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首相らの乱暴な主張  文科系

2013年04月25日 14時44分59秒 | 国内政治・経済・社会問題
 中日新聞によれば、24日、安倍晋三首相が靖国参拝問題に関わって、参院予算委員会で例によってこんなことを語ったそうだ。
『尊い英霊に尊崇の念を表する自由を確保していくのは当然のことだ』
『国益を守り、歴史や伝統の上に立った誇りを守ることも私の仕事』
 麻生副総理もこう答弁したらしい。
『祖国のために尊い命を投げ出した人に政府が敬することを禁じている国はない。国民として当然の努めだ』

 これらの発言、そこに流れる考え方がとても乱暴な内容だと感じ、思った内容を書き記してみたい。

 戦前と戦後が同じ「国」として連続してきたものならば、これらの言葉も許容できるかも知れない。が、日本の場合、戦前と戦後は全く異なった国だった。国と言う場合、国土は荒れ果てたとはいえともかくも同じものだが、国民(の扱い)と国家体制とが戦後に激変したのが、日本という国だからである。天皇主権(憲法)から国民主権(憲法)へ。赤紙一枚で大君のために死ぬべき運命にある「国民」は、憲法上では国民ではなく「臣民」と名付けられていたはずである。よって安倍氏らが「英霊」と呼んだ人々は国家的・第一義的には、天皇のために死んだのであって父母、国民のために死んだのではなかったと言える。また、この天皇主権が国民への暴力によって支えられた体制であったことも、歴史学上既にはっきりしたことだろう。治安維持法や不敬罪等の国家暴力の猛威の名残がなかったなら、戦後に天皇制は維持できなかったと僕は思う。

 さて、現内閣がこうして、違う国家を同じ国家のように語っているのは明白である。よって僕はこう返すしかない。
「英霊」はやはり開戦を決意した天皇を守るためにこそ殺された犬死という側面が第一義的なのであって、諸個人に押しつけられた死をおおいに悼みはしても当時の「死の大義」を全く尊崇は出来ない、と。むしろ逆に、よく語られるように犬死にと観ることこそ彼らの死を生かすことになるはずだ、とも。将来の母子をもう泣かせないようにしていこうなどという意味、方向でのことである。これが正しい見方だということは、本土、天皇のために全くの全員犬死を強制させられかけた沖縄で、犬死感が最も強いという事実によって示されている。
 こうして、戦前の国家伝統などにはその第一義を認められないから誇りとは逆の屈辱感しか持てないし、靖国参拝が『国民として当然の努めだ』などとは、とんでも無く偏った、愚かな主張、考え方であると言いたい。
コメント (5)
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