ハッチがいた日常

夫は病死、仕事も辞めて被災猫ハッチと暮らしたけれど、10年で終わってしまった。これからは本当の一人暮らしの日々。

両国界隈

2009年10月05日 09時28分10秒 | 日常

 昨日は母方の叔父の一周忌でした。私は夫と、浅草の寺にでかけました。昭和2年生まれだった母の兄弟は、母が一番早くがんで亡くなり、その後は母の姉、母の妹、そしてこの本家長男の母の弟が去年亡くなりました。唯一、終戦時に4歳だった叔父が元気でいます。お酒もタバコも大好きという長年福祉関係で働いてきた叔父はとてもユニークで、今年は一緒に父の13回忌に愛知県まで同行してくれ、また父の駒ヶ根高原美術館の展示にも一緒に行ってくれました。

 寺での一周忌法要のあと、両国に数名ずつタクシーで向かい、両国駅のすぐ近くのホテルベルグランデの2階のさくら亭という和食レストランで会食しました。久しぶりに会った従姉妹の近くの席に座り、無職の私たち夫婦も楽しくお酒もいただいちゃいました。そして、帰りに、例の叔父にせっかくだからと誘われて、叔父夫婦と私たち夫婦4人で下町散策に出かけたのでした。

両国駅  力士像

 まずは、近くの回向院。ここは随分と新しくなってしまい、昔猫を連れてきた面影が全然なかったのでした。でも、下町では犬猫が死ぬとここに連れてきていたのです。叔父が、学生のときに母が家で飼っていた猫が死んだとわざわざ電話してきたのだそうな。ミミという猫だったとか。八百屋だった本家の裏に住んでいたので、地続きみたいなものでした。八百屋は鼠対策でいつも猫がいたのです。

 回向院、改めて中をゆっくり見てみると、いろんな墓がありました。まず、鼠小僧次郎吉の墓。削るための石もわざわざ手前に鎮座していました。そして面白いことに、鼠小僧の墓に猫が寝ていました。首輪をしていて、この回向院の地域猫のようです。ほかには、中村勘三郎の墓。歌舞伎発祥の地とも言われるそうです。それに竹本義太夫の墓もありました。芸人が多く祀られているのですね。そして、猫塚。ホンモノの猫の墓だそうです。横の説明書きによると、江戸時代、病に倒れた魚屋の飼い猫が小判2両を持ってきて魚屋を助けたそうです。またもってこようとして商家の奉公人に見つかり、殺されてしまいました。それを知った魚屋が、商家に訳を話して、その猫の亡骸を引き取り、墓を立てて供養したとか。これが江戸っ子の昔話「猫の恩返し」となったのです。

   鼠小僧の墓の猫!

 回向院を出て、吉良邸屋敷跡に向かいました。道がわからなくなったので通りかかった人に尋ねたら、とても親切に教えてくれました。さすが、下町人情です。

 吉良邸の記念公園は実際の屋敷のほんの一部で、そこを出てしばらく歩くと、吉良屋敷の正面だったという記念板がありました。ここに実際にあの赤穂浪士討ち入りがあったと思うと、なんだかわくわくします。

 ところで、あの赤穂義士事件、皆さんはどう思いますか?確かに、義の行為だったでしょう、家臣は。でも、浅野内匠頭長矩はどうでしょう。ちょっといじめられたくらいで、あんな公の場で刀を抜くというのは、非常識です。吉良上野介って、悪人だったの?世間知らずな若い大名が、空気が読めない、すぐに切れるという結果だったのではと思います、私は。お金がなければないなりに、ご老人に甘えて好かれるようにすればよかったのに・・・。好物くらいは聞いておくべきでしたね。

 吉良屋敷跡を出て、南に前進し、竪川を渡って新大橋通りを渡り、芭蕉記念館に行きました。本所深川というのは、江戸時代は川向こうと呼ばれて「辺鄙」なところだったわけですから、吉良屋敷も、あの事件があって本所に移されたのでした。芭蕉の庵を深川に作ったというのも、まさに隠居そのものだったのでしょう。NHK時代劇の「慶次郎縁側日記」の高橋英樹演じる慶次郎の庵を思い浮かべるといいでしょうか。松尾芭蕉の俳句は、中高の教科書でもよく学んだものでした。隠密だったとされるけれど、真実はいかに?旅日記としては格調高くていいですよね。読み直してみようかな、奥の細道。

 こうして両国から深川まで歩き回り、腰痛が出ていた夫は逆にいいトレーニングになったといっていました。食後の運動としては最高で、楽しかったです。私の故郷ですから・・・。

 

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