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新聞の片隅に載ったニュースから(185)   大西五郎

2015年01月29日 19時12分33秒 | Weblog
「原発事故。今後も起きる」政府調査委 畑村元委員長(15.1.29 毎日新聞)

国の原子力委員会(岡芳明委員長)は28日、原子力利用の課題を示す「基本的考え方」策定に向け、東京電力福島第1原発事故で政府の事故調査委員会の委員長を務めた畑村洋太郎東京大学名誉教授と意見交換した。畑村氏は「原子力を扱う限り、事故は今後も必ず起きると認識すべきだ」と訴えた。
畑村氏は「努力しても人が考えつかない領域や、原発事故が起きる可能性は残ると宣言すべきだ」と強調。事故を起こさないための「防災」と、事故時の被害を最小限に抑える「減災」の両方が重要だと指摘した。
また事故当事国の課題として、事故検証の継続、知見の国内での共有と海外への発信を挙げた。
原発再稼働の在り方にも触れ、「規制当局が安全性を確認し、Okならば安全だとする国の論理は破綻している。世の中が求める絶対的な安全は有り得ない」と批判。避難計画だけでなく、被害拡大防止策や除染計画も事故に備えて整備すべきだと訴えた。
原子力委は「基本的考え方」を約1年かけて策定し、関係省庁に具体的施策を促す。

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最近ニュースになるのは原子力規制委員会ばかりで、原子力委員会という組織がまだあるということに気がつかなかった人も多いのではないでしょうか。
原子力委員会は、1955年に原子力発電など原子力開発に踏み出すに当たって策定された原子力基本法に基き、原子力利用に関する政策を企画、審議する機関として設置されました。当初は内閣府の付属機関として、委員長には国務大臣が当てられましたが、東京電力福島第1原発の事故で従来の原子力発電推進に偏った運営(原子力ムラの中心)が批判され、原子力規制委員会が作られ、原子力委員会も行政の実施機関から審議会に性格をかえましたが、原子力利用に関する政策を政府に進言する役割を担っています。
福島原発事故の政府調査委員会の委員長の提言を原子力委員会は重く受け止めてほしいと思います。
なお、このほかきょうの中日新聞には原子力発電に関する記事がいろいろ出ていました。
高速増殖炉「もんじゅ」(福井県敦賀市)を運営する日本原子力研究開発機構が昨年12月に原子力規制委員会に提出した機器保全計画の見直し報告書に不備があり、未点検機器の数が400点以上増えて約6900点にのぼることが明らかになりました。
関西電力は再稼働に向けて審査が進む高浜原発3、4号機(福井県高浜町)の「原子炉設置変更許可申請」の補正書を原子力規制委員会に再提出しました。昨年10月に提出した補正書に記載の不整合の調整など1732件が書き加えられています。
なぜこんなに申請・報告書に記載漏れや記載の不整合があるのでしょうか。畑村元委員長の「絶対的な安全はありえない」という提言こそを重く受け止めるべきだと思います。
                                                 大西 五郎
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「アイ・アム・ケンジ」 自己責任論優勢の世論に変化   朝鮮日報より  らくせき

2015年01月29日 09時15分02秒 | Weblog
イスラム過激派組織「イスラム国」の人質に取られている日本人、後藤健二さん(47)が解放される可能性が高まった。後藤さんは長い間、紛争地域で孤児などの人権問題について取材してきたフリージャーナリストだ。昨年8月、親交のあった湯川遥菜さんがイスラム国に拉致されたのを受け、救出するためシリアに向かった。妊娠中の妻が反対したが、後藤さんは「湯川さんは何もできず、何をしていいのかも分からない。経験のある者が助けに行かなければいけない」と言って死地に赴いたのだった。


 民間軍事会社の経営者とされる湯川さんは、支社を設立するために、現地の事情もよく分からないままシリアに向かった。湯川さんが人質に取られたとき、日本では「旅行を禁止されている危険地域(原文ママ)に自ら出掛けて人質になったのだから、自己責任だ」という冷めた反応が多かった。湯川さんは今月24日、殺害されたと発表され、遺体とみられる動画が公開された。一方、後藤さんは昨年4月にも、シリアで武装勢力に身柄を拘束された湯川さんを解放に導いた経験がある。


 アフガニスタンやイラクなど世界の紛争地域で取材をし、九死に一生を得た経験も少なくない後藤さんだが、今回ばかりは自らの命を失いかねないという予感があったようだ。後藤さんはシリアに入国するのに先立って撮影した動画で「何があっても全ては自分の責任だ」と言い残した。


 そんな後藤さんのエピソードが伝わるや、日本内外で後藤さんを救出しようという運動が広がった。有名なジャーナリストの池上彰さんは、朝日新聞に「全幅の信頼を寄せられるベテランジャーナリストで、弱者の味方に立ってきた人だ」として後藤さんの救出を訴えた。後藤さんは普段、NHKなどの番組に出演し「戦争によって最も大きな被害にさらされる子どもたちに関心を向けよう」と呼び掛けてきたほか、学校に出向いて人権問題についての講演も行っていた。英国の週刊紙「エコノミスト」の東京支局長を務めるヘンリー・トリックスさんは最近、雑誌への寄稿記事で「悲惨な紛争地帯で人間味あふれるリポートをしてきた勇敢なジャーナリストが今、悲劇的な状況に置かれている。日本社会は後藤さんを助けるため尽力しなければならない」と主張した。


 このような呼び掛けが相次ぐ中、日本国民も政府に対し、後藤さんの救出を積極的に求めるようになった。「アイ・アム・ケンジ(#I am Kenji)」と書かれたプラカードを持って写真を撮り、これをフェイスブックに掲載する運動も全世界に広がった。後藤さんが取材を通じて出会った中東の子どもたちもこの運動に加わった。これを受け、日本政府もヨルダン政府を通じ、イスラム国との交渉に積極的な姿勢を見せている。




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随筆 「国語(科)は学問ではない!」?  文科系

2015年01月29日 08時12分47秒 | 文芸作品
 子ども、青年期などにおいて、標記のことを唱える人は多い。僕自身も中学2年だったかの国語の時間に、若い女の先生にそんな質問をして、1時間の授業を潰してしまった覚えがある。この事件の詳細は覚えていないが、数人の級友と一緒に発した質問だったので、そうなったようだ。

 では、よくあるようにこう言い逃れるやり方は正しいのかどうか。国語で書かれた内容の方が学問か否かは置いておくとしても、国語という言語とその使用法は学問としてきわめて重要なものである。こういう語学に限定した国語(科)の定義は誰もが認めるはずだが、この「書かれた内容」を横に置いた半分の定義だけでは、国語(科)の意味、重要述語の抑えとしては3分の1の価値もないと、これが僕のこの随筆の趣旨だ。

 さて、少なくとも20世紀以降の人文科学は、以下のことを明らかにした。
 言語能力、特に抽象的言語能力が不足した子どもは、学力一般が劣るのである。思考力一般と言語能力とがほぼ同じものと言っても良いほどに。これが言いすぎであるとしても、少なくともこうは言えるというように。両者の一方が欠ければ、他方もそんなに発達はできないと。このことはまた、以下のことをも示しているのだと思う。
 言語能力が文字通りの言語能力という狭い範囲に留められるものではないということを。次いで、このことに、20世紀の発達心理学などから発見された次の事実もおおいに関わっていく。
 この言語能力・思考力一般という意味での言語能力が劣った青年、成人には、社会性も欠けるという事実である。もっと言うならば、こんなことが言えるようだ。言語能力と思考力と社会性(さしあたっては、他人の言動が見え、分かり、共感するということなどなど)は、人間においては同じ一つのことの別の側面とさえ言えるのではないかと。

 さて、以上のことは少なくとも現代学問のほぼ全てが認めるだろう。それでもなお、こういう問題は残るのだ。思考とか社会性とか、もっと拡げて人間の内面一般が、全て科学的に手に負えるものかどうかという問題である。手に負えないとしたら、こうなる。欧米のある種の現代哲学者、科学者たちのように、こう生きるしかなくなる。公的に論じ合える問題と、論じられない言わば信仰や、善や美や、それらを扱った随筆世界(の内容)やのような領域の問題とを、区別して生きることに。「その問題は、科学的には『問題』と言えるようなものではない」とは、そういう欧米知識人が非常によく使う言葉だ。こうして例えばつまり、科学と「心」とを厳密に分けて生活することになるのであろう。科学と信仰とを区別して生きるというように。

「国語科は学問ではない」という子どもが目の前に現われたら、今の僕なら以上のことをしっかり語ってあげたい。きちんと答えないと「必ず、発達が歪む」と考えているからである。最近賢い女の子二人が、相次いで残忍な殺人事件を起こしたが、以上書いてきた問題が本質的に関わってくると解説する専門家も多いのである。


 最後に、付け加えることがある。以上のようなこと全てを40年高校国語教師をやってきた連れあいに話してみた。その間に愛知県の最難関校(の進路指導係)を含めていわゆる受験校三つを渡り歩いてきたお人である。どんな返事が返ってきたか。
『今は、そんな質問をする子はいない。国語が、受験の主要3科目に入っているからだ』
 いや、驚いたのなんの。

 が、こんな現状も大問題であると、又別の問題性を感じたものだ。こんなに大事な学問を受験手段中心で扱っている。道理で、文科省が大学の人文、社会系の学問分野を減らそうとしている訳だ。国語を思考能力の範疇だけで扱って、社会性、人間の内面一般との関係で見ていないからこんなことができるのだろう。怖ろしくなった。超格差社会と相まって、賢くても「残忍な」子がどんどん増えるのではないか。なお、国語科を軽視して道徳科を重視しても、こういう悲劇は一向に減らないはずだ。安倍首相には特に、そう言いたい。人の心こそ実は、究極の思考力、真理の最大問題なのだと僕は強調したい。道徳を決まり(の集積)か安っぽい「善悪」のように扱うのでなければ、国語科、人文・社会系学問を軽視はできないはずなのである。
コメント (4)
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