原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

オミクロン株「BA5」急拡大中の郷里への旅 ー眉山ロープウェイと 阿波踊りミュージアム編 ー

2022年07月20日 | 旅行・グルメ
 (冒頭写真は、眉山ロープウェイから見下ろした徳島市街。)


 さて、郷里旅行2日目の午後には大雨は止んだ。

 この日の午後は、阿波踊り会館にて「阿波踊り」の実演を観たり、観客のひとりとして踊るつもりでいたのだが。
 残念ながら過疎地郷里でもオミクロン株感染が急拡大した模様で、スマホで検索すると阿波踊り実演ショーが中止となっている。

 やむを得ない。
 予定を変更して眉山ロープウェイに乗って眉山の頂上へ行ったり、阿波踊りミュージアムの見学をすることとした。


 まずは、眉山観光の写真を列挙しよう。

          


          

          

 これらの写真は、眉山頂上から山側を撮影したもの。 説明書きにある通り、郷里で一番高い「剣山」も展望できるようだ。

       
          

          

 こちらは、海側。 四国三郎「吉野川」が流れている。 右奥は太平洋。


          

 眉山は徳島市の中心街にある山で、麓に市街が広がっている。



 眉山を下りて、阿波踊りミュージアムへ向かった。

 このエントランスで、係員氏が写真を撮影して下さると言う。
 阿波踊り蝋人形が展示されている場所で、「阿波踊りを踊っているポーズをとって下さい。」との指示に従って。

           
 あのーーー。 言い訳ですが、私め少しは阿波踊りを踊れます。 それにしては変なポーズになってしまったことを悔やみますが。 まあ、他にも観光客がいた中で、私にお声を掛けて映して下さった係員氏に感謝です。😝 


 以下は、阿波踊りミュージアム内の撮影可能な展示物を列挙。

 阿波踊りの歴史を物語る展示物の数々。

           

           

           

           

 こちらは、阿波踊り連の浴衣やうちわ、提灯類の展示。
          

 阿波踊りにかかせない「鳴り物」類の展示もあった。
          


 どうやら今年は恒例の「阿波踊り大会」は定例期間8.12~8.15に、コロナ禍感染急拡大にもめげずに通常開催される様子だ。
 そうでもせずして県の財政が成り立たない程の「阿波踊り立県」である事情は理解できているが…

 どうか踊る側・観る側共々、参加される大勢の皆さんのご無事をお祈りします…
 

オミクロン株「BA5」急拡大中の郷里への旅 ー 徳島城博物館編 ー

2022年07月19日 | 旅行・グルメ
 (冒頭写真は、徳島城博物館の建物をネットより引用したもの。 何分、当日はドシャ降りの大雨で屋外での撮影が一切叶わず残念だった。)


 さてさて。

 今回の旅程の1日目午後は、観音寺のマチ子さんとの再会を有意義に果たし。

 本来2日目は、郷里の高齢者自立支援施設に暮らす実母の元を訪れる予定だったが。 あいにくオミクロン株「BA5」急拡大中につき、高齢者施設内への外部者立ち入り全面禁止措置が採られ、訪問を諦めた。

 その代替策として、何処へ行こうかと考えて思いついたのがこれだ。

 この徳島城博物館は、我が今回の駅ビル宿泊ホテルから徒歩圏内で行ける場所にある。
 しかもこの辺は汽車通学だった我が高校時代に日々通ったルートであり、懐かしくもある。
 この博物館は開館して30年程らしいのだが、私が高校へ通っていた頃にはもちろんまだ存在しなかった。
 それでもこの徳島城跡近辺の土地は高校時代からなじみがあるため、この博物館を見学することとした。


 あいにくこの日は、土砂降りの大雨だった。

 こんなに降るか!😭 、と鬱陶しく思いつつ博物館へ到着すると、はやり入場者がほとんどいなさそうだ。
 まあ空いてていいさ、程度に捉え一人で館内を回った。

 徳島城の全体模型があれば、徳島藩や藩主蜂須賀家に関する資料や数多くの美術品が展示されていた。

 
 この日は、「夏の企画展  蜂須賀家の名宝Ⅰ 徳島藩ゆかりの美術工芸」と題する特別企画展も開催されていた。


          

          

          



 そのような展示の中、今回私が一番面白かったのはこの「千山丸」の展示場でのことだ。

          

 この千山丸は国指定重要文化財であるが、これに関するネット情報を以下に引用しよう。
 
徳島藩御召鯨船千山丸
ふりがなとくしまはんおめしくじらせんちやままる
員数1艘
種別歴史資料
日本
時代江戸
年代安政4
西暦1857
作者
寸法・重量
品質・形状
ト書船尾に安政四年九月の刻銘がある
画賛・奥書・銘文等
伝来・その他参考となるべき事項
指定番号(登録番号)00080
枝番0
国宝・重文区分重要文化財
重文指定年月日1996.06.27(平成8.06.27)
国宝指定年月日
追加年月日
所在都道府県徳島県
所在地徳島市立徳島城博物館 徳島県徳島市城内1-8
保管施設の名称徳島市立徳島城博物館
所有者名徳島市
管理団体・管理責任者名

徳島藩御召鯨船千山丸

解説文:
江戸時代において、船舶の利用の多い諸藩では藩船を所持していたが、特に九州や瀬戸内地域の諸藩は多くの船舶を所有し、航行、造船、修理等のため船方(海上方、船手)の組織をもつていた。徳島藩は藩政時代に森氏一族が船舶と航行を統括していた。森氏は戦国時代以来水軍を掌握しており、その一族は藩内で中老として勢力を有し、海上方として参勤交代の際の海上輸送等の業務を取り仕切った。海上方の根拠地は、徳島城下安宅、椿泊(現阿南市)、淡路洲本、淡路岩屋の四か所にあったが、最も規模が大きかったのは安宅である。ここには主要船舶の格納施設(船倉)があり、船の建造・修理等を行う軍港として安宅御役所が置かれ、船舶に関する業務の一切を支配していた。
 千山丸は唯一現存する旧徳島藩船で、鯨船という船型の小型船である。日覆いの部材が残り、帆穴や舵穴もあり、帆走もできるようになっている。櫓は二本残っており、建造当時は六挺立てであったとみられるが、現状では四挺立てである。船体中央部には当初はなかったとみられる生簀状の設備があり、その他の現在では不明の仕口穴等もある。船首の水押両側に龍の浮彫装飾があり、水押先端には唐草模様に猪目のある装飾金物の甲金が冠せられる。両舷側(上棚)に左右対称の軍配団扇、羽団扇など団扇の彩色図が片身代わりの金箔地と群青色地の上に描かれている。また波よけ用の差板が両舷側にあり、沙綾型模様が施されている。船尾の戸立は、御召船であることを示す朱色が塗られ「安政四年巳九月 御船」の文字を刻む。
 鯨船はその名のとおり本来捕鯨用の船であり、九州から中国、四国、紀伊半島、房総半島等の地域で使用された。鋭角的な船首形状をもち、波に強い性能とともに、八挺櫓の快速船であるため、江戸時代中期以降は各藩の水軍で、指揮・連絡用、本船への乗船用等多目的に利用された。
 徳島藩所属の鯨船は六隻前後とみられるが、千山丸はその中で他の鯨船にはない華麗な装飾が施されており、藩の御用絵師森崎春潮筆「蜂須賀家御船絵巻」に他の主要な藩船とともに「千山御船」として描かれていることから藩主専用の御召船であったことが知られる。
 江戸時代には和船の技術により建造された多数の船舶が活躍したが、近代になり洋式船の採用によりそれらは急速に姿を消していった。千山丸は大名が用いた船として現在に残る唯一のものであり、出土品を除けば実際に使用された和船として最も古く、しかも建造年が明らかであり、日本の船舶史上等に貴重である。

 (以上、千山丸に関するネット情報を引用したもの。)

 
 この千山丸のコーナーは、博物館見学ルートの最後に位置するのだが。

 私がこの千山丸をよく分からないままに眺めていると、そこへ博物館の(おそらく)ボランティア男性説明員が私の近くへやってきた。
 そして上記引用文記載の事実等を、私に一生懸命告げてくれる。
 何分、聞き上手の私だ。😁 
 「へえ、そうなんですね!」「あら、面白いですね」などとテキトーに相槌を打っていた時に、説明員がおっしゃる。(以下に、かなり不正確だがその内容を引用しよう。)

 「外様大名は上位の国家の大名から邪険に扱われて、いつも苦労していたようです。 例えば、大嵐の時でも大海を船で渡って参勤交代に行かされたりして、多くの家来が遭難したり……」

 それを聞いた私がついつい反応して、「まるでプーチンにウクライナがやられているようですね。」
 説明員がすぐさま応じて、「プーチンはもうすぐ暗殺されますよ。」😱 
 (おーーー、大胆なご返答!! 面白い説明員だなあ。)

 この会話がしばらく続いただろうか。
 とにかく実に正直と言うのか気持ちが晴れるように直言される説明員に出会え、楽しい一時だった。

 船の隣が出口で、そこで説明員氏が「ありがとうございました。」とおっしゃるので、「こちらこそ、ありがとうございました。」と心よりお礼を言った。

 大雨の中の博物館訪問だったが、行った甲斐があったというものだ。
 

オミクロン株「BA5」急拡大中の郷里への旅 ー 蓮の花編 ー

2022年07月18日 | 旅行・グルメ
 (冒頭写真は、マチ子さんが連れて行って下さった観音寺近くのレンコン畑の蓮の花。 花の中央の“じょうろ”のような部分に関して、マチ子さんのお話ではこの中に種が沢山あるそうだ。 要するに、めしべ部分なのだろうか??)


 我が郷里はレンコンの特産地でもあるのだが。

 マチ子さんがお住まいの観音寺近辺に、広大なレンコン畑が広がっている。

 絵画を描いたり写真撮影の趣味のあるマチ子さんは、この花が咲く頃になるとそれを朝するのが日課だそうだ。

 そのレンコンの花を私に見せてあげたいとおっしゃって、車で連れて行って下さった。 



                     
           

           


           
 

           

 蓮の花は、満開に開いた大輪の花はもちろん美しいが。
 蕾状態の小さい花も実に可愛い。


           


           

 こんな、小さめの花も可愛くていいなあ。


           

 冒頭写真の、めしべ?部分のみが残った状態。



           

 写真の左側の建物は、マチ子さんの説明によれば農産物選別作業所とでもいうのか。
 農家で作られた農産物がここで大小等々の基準で仕分けされ、箱詰めされるらしい。
 左手前方に大型トラックが停車しているが。 これらトラックで、大鳴門橋経由にて京阪地方に輸送され、販売・消費されるとの談話だった。

 参考だが、奥の山々は阿讃山脈。



           
 
 こちらは、梨畑。
 我が郷里は梨の産地でもある。
 我が家の父方家系も過去には梨農家だったようで、広大な梨畑を所有する地主だったと聞いている。
 この写真の梨は未だ小さく、これからもっと大きく育ってから収穫されるらしい。

 (ついでだが、海に近い鳴門市の我が母方は代々“鳴門わかめ”養殖業を営んでいた。 残念ながら、母の代で私の叔父にあたる母の弟が若くして腎臓癌で亡くなって以降、後継ぎがおらずやむなく廃業している。)


          

 この木、何だろう? 運転中のマチ子さんに聞きそびれた。

 前回マチ子さんの観音寺を訪れた際にも見かけたが、随分と立派な大樹だ。



 最後に、こちらの写真は我が郷里医学部故恩師・中村先生他界後にマチ子さんが編集された「中村先生論文集」の中に掲載されている 蓮の花の写真。

          

 朝の時間帯だと、これだけ美しい蓮の花が撮影可能とのマチ子さんの談話でした。 
           

オミクロン株「BA5」急拡大中の郷里への旅 ー 観音寺の天井画 ー

2022年07月18日 | 芸術
 (冒頭写真は、マチ子さんの住居地でもある観音寺の天井画の一部。)


 郷里の観音寺の話題が続くが。


 2年半前に伺った時にも、観音寺の天井画の素晴らしさに唸ったものだ。
 当時は、さほどこの絵画に関して詳細を伺う時間が取れなかった。


          

          


          


          

 今回、この天井画に関する話をマチ子さんより伺って驚かされた。

 これらは何と、絵画を描く趣味を持つマチ子さんご本人を含め、その師匠をはじめとする絵画仲間が描いた作品の数々だとおっしゃるではないか!


 そしてマチ子さんは、今尚その絵画活動を続行されていている、との談話だった。


 いやはや、天才だった我が医学部恩師 中村先生の奥様・マチ子さんも、やはり天才であられることを実感させられた一幕だった。
         

オミクロン株「BA5」急拡大中の郷里への旅 ー マチ子さんが暮らす観音寺の風景 ー

2022年07月17日 | 旅行・グルメ
 (冒頭写真は、マチ子さんの一人住まいのご自宅でもある観音寺内部から前庭を眺めた風景。)


 私が郷里の観音寺を訪れるのは、今回が2度目である。

 以前にも記したが、私と観音寺のマチ子さんとの馴れ初めに関して今一度説明させて頂こう。
 
 我が医学部時代の故恩師のご実家がこの観音寺だ。
 中村先生とおっしゃったが、この方元々“天才肌”の人物であられた。
 医師・医学博士にして、過去には国内初のインフルエンザワクチンの研究開発にかかわられた実績をお持ちだ。
 我が学生時代にも、実に熱心に医学学問や実習をご指導頂いた。
 そのお蔭をもって私は医学関連企業へ就職後も即戦力としての活躍が叶い、職場長の地位に就くことが叶っている。
 
 その後年月が流れ、中村先生は81歳にて他界されるに至っている。
 他界後、奥様のマチ子さんが中村先生の医学関連等々の研究業績をまとめられた小冊子を制作され、中村先生の生前の指示に従って中村先生ご指定の宛名まで送付されたとのお話だが。

 実にありがたいことにその送付先に我が名が連なっていたとの事で、我が手元にもその研究業績集が届けられることと相成った。
 その御礼を丁寧に述べた手紙をマチ子さん宛に送らせていただいたところ、すぐさまマチ子さんより返信を頂き、中村先生がご生前に私の話「優秀な学生だった」等々…、をよくされていたとの逸話をお書き下さっていた。
 これに感激しない訳も無く、またもやその返信にて、「郷里帰省時には是非とも観音寺に立ち寄り、マチ子さんにお会いしたい」旨の我が意を述べさせていただいたものだ。
 そして、マチ子さんとの初対面が叶ったのが2年半前の冬だった。

 やたら馬が合う相手とは不思議と世に存在するもので、その訪問時にマチ子さんとはすぐさま意気投合し、話が大いに弾んだ。
 「またお会いしましょう!」
 とお互いに約束を交わした矢先に、コロナ禍に突入し…

 そして今回は、2年半後のマチ子さんとの再会と相成った。



 今回撮影した観音寺本堂内部の写真の一部を今一度公開しよう。 

          


          


          


  こちらは、本堂から眺めた外部の写真。

          



          
  お寺の境内にある故中村先生のお墓。

          
  観音寺周辺の風景。


 ちなみに、現在はマチ子さんのご長男がこの観音寺の住職を継がれているとのこと。
 残念ながら別居にてのご住職であり、普段はマチ子さん一人で広いお寺に暮らしておられ、「寂しい…」とおっしゃるお気持ちが我が心にも伝わる…

 ちなみに、ご次男は私が卒業した地元の医学部にて学業に励まれ、大学病院の医師になられて現在バリバリにご活躍との事で超ご多忙らしく。 現役医師とは緊急出勤が多いため大学病院から5km以内に住まねばならず、ご次男とも別居中。
 これまたマチ子さんの寂しさの根源であるようだ…