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新聞の片隅に載ったニュースから(183)   大西五郎

2015年01月10日 20時09分03秒 | Weblog
村山談話と別表現に 首相新談話で菅氏が認識(15.1.10 中日新聞)

菅義偉官房長官は九日のBS番組で、戦後七十年の節目に合せ、安倍晋三首相が出す首相談話に関して、過去の植民地支配と侵略に痛切な半生と心からのおわびを表明した戦後五十年の村山談話と同じ表現にならないとの考えを示した。
菅氏は番組で、戦後六十年の小泉談話でも引き継がれたおわびの気持や、植民地支配と侵略に対する反省という言葉は残すのかどうかと問われた。これに対し、「同じものをやるなら、新たに談話を出す必要はない。安倍首相は戦後のおわびを含めて、全体として引き継ぐと明言している」と述べた。
新たに盛り込む内容としては「戦後七十年で、日本は世界に例のない平和と自由、経済成長を成し遂げた国で、そうした歩みはアピールすべきだ。これから未来志向で日本の将来をどうするかということも含めた談話になる」と述べた。

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菅官房長官の「(村山談話や小泉談話と)同じものをやるなら、新たに談話を出す必要はない」という表明は重要な内容を含んでいると思います。
安倍首相は「全体として村山談話、(従軍慰安婦問題についての)河野談話を引き継ぐ」と言っています。「二つの談話を引き継ぐ」ではなく、わざわざ「全体として」と付け加えるのはどういう意味でしょうか。「そっくりそのままではありませんよ」と宣言しているように思えます。
安倍首相は「侵略の定義は定まっていない」と国会で答弁しました。つまり中国やアジア諸国への侵略はなかったと言いたいのが本心です。
ところが、新聞の記事でも、テレビのニュースでも、この「全体として」が何を意味するかを、安倍首相や菅官房長官に直接問い質していません。取材をした記者はどう受け取っているのでしょうか。疑問を感じていないのでしょうか。読者、視聴者としてもどかしさを感じています。
菅官房長官の説明からは、戦前・戦中の反省・謝罪よりは安倍首相の言う「積極的平和主義」を前面に押し立てたいようですが、アメリカからは「村山談話や河野談話は日本が近隣諸国との関係改善に努める上で重要な一章だった。歴史に関する懸念を解消するため対話を通じた友好的方法で近隣諸国と協力し続けてほしい」(国務省サキ報道官)と、反省と謝罪を明確にするよう求められています。
新しい談話については有識者会議を設置して検討するといわれますが、どのような有識者を集めるかも問題です。安倍首相は集団的自衛権の行使を検討ために安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会を設置しました。北岡伸一国際大学学長、中西寛京都大学教授、葛西敬之JR東海会長ら安倍人脈といわれる人が委員になりました。集団的自衛権の行使容認の結論が出ることは最初から分かっていました。談話の有識者懇も安倍首相の意に添うような意見の“有識者”が集められるのではないでしょうか。公正な結論が出るのでしょうか。
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反米保守さんへのお応え(2) 天皇の戦争責任も   文科系

2015年01月10日 10時47分12秒 | 歴史・戦争責任・戦争体験など
 アベノミクス反論の前に、もう一つ標記のこともお応えしておきたい。
 以下の資料によれば太平洋戦争は1941年11月5日の(秘密)御前会議よりずっと前、9月5日にすでに決まっていたのだ。以下のように天皇が重大な決断を下しているからである。9月6日の御前会議で決まった「帝国国策遂行要領」を、前日5日に以下のように原案内定をしていたのである。すると、これから12月8日までは全て、秘密・不意打ち開戦に向かっていかに敵を欺くかということにしかならなかったと言える。
 重ねて、これで戦勝国裁判だとか、「押し付け」憲法だとだけ、「被害」の方ばかりよく語れるもんだと、僕はネトウヨ諸君を見てきたよ。戦前日本って、国際法に無知だったというか、全く無視した暴力だけとか、そんな歴史学者たちの批判もある。まー、対内的にもファシズムだったのだから、理屈をかなぐり捨てた暴力だけということなのだろうが。


【 太平洋戦争、右翼のデマに(番外編 その2)  文科系
         2010年11月22日 | 歴史・戦争責任・戦争体験など

太平洋戦争と天皇

 表記のことについて、右翼の方々はこのブログでもこのように語られてきた。天皇の統治権は形式的なものであって、戦争政策においても実際に何かを決めたというわけではない、と。そのことについてこの本(岩波新書日本近現代史シリーズ10巻のうち、その6「アジア・太平洋戦争」、著者は、吉田裕・一橋大学大学院社会学研究科教授)はどう書いているか。それをまとめてみたい

1 軍事法制上の天皇の位置 「統帥権の独立」

『統帥権とは軍隊に対する指揮・命令の権限のことをいうが、戦前の日本社会では、大日本帝国憲法(明治憲法)第11条の「天皇は陸海軍を統帥す」という規定を根拠に、この統帥権は天皇が直接掌握する独自の大権であり、内閣や議会の関与を許さないものと理解されていた。
 明治憲法上は、立法権、行政権、外交権などの天皇大権は、国務大臣の輔弼(補佐)に基づいて行使されることになっており、統帥権だけが国務大臣の輔弼責任外にあるという明文上の規定は存在しない。それにもかかわらず、天皇親率の軍隊という思想の確立にともない、制度面でも統帥権の独立が実現されてゆく。1878(明治11)年の参謀本部の陸軍省からの独立、1893(明治26)年の軍令部の海軍省からの独立、1900(明治33)年の陸海軍省官制の改正などがそれである』
『一方、参謀本部と軍令部(統帥部と総称)は、国防計画・作戦計画や実際の兵力使用に関する事項などを掌握し、そのトップである参謀総長と軍令部総長は、陸海軍の最高司令官である「大元帥」としての天皇をそれぞれ補佐する幕僚長である。この場合の補佐は、国務大臣の輔弼と区別して輔翼とよばれる。国務大臣は、憲法に規定のある輔弼責任者だが、参謀総長・軍令部総長は、憲法に明文の規定がない存在だからである。
 軍事行政と統帥の二つにまたがる「統帥・軍政混成事項」については陸海軍大臣が管掌したが、国務大臣としての陸海軍大臣も統帥事項には関与できないのが原則であり、参謀本部・軍令部は、陸軍省・海軍省から完全に分立していた。以上が統帥権の独立の実態である』

2 「能動的君主」としての天皇
9月6日決定の「帝国国策遂行要領」

『統帥に関しては、「能動的君主」としての性格は、いっそう明確である。天皇は、参謀総長・軍令部総長が上奏する統帥命令を裁可し、天皇自身の判断で作戦計画の変更を求めることも少なくなかった。また、両総長の行う作戦上奏、戦況上奏などを通じて、重要な軍事情報を入手し、全体の戦局を常に把握していた(山田朗『大元帥 昭和天皇』)。通常、統帥権の独立を盾にして、統帥部は首相や国務大臣に対して、重要な軍事情報を開示しない。陸海軍もまたお互いに対して情報を秘匿する傾向があった。こうしたなかにあって、天皇の下には最高度の軍事情報が集中されていたのである』
 そういう天皇であるから、重大な局面ではきちんと決断、命令をしているのである。本書に上げられたその実例は、9月6日御前会議に向けて、その前日に関係者とその原案を話し合った会話の内容である。まず、6日の御前会議ではどんなことが決まったのか。
『その天皇は、いつ開戦を決意したのか。すでに述べたように、日本が実質的な開戦決定をしたのは、11月5日の御前会議である。しかし、入江昭『太平洋戦争の起源』のように、9月6日説も存在する。この9月6日の御前会議で決定された「帝国国策遂行要領」では、「帝国は自存自衛を全うする為、対米(英欄)戦争を辞せざる決意の下に、概ね10月下旬を目途とし戦争準備を完整す」ること(第1項)、「右に並行して米、英に対し外交の手段を尽くして帝国の要求貫徹に努」めること(第2項)、そして(中略)、が決められていた』
 さて、この会議の前日に、こういうやりとりがあったと語られていく。

前日9月5日、両総長とのやりとりなど
『よく知られているように、昭和天皇は、御前会議の前日、杉山元参謀総長と水野修身軍令部総長を招致して、対米英戦の勝算について厳しく問い質している。
 また、9月6日の御前会議では、明治天皇の御製(和歌)、「四方の海みな同胞と思ふ世になど波風の立ちさわぐらむ」を朗読して、過早な開戦決意を戒めている。
 ただし、天皇は断固として開戦に反対していたわけではない。海軍の資料によれば、9月5日の両総長による内奏の際、「若し徒に時日を遷延して足腰立たざるに及びて戦を強ひらるるも最早如何ともなすこと能はざるなり」という永野軍令部総長の説明のすぐ後に、次のようなやりとりがあった(伊藤隆ほか編『高木惣吉 日記と情報(下)』)。
 御上[天皇] よし解つた(御気色和げり)。
 近衛総理 明日の議題を変更致しますか。如何取計ませうか。
 御上 変更に及ばず。
 永野自身の敗戦直後の回想にも、細部は多少異なるものの、「[永野の説明により]御気色和らぎたり。ここに於いて、永野は「原案の一項と二項との順序を変更いたし申すべきや、否や」を奏聞せしが、御上は「それでは原案の順序でよし」とおおせられたり」とある(新名丈夫編『海軍戦争検討会議議事録』)。ここでいう「原案」とは、翌日の御前会議でそのまま決定された「帝国国策遂行要領」の原案のことだが、その第一項は戦争準備の完整を、第二項は外交交渉による問題の解決を規定していた。永野の回想に従えば、その順番を入れ替えて、外交交渉優先の姿勢を明確にするという提案を天皇自身が退けていることになる』
 こうして前記9月6日の「帝国国策遂行要領」は、決定された。つまり、対米交渉よりも戦争準備完整が優先されるようになったのである。続いて10月18日には、それまで対米交渉決裂を避けようと努力してきた近衛内閣が退陣して東条内閣が成立し、11月5日御前会議での開戦決定ということになっていく。この5日御前会議の決定事項とその意味などは、前回までに論じてきた通りである。】
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安倍政権は「戦前」のはじまり      らくせき

2015年01月10日 09時39分14秒 | Weblog
何事にも始まりはあります。
先の戦争体験をもとに平和を大切にしてきた自民党政権。
今は転換点にきています。
それが「積極的平和」という平和の顔をかむっている点が
かろうじてイチジクの葉の役割をはたしています。

安倍政治の本質は沖縄県知事に対する態度によく表れています。
自分の気に入らないものに対する差別。
すくなくとも沖縄県民の意志を体現した人に対する非礼は政治家として失格。
「公」としての政治を「私」物化しています。





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