原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

私は教員時代 “叱らない先生” と生徒間で名を馳せていた

2022年03月13日 | 人間関係
 本日は久しぶりに、朝日新聞「書評」ページよりエッセイの題材を得ることとする。



 その前に、表題に記した原左都子の私事から話を始めよう。

 基本的に私は短気な性格だが。

 教員時代に生徒を叱ろうとの発想が全く沸かない人種だった。
 周囲の教員を観察していると、これが凄まじい。 来る日も来る日も、生徒たちに罵声を上げて叱り散らす教員が少なくなかったものだ。
 
 おそらく、それこそが自分の職務と根本的に履き違えていたのだろう。


 この現象は、別の場面でも経験している。
 例えば2度目の大学時代に教育実習へ行った先の我が女性指導教師が、開口一番に私に言うには。 「私は生徒を怒れるんですよ! それは簡単です。 教室へ入るなり教卓を生徒名簿でバーーーン!! と思い切り叩きつければいいのです。そうすると生徒はビックリしてビビり、大人しくなります。」
 我が感想だが、(ちょっと、この女教師どうしたと言うの? おそらく“生徒を叱れて一人前、と勘違いしているのだろうなあ。)😨 

 あるいは、ずっと後に高齢域に入った私がプロ女性講師にフルート指導を依頼した際にも、同様の事を経験している。
 プロ講師曰く、「私は生徒を怒れます! 相手が年上の男性生徒とてそれを平気でできます!」
 その後、この講師の指導は半年で取りやめることと相成った。 とにかくフルート指導をするというよりは“ダメ出し”の連続で、一小節とて吹かせてくれずじまいだった故だ。
 (怒ってばかりいないで、とにかく私の下手な演奏を1コーラスだけでも我慢して聞いてよ!)と訴えたかったものだ。
 この講師と早期に縁を切って大正解だっただろう。

 
 話題を、我が高校教師時代に戻そう。

 ある時、教室の生徒の一人が授業中の私に声を掛けてくる。
 「先生、ホントは怒っているでしょ?」
 突然の質問に驚いた私が生徒に問うて曰く、「私が何かに対して怒っているように見える?」
 生徒応えて、「だって、他の先生ならばこんな場面で必ず怒り出すのに、先生も怒らないはずがない。」
 それに同意した他生徒達も、「そうだよ。先生は本当は怒っているんだよ!」
 私応えて、「そう言われても困るけど、特段怒ることは何も無いよ。」
 更に生徒達が言うには、「先生も生徒に腹が立ったら、怒っていいよ。」
 私も更に返して、「ホントに怒らねばならないことなんて何も無いよ。皆いい子ばかりだし、教室に授業に来るのがいつも楽しみだよ。」

 そんな私は、確かに学校一の人気教師だった。
 卒業式の最後に卒業生を送り出す場面では、いつも卒業生の多くが私のところへ一目散にやってきて、皆で泣きながら抱き合って別れを惜しんだものだ。



 さて、話題を朝日新聞「書評」に戻そう。

 本日紹介するのは、村中直人著「<叱る依存>がとまらない」に対する朝日新聞論説委員・行方史郎氏による書評「誰かを罰し脳は心地よくなる」だ。
 以下に、一部を要約引用しよう。

 執拗に𠮟責を繰り返す上司がいたとする。 先輩やコーチ、先生、親でもよい。 (中略)
 脳はだれかを罰することで心地よくなり、充足感が得られる。結果としてだれかを叱れずにいられない状態に陥る。まだ仮説の域は出ていないようだが、一言で言えば、これが本書の根底にある考え方である。
 著者が定義する「叱る」とは、言葉によって「ネガティブな感情体験を与えること」であり、その前提条件として、権力ある人が無い人におこなう「非対称性」を挙げる。
 その言葉は強い調子である必要は無く、丁寧な口調で不安や恐怖を感じさせることはいくらでも可能だ。
 「権力」の方も、自分で勝手に思い込んでいる場合を含めれば、広範な捉え方が出来る。社会問題にもなっている、わずかなことで店員を𠮟りつける客の存在も本書で説明できそうだ。
 それでも「叱らないと伝わらない」「忍耐力が身につく」と思うかもしれない。 だが、理不尽な我慢を強いて身につくのは無力感やあきらめの方だ。 被害者が加害者からなかなか離れなられなくなる「トラウマティックボンディング」という現象にも合点が行った。
 「処罰感情の充足」が社会制度に組み込まれるともっとやっかいだ。 むろん犯罪の被害者が抱く自然な処罰感情は尊重されるべきだが、本書が事例として挙げているように、社会が厳罰化に傾けば構成や再犯防止という目的を損ないかねない。

 (以下略すが、以上朝日新聞記事より一部を引用したもの。)


 最後に、私見でまとめよう。

 冒頭に記した、我が教員時代の教室での「先生は何故怒らないの?」事件など。
 “権力ある人(教員)が無い人(生徒)におこなう「非対称性」”に基づき、生徒側の感情が表出したものであろう。

 それにしても上記書評内にある、「脳はだれかを罰することで心地よくなり充足感が得られる。 結果としてだれかを叱れずにいられない状態に陥る。」
 まだ仮説の域は出ていないとの記述だが、実に空恐ろしい論評だ。

 しかもそれが人々が暮らす社会内の制度に組み込まれると、もっとやっかいである事に間違いない。

 それを阻止するのは、やはり如何なる社会的地位にあれども、人が人としての正常な感性を保ち続けることでしか無いのではあるまいか?
 特に学校等の教師・生徒間との上下関係がまかり通っている組織に於いて、そんな“勘違い”が起こってしまうのかもしれないが。

 如何なる環境下にあれども人が人としての感性を失わない限り、そんな“勘違い”を阻止できるものと、私は信じたい。