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     原発再稼働に向けての卑劣な策動    只今

2012年01月15日 16時29分17秒 | Weblog
  ●見かけだけ装う「委員会」
  「原発の再稼働に関しては、推進派だけでない委員会を設置する」
  と原子力安全・保安院が自賛して設置した委員会(意見聴取会)は、
  蓋を開けてみたら、9人のうち推進派でない委員は、井野博満(東大教授)と後藤政志(格納容器設計者)の2人だけ。

  最近、良心的な役所では5対5の構成もみられるが、
  それでも最後は委員長の裁決によって役所の意向に添うようになっている。
   この委員会が今月6日に開かれた。
  ちょうど、ストレステストをする三菱重工から献金をうけている3人の委員のことが報道された直後だったので、
   このことについて井野委員から資格についての疑義がだされると、
  岡本(東大教授)委員は「名誉毀損だ」
  保安院は「少しでもまずいことがあったら辞めてもらうというのでは、委員のなり手が限定されてしまう」〈議事録〉。

  ●何故、突然に「IAEA」が来日を?
  こうしたこともあり、長引かせては拙いと政府・推進派が急遽うった姑息な手が
  「原発テストの妥当性検証のために、IAEA調査団が23日にも来日」(『朝日』15日付)
  IAEAが持っている役割は二つあり、
  一つは、核兵器を現在の保有国以外には持たせないことであり、 
  二つには、産業界の要諦として平和利用という美名の下、原発推進に務めることであり、原発をチェックすることではない。
  「保安院は18日に開く意見聴取会で、大飯3、4号機の安全性に大きな問題はないとの評価案を示す見込み」(『朝日』15日付)

  ●『中日=東京新聞』と『京都新聞』だけが報じたこと
   来日中の欧州連合の原発ストレステストに関わったブルガリア原子力安全庁のカスチエフ元長官はこう語った。
   =審査のやり方、事業者の報告書が非公開であることなど、
    国民の批判をかわすための言い訳にすぎない欧州のストレステストと
    同じ問題が日本にも当てはまる」
    。
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改めて、「僕が政治論以外も書くわけ」   文科系

2012年01月15日 01時59分44秒 | 文化一般、書評・マスコミ評など
改めて、「僕が政治論以外も書くわけ」   文科系

 表記のことを、改めてまとめてみたい。随筆、サッカー評論などなど一見関係ないようなことを僕はなぜここに書いてきたか。ここが始まった6年前からしばらくはかなり気にしていたことだが、最近はあまりこれを書いたことがなかったと思いついて。

 僕がまだ若い頃から、こんなことが当時の大学で当たり前であった左翼の世界の常識のように広く語られていた。「外では『民主的な夫』、家での実質は関白亭主。そんなのがごろごろ」。そういう男たちの政治論に接する機会があると、正直どこか斜めに構えてこれを聞いていたものだ。どんな偉い左翼人士に対しても。レーニンの著作にたびたび出てくるこういった内容の言葉も、そんなわけでなぜか身に染みて受け取れたものだった。
「どんな有力な反動政治家の気の利いた名演説や、そういう反動政治方針よりも、恐るべきものは人々の生活習慣である」
 こういう僕の身についた感覚から僕の左翼隣人、いや人間一般を観る目も、いつしかこうなっていた。その人の言葉を聞いていてもそれをそのままには信じず、実は、言葉をも参考にしつつその人の実生活がどうかといつも観察していた。誤解されては困るが、これは人間不信というのではなくって、自分をも含んだ以下のような人間認識と言ってよい。人は一般に自分自身を知っているわけではなくって、自分の行為と言葉が知らずに自分にとって重大な矛盾をはらんでいることなどはいっぱいあるものだ、と。こういう人間観は実は、哲学をちょっとでもまじめに学んだことがある者の宿命でもあろう。哲学史では、自覚が最も難しくって大切なことだと語ってきたのだから。ソクラテスの「汝自身を知れ」、近代以降でもデカルトの「私は、思う(疑う)。そういう私も含めてすべてを疑う私こそ、まず第一に存在すると言えるものだ」などは、みなこれと同じことを述べているものだ。

 さて、だとしたら政治論だけやっていても何か広く本質的なことを語っているなんてことはないだろう。そんなのはリアリティーに欠けて、ナンセンスな政治論ということもあるし、「非現実的話」「非現実的世界」もはなはだしいことさえもあるわけである。それでこうなる。生活も語ってほしい。その人の最も生活らしい生活と言える、好きなこと、文化活動なんかも知りたい。どういう人がその論を語っているかということもなければ、説得力不十分なのではないか、などなどと。もちろん、何を書いてもそれが文章である限りは嘘も書けるのだけれど、その人の実際や自覚のにおいのしない政治論だけの話よりはまだはるかにましだろうし、随筆なんかでもリアリティーのない文章は結構馬脚が顕れているものだと、などなど、そういうことである。
 やがて、こんな風にも考えるようになった。幸せな活動が自分自身に実質希薄な人が人を幸せにするなんて?とか、人の困難を除くことだけが幸せと語っているに等しい人の言葉なんて?とか。そういう人を見ると今の僕は、まずこう言いたくなる。人の困難を除くよりもまず、自分、人生にはこれだけ楽しいこともあると子孫に実際に示して見せてみろよ、と。

 なお、以上は政治論だけをやっているのだと、人生の一断面の話だけしているという自覚がある論じ方ならばそれはそれでよく、五月蠅いことは言わない。だが、当時の左翼政治論壇では、こんなことさえ語られたのである。「歴史進歩の方向に沿って進むのが、人間のあるべき道である」と。つまり、政治と哲学が結びついていたのだ。それどころか、戦前から政治が文学や哲学や政治学、そういう学者たちの上位に君臨していたと言える現象のなんと多かったことか。
 そんなわけで僕は、当時では当たり前であった大学自治会には近づいたことがなかった。そして、左翼になってからもこの「政治優位哲学」には常に距離を置いていたものだった。これはなぜか僕の宿痾のようなものになっていた。

 なお、こういう「公的な場所」に「私的な文章」を載せるなんて?という感覚も日本には非常に多いはずだ。こういう「公私の峻別」がまた、日本の公的なもののリアリティーをなくしてはいなかったか。公的発言に私的な事を入れると、まるで何か邪な意図があるに違いないとでも言うような。逆に日本ではもっともっとこんな事が必要なのだろう。政治をもっと私的な事に引きつけて、随筆風に語ること。正真正銘の公私混同はいけないが、私の実際に裏付けられないような公(の言葉)は日本という国においてはそのままでは、こういったものと同等扱いされることも多いはずだ。自分の子供をエリートにするためだけに高給をもらっているに等しい文科省官僚の公的発言、「貴男が男女平等を語っているの?」と連れ合いに冷笑される亭主。

 ややこしい内容を、舌足らずに書いたなと、自分でも隔靴掻痒。最近のここをお読み頂いている皆様にはどうか、意のある所をお酌み取り頂きたい。なお僕の文章はブログも同人誌随筆も、ほぼすべて連れ合いや同居に等しい娘にもしょっちゅう読んでもらっている。例えば、ハーちゃん随筆などは、彼らとの対話、共同生活の場所にもなっている。






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