の政治組織に対し、私達人民は少しも信頼しておりません。日本の人民は食糧を私達自身の手で管理し日本を再建するためにも私達人民の手で日本の政治を行おうと決心しております。……人民の総意を御汲み取りの上、最高権力者たる陛下において適切な御処置をお願い致します」というものである。

 さて政府は、プラカードを掲げた松島松太郎(当時、日本共産党田中精機細胞所属)を起訴した。検事側の起訴理由は「之を観る者をしてあたかも天皇が敗戦にも拘わらず、国体が護持された事に痛く満足し、当面の食糧危機に際しても自ら独り飽食し、飢餓に瀕せる人民大衆をあえて顧みない、冷酷無情の人柄であるが如き感を抱かしめ、ひいては天皇の名誉を毀損するに足る文言を表示した」というものであった。

 それに対して被告・弁護側の反論は「プラカードの文言は、いわゆる天皇制に対する政治的批判を風刺的に表明したに過ぎない……不敬罪は日本政府がポツダム宣言を受諾し、降伏文書に調印した時点で実質的に失効しており……名誉毀損は親告罪であるのに天皇が告訴していない」というものであった。

 このような動きに対してGHQ(マッカーサー)は、事件翌日の5月20日の「暴民デモ許さず」の声明発表につづいて、政府側の不敬罪存続と適用の意向を却下した。

 しかし、1946年11月2日、東京地裁は「名誉毀損罪を適用し懲役8カ月の実刑」の判決を言い渡した。判決理由は「プラカードの表現は天皇制の政治批判というよりは、野卑低劣、侮辱的、煽動的であり、天皇に対する嫌悪感情を誘発する事を意図しており、名誉毀損に当たる。天皇の親告がなくても検事が代わって告訴できる」としたのである。さらに、46年11月3日の新憲法公布にともなう「大赦令」により「免訴」とした。

 被告・弁護側は「免訴」を不服とし、有罪そのものが不当・無効であるとして、東京高裁に「控訴」した。

 吉田茂首相(1946年5月22日~、衆院の議席を持たず「大命降下」で就任した最後の首相、議院内閣制によるものではない)は1946年12月末、マッカーサーに書簡を送り、執拗に「不敬罪」の存続を求め、それが無理ならせめて「大逆罪」だけは残したい旨を伝えた。マッカーサーは47年2月末、吉田首相あての返書で「不敬罪を含む皇室に対する罪の全面削除」を助言した。

 47年6月28日、東京高裁は「不敬罪には国家存立のためのものと、天皇個人の名誉毀損(特別名誉毀損罪)とがあるが、ポツダム宣言などで消失したのは前者であり、プラカードの表現は天皇の誹毀誹謗の行為に当たる。この行為は日本国ならびに日本国民統合の象徴にひびを入らせ、刑法不敬罪の名誉毀損の特別罪に当たる」として、不敬罪の成立を認めた上で、「大赦令」による「免訴」を言い渡した。

 被告・弁護人憲法違反として最高裁に上告した。不敬罪は47年10月26日に廃止された。

 48年5月26日、最高裁は「大赦によって公訴権が消滅した以上、実態上の審理はできなくなり、免訴の判決を下すのみである。したがって被告人も無罪の判決を求める事はできない」として上告棄却した。

GHQが被告側を支持したのは、「万人は法の下に平等であり、特定の階級が特別の法的保護を受けるべきではないという立場であって、デモそのものを支持したのではなかった」

※民間企業と比較して賃上げが遅れていた公務員は、46年11月に全官公庁労組共同闘争委員会を結成し、47年1月18日、吉田内閣打倒・人民政府樹立をめざして、同年2月1日に無期限ゼネストに突入する事を宣言した。それに対してマッカーサーは同年1月31日、「二・一ゼネスト中止を命令し、声明を発表した。

(2017年1月28日投稿)

 

 

 

 

 

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自公政権が蹂躙破壊する国権の最高機関「国会(立法権)」に思う尾崎行雄のことば

2024-05-08 00:51:52 | 自公政権

 尾崎行雄(1859~1954)は、神聖天皇主権大日本帝国政府時代、1913年第一次憲政擁護運動の先頭に立ち、政友会と第1次山本権兵衛内閣(1913年2月~1914年3月)の妥協に反対し脱党。次の第2次大隈重信内閣(1914年4月~1916年10月)の法相。憲政会に属したがすぐ離党し、以後孤高の政治家といわれた。大正後期には普通選挙運動婦人参政権運動を支持し尽力。軍縮推進運動、治安維持法反対運動など一貫して軍国化に抵抗、反軍演説を行った斉藤隆夫除名反対(棄権)し議会制民主主義を擁護する姿勢を示した。昭和に入ると次第に「反軍的」とされ、1942年第21回衆議院議員総選挙(翼賛選挙)には大政翼賛会「非推薦」で出馬したが当選。しかし、翼賛選挙での田川大吉郎の応援演説で、翼賛選挙「批判」を行ったなかに引用した川柳「売家と唐様で書く三代目」が昭和天皇の治世を批判するものであると見做され1943年不敬罪起訴された(最高裁で無罪)。アジア太平洋戦争敗戦後、新国会は名誉議員の称号を贈った。「憲政の神様」。

尾崎行雄の著『憲政の危機』から彼の「議会」についての言葉を一部抜粋して以下に紹介しよう。

「元来議会なるものは、言論を戦わし、事実道理の有無を対照し、正邪曲直の区別を明らかにし、もって国家民衆の福利を計るために開くのである。しかして投票の結果が、いかに多数でも、を転じてとなし、を変じてとなす事はできない。故に事実道理の前には、いかなる多数党といえども屈従せざるを得ないのが、議会本来の面目であって、議院政治国家人民の利福を増進する大根本は、実にこの一事にあるのだ。しかるに……表決において多数さえ得れば、それで満足する傾きがある。すなわち議事堂は名ばかりで実は表決堂である。」

(2024年1月19日投稿)

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4月28日は沖縄「屈辱の日」。米国占領下の沖縄県は北緯27度線が日本国との国境だった。

2024-05-07 14:08:06 | 沖縄

 今年ももうすぐやってくる4月28日は、日本の第3次吉田茂内閣(自由党)が1951年9月8日に調印したサンフランシスコ講和条約が翌年発効した月日である。沖縄県民はこの日を「屈辱の日」としている。吉田内閣は日本本土の主権を回復するために、沖縄県民を引き続き米国の支配下に置く選択をしたのである。吉田内閣は主権を回復するために、米国政府に対し沖縄県民を日本本土のスケープ・ゴート(犠牲の山羊)として差し出したのである。この選択はこれより以前すでに、新憲法の下では政治的行為を認められていない昭和天皇連合国軍最高司令官マッカーサーなどに伝えていた「天皇の意志」そのものを表していた。

(沖縄県についての「昭和天皇の意志」……1947年9月GHQ政治顧問シーボルトの「マッカーサー元帥のための覚書」。宮内庁御用掛・寺崎英成が「天皇のメッセージ」として伝えたもの)

寺崎氏は、米国が沖縄その他の琉球諸島の軍事占領を継続するよう天皇が希望している、と言明した。天皇の見解では、そのような占領は、米国に役立ち、また、日本に保護を与える事になる。天皇は、そのような措置は、ロシアの脅威ばかりでなく、占領終結後に、右翼および左翼勢力が増大して、ロシアが日本に内政干渉する根拠に利用できるような事件を引き起こす事をも恐れている日本国民の間で広く賛同を得るだろうと思っている。さらに天皇は、沖縄(および必要とされる他の島々)に対する米国の軍事占領は、日本に主権を残したままでの長期租借─25年ないし50年あるいはそれ以上─の擬制に基づくべきであると考えている。天皇によると、このような占領方法は、米国が琉球諸島に対して永続的野心を持たない事を日本国民に納得させ、また、これにより他の諸国、特にソ連中国が同様な権利を要求するのを阻止するだろう。手続きについては、寺崎氏は、(沖縄および他の琉球諸島の)「軍事基地権」の取得は、連合国の対日平和条約の一部をなすよりも、むしろ、米国と日本の2国間条約によるべきだと、考えていた。寺崎氏によれば、前者の方法は、押しつけられた講和という感じがあまり強すぎて、将来、日本国民の同情的な理解を危うくする可能性がある」

 このような経緯をへて、サンフランシスコ講和条約の第3条に基づき下記の地域が日本国から分離された。

「日本国は、北緯29度以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を含む)、嬬婦岩の南の南方諸島(小笠原群島、西之島及び火山列島を含む)並びに沖ノ鳥島及び南鳥島合衆国を唯一の施政権者とする信託統治制度の下に置く事とする国際連合に対する合衆国のいかなる提案にも同意する。このような提案が行われ且つ可決されるまで、合衆国は、領水を含むこれらの諸島の領域及び住民に対して、行政、立法及び司法上の権力の全部及び一部を行使する権利を有するものとする。」

 その後順次、上記の地域は日本復帰してゆく。1952年2月4日には北緯29度以北の十島村(現十島村)が日本復帰。1953年12月25日には北緯27度以北の奄美諸島が日本復帰。1968年には小笠原諸島、南鳥島、沖ノ鳥島が日本復帰した。そして、1972年5月15日には北緯27度以南与那国島までの琉球諸島が日本復帰した。

 同じ南西諸島に属する、奄美諸島の日本復帰と琉球諸島のその時期には約10年の年月があった。その間、奄美諸島以北は日本国であり、琉球諸島は米国であって、北緯27度線をもって国境と定められ、パスポートを持って行き来しなければならない関係に置かれた。琉球諸島沖縄県民は祖国復帰をめざす動きの中で、1960年には沖縄県祖国復帰協議会結成した。運動の盛り上がり中で、1963年からは、北緯27度線上での海上集会(1969年まで)を開始し、奄美側からもたくさんの人が船に乗ってきて、海上で紙テープを投げ合って繋がり、絆を確かめ合った。しかし、日本復帰後、現在まで、日米両政府は沖縄県を軍事的植民地として扱い、日本政府(自公政府)自体が沖縄県(民)を日本国憲法適用外の県(民)のような扱いを続けている。

(2022年4月11日投稿)

 

 

 

 

 

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政府主催の憲法記念式典は1952年5月の施行5周年が最後、独立後は実施しない意味

2024-05-05 22:17:15 | 憲法

 現行「日本国憲法」は、第1次吉田内閣が1947年5月3日に「施行」してから今年2024年5月3日で77周年を迎えた。ところで、第1次吉田内閣は1946年11月3日の「公布」に際して、皇居前広場において「憲法公布記念式典」を主催実施し、施行に際しても「憲法施行記念式典」を主催実施している。ちなみに、公布に際しては「君が代」斉唱がなされたが、施行日及び施行記念日には、憲法理念普及活動の一環として政府が設置した「憲法普及会」の選定した「憲法音頭」とともに、作詞・土岐善磨、作曲・信時潔(戦争中には「海行かば」を作曲した)の新憲法施行記念国民歌「われらの日本」を斉唱させた

 そして、第3次吉田内閣1952年5月3日には、「サンフランシスコ平和条約発効(4月28日)ならびに憲法施行5周年記念式典」を主催実施している。しかし奇妙な事に、第4次吉田内閣は翌年の1953年5月の憲法施行6周年記念式典の実施を取りやめた。新聞報道では、内閣審議室が「衆議院総選挙の直後でまだ特別国会が開かれていないので式典を催しても国会議員代表の参加を求められないから」とか「憲法の意義は国民の間に相当に理解されて来たから特別の行事をする必要は薄くなった」とか「今後は10周年、15周年という切りの良い時に大規模にやりたい」などと説明している。しかし、それ以後「政府主催」の記念式典を実施していない。つまり、政府は憲法施行記念式典を5周年までしか主催実施しなかったのである。「独立」を達成すると以後は、「憲法施行記念式典」を主催実施しなくなったのである。政府は、「独立」を達成さえすれば、新「憲法」施行を記念し、国民に新「憲法」を積極的に普及させていくという使命感責任放擲したという事なのである。政府にとって新「憲法」は、そのように位置づけられていたという事である。新「憲法」の制定は「本音」を隠した「建前」であったのだ。そしてその結果が今日の自公政権に見られる神聖天皇主権大日本帝国政府への回帰をめざす政治姿勢であり政策であり、今日の日本国民の置かれている社会情況に表れているのである。

(2024年5月2日投稿)

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松本烝治の2院(衆参)制の意図とGHQの拒否

2024-05-04 16:55:47 | 国会

 マッカーサー憲法草案では、国会衆議院だけの「1院制」を支持しており、「貴族院」は廃止し、これに類似のものも禁止していた。日本政府(幣原、第1次吉田内閣)神聖天皇主権大日本帝国政府下の貴族院制度は若干の手直しで済むだろうと考えていたため、2院制の採用についてGHQと執拗に交渉した。交渉の担当者であった松本烝治国務大臣は交渉の結果、議員公選という条件で「参議院」の設置を認めさせる事に成功した。その設置交渉をしぶとく行った意図は、政府独立後、「参議院」を敗戦前の「貴族院」に復活させようという思惑を持っていたからである。それを思わせる発言を、松本は「自由党」の「憲法調査会」で以下のように述べている。

2院制GHQ側も容認したが、私の考えたような参議院は不幸にして出来なかった。私は、全議員を直接選挙で選ぶのは考え物だ、地方議会を選挙母体として選んではどうか、また職域代表の趣旨で商業会議所などを母体にしてはどうか、なお他に推薦制を設け、政府が特別の独立委員会を設けて推薦してはどうか、もとの勅選議員の制度をある程度残すのも必要ではないか、などと考えていたが、これらはすべて拒否された」

  ちなみに日本政府がGHQに要望交渉して拒絶された事項は、神聖天皇主権大日本帝国憲法を実質的に残そうという性質のものであって、国民の大多数が要求したものではなかった。日本政府は国民の声を背にしてGHQ要望交渉したのではなく、大日本帝国憲法を生き残らせるためのを密室で練っていただけであり、政府が国民に対し新憲法ついての深い「議論を奨励した事は一切なかったのが実態であった。

(2024年5月4日投稿)

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