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反米保守さんへのお応え(1)  文科系

2015年01月08日 13時59分00秒 | Weblog
 反米保守さんに主として2つの事を述べたい。
 一つは、「アジア・太平洋戦争とその処理の問題に関わって」。
 もう一つは、現世界経済情勢とアベノミクスに関わる問題だ。
 まず今回は前者についてあつかい、過去エントリーを上げておく。ここに見ただけでも、これだけの国際法違反を重ねてしゃにむに「戦争?」までもって行った国が、その戦後処理についてよく国際法違反とかなんとかばかりを語れるもんだと、まず言いたい。戦勝国が裁いたとかおしつけ憲法とかはまー一応言えはするだろう。が、その前にとんでもない国際法違反を重ねた「アジア・太平洋戦争」を胸に手を当てて考えてみることが必要ではないか。でないと他国と上手く行くわけがない。アベの誤りの根源も全てここの理解に発していると思うから、今改めて過去エントリーを再掲する。なお、ここで言い足らない部分については、ここまで4回の連載を参照されたい。2010年11月15、16,17,18日に掲載してある。


【 太平洋戦争、右翼のデマに(番外編)
        2010年11月20日 | 歴史・戦争責任・戦争体験など

 しゃにむに、密かに、不意打ち開戦

 前回のこのまとめ部分は、日米の戦争責任論議における最重要点だから、説明が要りますね。
「なお、この(1941年11月)5日の御前会議の存在は、東京裁判の当初の段階では米軍に知らされていなかったということです。ハルノートとの関係、「日米同罪論」との関係で秘密にしておいた方が都合良かったと、著者(岩波新書「シリーズ日本近現代史10巻」のうち「第6巻 アジア・太平洋戦争」、第6巻の著者は吉田裕一橋大学大学院社会学研究科教授)は解明していました」

 米国務長官ハルの覚書が駐米日本大使に手交されたのが41年11月26日、外務省がこれを翻訳して関係方面に配布したのが28日でした。対して当時の日本政府はその行動を、このように説明してきました。ハルの、この4要求を「最後通牒」で「高圧的」と断定。それゆえ「自存自衛の為」(12月8日、宣戦の詔勅)の開戦を、12月1日の御前会議で決定、と。誰が考えても、国の運命を決めるような大戦争の決断経過としては動きが急すぎて、不自然です。この不自然さを、著者の吉田氏はこう解明していきます。

 そもそも1国務長官の覚書とは、1国の最後通牒などと言える物では、到底ない。よって、10月に退陣した近衛内閣が進めていたように、アメリカとの条件交渉の余地はまだまだ充分過ぎるほどに存在していたのである。対して、入れ替わったばかりの東条内閣が、ハル・ノートを最後通牒と断定し即戦争を決めたように語られてきたわけだが、これは完全に日本のあるタクラミに基づいている。その狙いは、
・生産力で10倍を遙かに超える差がある強大なアメリカの戦争準備が整わぬうちに、戦争を始めたかった。日中戦争進展にともなって臨時に大増強した太平洋周辺戦力はアメリカを上回っていたからだ。
・それも、完全に油断させておいて、不意打ちで開戦したかった。日本側は、十二分に準備を整えておいた上で。
・東条内閣は、発足20日も経たぬ11月5日の御前会議でもう12月初頭の開戦を決めていて、戦争にまっしぐらだったのである。その日に決まった「帝国国策遂行要領」をその証拠として、著者はこう書いている。
『「帝国は現下の危局を打開して自存自衛を完うし大東亜の新秩序を建設する為、此の際、英米欄戦争を決意し左記措置を採る」とした上で、「武力発動の時期を12月初頭と定め、陸海軍は作戦準備を完整す」と決めていた。引き続き外交交渉を継続するとされていたものの、実際には、その性格は開戦決意をカムフラージュするための「欺騙外交」としての側面をつよめてゆくことになる』
 なお、前にも述べたように、この11月5日の御前会議は、東京裁判当初までアメリカには隠されていたものである。以上のように軍人内閣のやり方は、「出来るだけ速く、密かに、しゃにむに戦争へ」「相手とは交渉を続けるふりをして油断させつつ」「それも、相手に知られない不意打ちで」というものであって、このことはその4にまとめた以下の事実によっても証明されている。
【『よく知られているのは、真珠湾への奇襲攻撃である』。開始8日午前3時19分、対米覚書手交4時20分というものだ。この点については従来から、こういう説があった。対米覚書の日本大使館における暗号解読が遅れたとされてきたのだ。これにたいする本書の解明はこうなっている。
『外務省本省は13部に分かれた覚書の最終結論部分の発電をぎりぎりまで遅らせただけでなく、それを「大至急」または「至急」の指定をすることなしに、「普通電」として発電していたことがわかってきた』】
 

 「アジア・太平洋戦争」の開戦原因に関わる経過を、最後にもう一度まとめておく。
1「日本が、中国侵略から南部仏印侵略へという動きを強行した」
「このイギリス権益の侵害に対してなされた、アメリカによるたびたびの抗議を無視した」
「こういう日本の行為は、ドイツの英本土上陸作戦に苦闘中のイギリスのどさくさにつけ込んだものでもあった」
この間の上記の経過は、本書では結局、こうまとめられている。
『結局、日本の武力南進政策が対英戦争を不可避なものとし、さらに日英戦争が日米戦争を不可避なものとしたととらえることができる。ナチス・ドイツの膨張政策への対決姿勢を強めていたアメリカは、アジアにおいても「大英帝国」の崩壊を傍観することはできず、最終的にはイギリスを強く支援する立場を明確にしたのである』

2 そのアメリカに対しては、交渉するふりをして、その太平洋周辺戦力が不備のうちに、不意打ち開戦の準備を進めていった。
 その直前の様相は、こういうことであった。
『(41年7月28日には、日本軍による南部仏印進駐が開始されたが)日本側の意図を事前につかんでいたアメリカ政府は、日本軍の南部仏印進駐に敏感に反応した。7月26日には、在米日本資産の凍結を公表し、8月1日には、日本に対する石油の輸出を全面的に禁止する措置をとった。アメリカは、日本の南進政策をこれ以上認めないという強い意思表示を行ったのである。アメリカ側の厳しい反応を充分に予期していなかった日本政府と軍部は、資産凍結と石油の禁輸という対抗措置に大きな衝撃をうけた。(中略)以降、石油の供給を絶たれて国力がジリ貧になる前に、対米開戦を決意すべきだとする主戦論が勢いを増してくることになった』 】
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琉球新報の社説      らくせき

2015年01月08日 09時40分54秒 | Weblog
安倍政権は県知事選と衆院選の県内選挙区で完敗した意味をよく理解できていないのではないか。そうとしか思えない振る舞いだ。
 サトウキビ交付金に関して県が上京中の翁長雄志知事と西川公也農相の面会を求めたのに対し、農林水産省はこれを断った。
 農水省は日程を理由としたが、農相はJA関係者の要請には応じ、自民党の地元国会議員が同行している。閣僚への面会では一般に与党議員が仲介し、知事らが同行することが多いが、翁長知事は呼ばれなかった。自民党側が排除した形だ。
 県の要請を断った農水省の対応は極めて遺憾であり、県民の代表たる知事に対する官庁の対応として問題含みだ。農相らは官邸の顔色をうかがっているのだろう。
 昨年末、就任あいさつで上京した翁長知事に対し、安倍晋三首相や菅義偉官房長官らは会わなかった。今回の対応もその延長線上にあるが、翁長知事への冷遇が県民感情をさらに悪化させている現実が首相らには分からないようだ。
 米軍普天間飛行場の辺野古移設阻止を掲げて知事選で大勝した翁長氏との対話を拒むその姿勢は、その公約を支持した多くの沖縄の声を無視することにほかならない。民主主義の原点をも否定するような対応ではないか。
 安倍政権は新年度沖縄振興予算の減額を検討しているとも伝えられる。事実とすれば、基地と振興はリンクしないと強調してきた説明を自ら否定するものだ。政権方針に反対する沖縄を力で組み敷こうとする態度がにじむ。
 一方で自民党本部も、沖縄振興予算について議論する8日の沖縄振興調査会に翁長知事の出席を求めなかった。こちらも前県政時とは手のひらを返したような対応だ。
 党県連内には「衆院選でも反自民候補を支援した政敵に協力する必要はない」との声があるという。政党としての当然の論理、と言いたいようだが、政権党として、あまりに狭量な対応だ。権勢を誇示しようという思惑もちらつくが、地元益より党利党略を優先させるような対応では県民の支持は離れるだけだ。
 政権側の対話拒否について翁長知事は「あるがままの状況を県民や本土の方に見てもらい、考えてもらえればいい」と語った。安倍政権は知事冷遇への反発が広がる沖縄の民意を今こそ直視し、その非民主的な対応を恥じるべきだ。

安倍さんの一面がよくあらわれていると思います。東京の新聞は伝えていないでしょうから。






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「よたよたランナーの手記」(99) 10キロ行った  文科系

2015年01月08日 00時09分57秒 | 文芸作品
7日に30分×2回が、10キロまで行った。各30分いずれもが5キロ突破で、意外にあっさりと。念願の目標だったのだけど、意外に覚めている。間違いなく07年1月21日の西春マラソンから後では初めてのことなのに。以降は不整脈が2010年の手術までだんだん酷くなったからであり、これ以降12年秋まではランナー断念になっていたのだ。

 前半がきっかり5キロ。後半は5.03キロ。スピードメーターを見つつ、計画以上に判で押したようにきちんとやれた。最高速度はいずれも10.5キロと、そんなに無理せずにできた。ちなみに、この速度の最長15分間でも、心拍数は145~153だった。この心拍数も、走っているうちにおそらく145程度へと収束してくるはずである。73歳のこんな年寄りでも、8年ぶりの目標達成。いろいろ考えつつやれば出来るもんだと、振り返って感慨深い。これからさらにどこまで行くかと、もう先を見る気分になっているのも、自分ながら面白い。

 7日の中日新聞に、こんな記事が載っていた。
『100歳過ぎても 自立した生活を送る秘訣は』
 要約してみよう。慶応大・百寿総合研究センターが、こういう調査をしてきたという。
『調査は1992年から始め、これまでに東京都を中心に全国の百寿者八百人以上を対象に実施。面接やアンケートで生活習慣病などを聞いたほか、血液検査で健康状態もチェックした』
 その結果を要約すれば、こういうことになる。
『認知症が無く、自立した生活を送っている人は全体の2割』
『百五歳以上の人の大半は、百歳の時点で自立した生活が出来ていた』
 その他、糖尿病と動脈硬化が少ないのが特徴である。他には、肥満が禁物ということと、アディポネクチンとエイコサペンタエン酸という物質が鍵だとか。前者は脂肪細胞から分泌されると解説され、後者は青魚から摂れることで有名な物質である。
 性格的には、開放性、意志の強さ、外向性が鍵ということだった。

 べつにそれほど長生きがしたいわけではなく、僕は活動年齢をとにかく長くしたい。それで走っているとも言える。
 まーまーの体力がある高齢者には是非、当ブログ最近のこれをお読み願いたい。誰でも案外走れるようになるというのが僕の実感なのだ。走れれば、動脈硬化は心配なくなるし、糖尿病対策もばっちりである。
『「よたよたランナーの手記」(95) 走れるようになる方法(4、最終回) 2014年12月30日』
 例え走れるようにならなくとも時速7キロで30分歩けるようになれば、肥満にも健全な血管にも非常に良いのである。また、7キロで歩いていればやがてその最高心拍数がだんだん下がってきて走れるようになるというのが、73歳の僕の実体験、実感だ。歩くとか走るとかはとにかく、人間が大昔からやって来たこと。いくつになっても案外潜在力はキープしているものなのだと痛感するのである。
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