本日も、朝日新聞2022.03.19付「書評」ページから。
「ニールス・ボーア論文集1 因果性と相補性」に対する社会学者・大澤真幸氏による書評「ニールス・ボーア『因果性と相補性』」を取り上げる。
以下にその内容の一部を予約引用しよう。
この200年の学問歴史の中で最大の知識革新、それは量子論の登場にある。 量子論は物理学の基礎理論で、20世紀の前半、特に戦間期に何人もの物理学者の手によって次第にその姿を整えていった。 この運動の中心にいたのが、ニールス・ボーアだ。 量子論を認めなかったアインシュタインとの間の論争でも知られている。
以前は光は一種の波であることが分かっていた。回折・干渉など波としての現象を引き出す。 ところが、光は粒だと考えないと説明できないこともある、とわかった。 逆に電子は粒だが、波のようにふるまうこともあると明らかになった。
粒である事とな身である事は矛盾する。 例えば粒は同じ場所に二つ同時にいることは不可能だが、波は二つが重なり合って強めあったり弱めあったりする。 物質はしかし究極的には粒であり波である。 西田哲学風にいえば、絶対矛盾的自己同一。 これを認めるのが量子論である。 ボーアは波/粒の排他的な状態の二重性を「相補性」と呼んだ。 (中略)
とにかくこうなると。観測とは独立した物の客観的な性質や存在について云々できない、ということになる。
このように量子論が提起したのは、答えではなく哲学的な問いである。 そもそも存在とは何か、と。 私達は、人が観測するかとは無関係に物は実在すると考える。 実際そのはず。 しかし観測から独立に存在が定義できないとするとどうなるのか。 量子論の謎は、神から人間への致死性の毒が入った贈り物ではないか、と思うことがある。
(以上、朝日新聞「書評」ページより引用したもの。)
原左都子の私事及び私見に入ろう。
この私も2度目の大学入学後、この量子論(正確に言えば、私の場合は「量子力学的実在論」だが)にはまった。
2度目の大学にての我が専門は「経営法学」であり、大学院修士課程にて「経営法学修士」を取得している。)
今回の書評を書かれた大澤先生も、ご専門は「社会学」のご様子だが。
まさに「量子論」とは“存在とは何か” を問う哲学であり、学問に励む者は大抵この「量子論(量子力学的実在論)」を通過して来ているのではあるまいか??
「原左都子エッセイ集」公開初期頃の2007.11.15付バックナンバー「量子力学的実在の特異性」に於いて、その辺のエッセイを公開している。
その一部を、以下に振り返らせていただこう。
古典物理学の世界の中では、我々は世界を割り切って見ることに慣れてしまっている。何事であれ存在するか存在しないかのどちらかだと我々は思い込んでいる。ところが、量子力学の世界では物事の存在の解釈はそう単純ではない。
「シュレーディンガーの猫」という有名な実験仮説がある。 箱の中に毒ガス装置をつけておく。この装置から毒ガスが出るか出ないかはランダムな事態によって決まる。この装置の中に猫を入れる。毒ガスが出れば猫は死に、出なければ猫は生きているという状況が作られている。
古典力学によれば、箱を覗いたときに猫が死んでいるか生きているかのどちらかでしかなく、観測者がそれを確認すればよいだけの話である。
一方、量子力学によると事はそう単純ではない。観測するまでに猫が死んでいる確率と生きている確率は共に50%であり、どっちつかずの状態であるはずだ。ところが観測者が観測したとたんに死んでいるか生きているかのどちらかになってしまう。これを“波束の収縮”と呼ぶ。
量子力学では、何をもって観測というのかが問題となる。すなわち、どのプロセスで突然ジャンプしこの“波束の収縮”が起こるのかが議論の対象となる。 フォン・ノイマンは“波束の収縮”がどこで起ころうが結果は変わらず、何を観測とみてもよいことを数学的に証明した。
これに対し、観測は「意識」される時におかれると解釈する研究者は多い。この考え方には難点がある。それは「意識」が物理的に記述できないことである。
第一に、いったい誰の「意識」なのかが問題となる。
予定調和、すなわち神が元々世界をつじつまが合うように組み立てているという思想を持ち出す手もあるが、科学的にはナンセンスである。
最初の観測者の意識とすることもできるが、特殊相対性理論の「同時相対性」の考えでは複数の観測者のどちらが先であるかは相対的であり、決定できない。 第二に、「意識」を常に持っているのかについても疑わしい。“私”に「意識」があるとしても、これを“他人”に拡張できるのか、“動物”に拡張できるのかという問題点がある。
シュレーディンガーの猫の場合、当該猫に「意識」を持たせることが可能であるならば最初に観測するのは当該猫であるため、この猫が“波束の収縮”をもたらすと結論付けることができる。 ただ、これもナンセンスな考え方である。結果として観測に「意識」の概念を持ち出すことは問題が多いと言わざるを得ない。
そもそもこの“波束の収縮”は起こらないと考えるのが「多世界説」である。この説では、観測とは“観測者の分岐”であるとする。すなわち、観測者が生きている猫を観測した状態と死んでいる猫を観測した状態に分岐する、と考える。 経験的には観測者はひとりしかいないため常識からかけ離れた奇妙な説ではあるが、この説によると「意識」を持ち出す必要がないため、量子力学内で解決可能である。「多世界説」によれば存在するものすべてが量子力学で説明できるが、欠点は世界(分岐)が無数に増えてしまうことであり、シリアス性を欠いているという批判もある。
「シュレーディンガーの猫」の実験仮説を元に、量子力学的実在についてほんの少しだけ考察してきた。
ここで紹介しなかった他学説もまだまだたくさん存在する。
古典力学は、ただひとつの世界、あるがままの世界が存在していることを我々に教えてくれたが、量子力学はそれだけではない可能性を考慮する余地を我々に与えてくれる。合理的思考の限界を超えている量子力学的実在の世界に私は昔からはまっている。今回は、その一端を語らせていただいた。
(以上、我がエッセイ集 開設後間もない時期に公開した、学問研究カテゴリーエッセイを、再掲載したもの。)
20代、30代を過ぎてずっと現在に至るまで、学問研究を追求し続ける人生を歩んで来ている原左都子だが。
その原点となり、私のその後の学問遍歴に於ける重要な核心であった「量子力学的実在論」の一部分を、再度語らせていただいた。
「シュレーディンガーの猫」という有名な実験仮説がある。 箱の中に毒ガス装置をつけておく。この装置から毒ガスが出るか出ないかはランダムな事態によって決まる。この装置の中に猫を入れる。毒ガスが出れば猫は死に、出なければ猫は生きているという状況が作られている。
古典力学によれば、箱を覗いたときに猫が死んでいるか生きているかのどちらかでしかなく、観測者がそれを確認すればよいだけの話である。
一方、量子力学によると事はそう単純ではない。観測するまでに猫が死んでいる確率と生きている確率は共に50%であり、どっちつかずの状態であるはずだ。ところが観測者が観測したとたんに死んでいるか生きているかのどちらかになってしまう。これを“波束の収縮”と呼ぶ。
量子力学では、何をもって観測というのかが問題となる。すなわち、どのプロセスで突然ジャンプしこの“波束の収縮”が起こるのかが議論の対象となる。 フォン・ノイマンは“波束の収縮”がどこで起ころうが結果は変わらず、何を観測とみてもよいことを数学的に証明した。
これに対し、観測は「意識」される時におかれると解釈する研究者は多い。この考え方には難点がある。それは「意識」が物理的に記述できないことである。
第一に、いったい誰の「意識」なのかが問題となる。
予定調和、すなわち神が元々世界をつじつまが合うように組み立てているという思想を持ち出す手もあるが、科学的にはナンセンスである。
最初の観測者の意識とすることもできるが、特殊相対性理論の「同時相対性」の考えでは複数の観測者のどちらが先であるかは相対的であり、決定できない。 第二に、「意識」を常に持っているのかについても疑わしい。“私”に「意識」があるとしても、これを“他人”に拡張できるのか、“動物”に拡張できるのかという問題点がある。
シュレーディンガーの猫の場合、当該猫に「意識」を持たせることが可能であるならば最初に観測するのは当該猫であるため、この猫が“波束の収縮”をもたらすと結論付けることができる。 ただ、これもナンセンスな考え方である。結果として観測に「意識」の概念を持ち出すことは問題が多いと言わざるを得ない。
そもそもこの“波束の収縮”は起こらないと考えるのが「多世界説」である。この説では、観測とは“観測者の分岐”であるとする。すなわち、観測者が生きている猫を観測した状態と死んでいる猫を観測した状態に分岐する、と考える。 経験的には観測者はひとりしかいないため常識からかけ離れた奇妙な説ではあるが、この説によると「意識」を持ち出す必要がないため、量子力学内で解決可能である。「多世界説」によれば存在するものすべてが量子力学で説明できるが、欠点は世界(分岐)が無数に増えてしまうことであり、シリアス性を欠いているという批判もある。
「シュレーディンガーの猫」の実験仮説を元に、量子力学的実在についてほんの少しだけ考察してきた。
ここで紹介しなかった他学説もまだまだたくさん存在する。
古典力学は、ただひとつの世界、あるがままの世界が存在していることを我々に教えてくれたが、量子力学はそれだけではない可能性を考慮する余地を我々に与えてくれる。合理的思考の限界を超えている量子力学的実在の世界に私は昔からはまっている。今回は、その一端を語らせていただいた。
(以上、我がエッセイ集 開設後間もない時期に公開した、学問研究カテゴリーエッセイを、再掲載したもの。)
20代、30代を過ぎてずっと現在に至るまで、学問研究を追求し続ける人生を歩んで来ている原左都子だが。
その原点となり、私のその後の学問遍歴に於ける重要な核心であった「量子力学的実在論」の一部分を、再度語らせていただいた。
冒頭の大澤真幸氏による書評に戻ろう。
大澤氏は最後に「量子論の謎は神から人間への致死性の毒が入った贈り物ではないか、と思うことがある」と結ばれているが。
この「毒」を私も未熟なリにも味わえたことこそが、その後の我が学問人生をより充実させてくれたし。
その後の我が人生の更なる発展に繋がったと、今尚「量子力学的実在論」に触れることが叶った過去の事実に感謝し続けている。