霊という言葉が、新聞などの広告も含めて当たり前に、実在するもののように使われている。心霊スポット、心霊現象という場合の心霊、背後霊や水子の霊。よく言われるスピリチュアルもその存在を認めてこそ成り立つものだろう。
漢字には一つ一つ意味があるわけであって、霊を辞書で調べるとこうあった。「肉体に宿り、または肉体を離れて存在すると考えられる精神的実体。たましい」。ところで僕は、この存在などずっと認めてこなかった。「肉体を離れて存在する心」などないと考えてきた。僕の生前に、つまり肉体誕生の前にも僕の魂があったとか、肉体死滅後もこれが残るとか。だからこそ、永遠の命を説く宗教も信じないのである。霊などと言うものはおそらく、往古の昔の夢の説明に使われたものだろう。肉体が寝ていても、心が「動いている」のだから、霊があると考えたにちがいない。だが今は、夢はもちろん、赤子の肉体が経験を経ることによって「心」を持っていく筋道も科学的に解明が進んできたはずだ。人の心は、その肉体を離れては存在し得ないという科学と宗教との関係いかんという問題は、今でも難しいように、霊と科学の関係も難しい問題なのだろう。例えば、肉体を離れて霊が存在するとすれば、その霊はどこで生まれたのかという必然的な問いから、神の世界も想定されるというものだ。
ここでただ、科学と宗教の関係について一つだけ問題提起をしておきたい。アメリカのキリスト教福音派が、旧約聖書の創世記と進化論とを二つとも認めるおかしさである。神が万物を造ったということは、進化論と矛盾するのである。それを福音派は、一方を信仰として認め、他方を科学として認めると述べてきたはずだが、これはおかしいだろう。
こんなことを書くと、いろんな大科学者が宗教信者である例などを挙げた反論、あるいは「そういう人が魂の不死をこう述べている」という反論なども続出するはずだ。「霊の科学的実在証明がある」とか「仮の死後体験として、霊が存在したという科学的証明」とか。逆にだからこそ、この文章を書かねばならぬと考えた。現代人は、霊などという言葉をあやふやに使うべきではないと力説したい。
最近の日本では、青少年の自殺が急増しているが、そこにこういうあやふやな感覚、「知識」が漠然と影響しているのではないか。「死んでも、僕の魂は存在するのだから・・・」。こんなのは「魂実在論者」が世に流す害悪の典型例じゃないかと思う。霊実在論者は、肉体の死を実質軽視することになる? ちょうど、無罪のあの世に憧れれば、この世や肉体が「たましい」に比べて醜い、罪深いものと感じられるように。
これに覚えがないのなら、
「死後も生前と同じようになるんでしょ? 死んだら詰まりませんよ!」