九条バトル !! (憲法問題のみならず、人間的なテーマならなんでも大歓迎!!)

憲法論議はいよいよ本番に。自由な掲示板です。憲法問題以外でも、人間的な話題なら何でも大歓迎。是非ひと言 !!!

民芸の「静かな落日」を観ました。   落石

2009年11月17日 09時42分39秒 | Weblog
先日、静かな落日を観てきました。

戦後日本の黒い霧と言われた松川事件。
作家、広津和郎が友人の作家宇野浩二とともに、無罪を勝ち取っていったことは
私も知っていました。
広津家は、父・柳浪から和郎、娘・桃子と三代に渡って作家となりました。
父・柳浪は関東大震災から4年間も風呂に入らないような人ですが、
和郎はこの父から反骨精神を受け継いだようです。
娘、桃子は、母と別れ、別の女性と同棲している父に反抗しながらも、
戦争体験を通して、次第に父の偉大さに気付きます。
そして、戦後は、松川裁判に取り組む父を助けます。
実母の家、父の愛人の家、父の仕事場と3つの家を
行き来する桃子の姿を通して3代の作家魂が描かれていました。
広津和郎を伊藤孝雄、桃子は樫山文枝でした。
家が近所でいつもマージャンをしていた、先輩の志賀直哉も登場、
舞台に奥行を与えていました。

いかにも民芸らしいタンタンとして格調の高い舞台でした。
観客も、松川事件などの説明もいらない年齢層でした。
劇の基本的なメッセージは、広津が戦争中に書いた「散文精神」のようです。

どんな事がってもめげずに、忍耐強く、執念深く、みだりに悲観もせず、
楽観もせずに生き通して行く、それが散文精神だと思います。

続いて、一緒に観た友人の感想です。

   

まず一番に感じたことは、今の自分の生活のありようを顧みるに、
背景となった事件などに関心を持った二十代は今よりものを見よう、
感じようとしていたなと言うことです。
それは今の生活全体が、「社会を変える、社会は変えられる」と思い(願い)
行動していた時代から遠く隔たったもの、
行動を伴わない頭の中での愚痴だけと思い知らされたと言うことです。 

関東の小さな世界で暮らしているうちに、
自分なりにアンテナは張って社会の空気は吸っているつもりだったけれど、
舞台に描かれたような世界の話はいつか遠いものになっていたことに気づきました。
例えば、一歩踏み出せば「九条の会」が身近にあるでしょうに、
その一歩が「ま、いいか」になっている現状です。

 広津和郎については恥ずかしながら
松川裁判との関わり以外についてはほとんど知りません。
読もうと思ったこともありませんでした。作品に関心がなかったといえます。
その人となり、生き方について、舞台で描かれたような人であったことは
初めて知りました。(^^;)

 組合の組織率がガタ減りし、労使協調してこの経済混乱を乗り切ろうと
声高に言われ、政治が小泉劇場「自民党をぶっ壊す」・小沢劇場(?)「政権交代!」と、
キャッチフレーズだけで踊る今の時代に、労働組合や共産党への弾圧という
歴史的な事実を踏まえて演じられた舞台を受け止めるのは
なかなかに気力(精神力)が必要でした。
「広津和郎」という人物の時流に流されない生き方、
と言う背景をそぎ落とした受け止め方をしてしまえば
余り気にすることはないのかもしれませんが。

 でも、民芸の舞台らしく(と言ってもそんなに見た記憶もありませんが)、
背景が重要なのだろうと思うと、見終わった後の重苦しさ、
よく言えば重厚な舞台を見終わったという思いを持ちました。
(「持たされました」というと、申し訳ないかな)

 この演目を選び、この重厚さを求めるのが「名演」という
演劇鑑賞集団なのかなとも感じました。
会場を見渡したとき、私と同世代の人(戦後民主主義の中で育ってきた、
安保改訂や学園紛争などを経験した人)の多さにそれを思いました。
今、こういう舞台を受け容れられるのはもうこの世代の人しかいないのではないか、と。

 警察の取り調べの場面で、妙に強調された(と感じてしまう)演技に、
突然「裁判員制度」との結びつきが浮かんできました。
また、最近の足利事件の再審での検察と弁護団のやりとりを見ていると、
この背景になったものは風化していないとも思い、
そういう観点から見れば現代に生きている舞台、といえるかなと思います。

登場人物の演技としては、宇野浩二役の役者の軽さが気に入っています。
樫山文恵さんの、いかにも新劇っぽい台詞回しは懐かしかったですが。

(私よりシッカリした見方です。ありがとうございます。)




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「天下り」規制論議に 文科系

2009年11月17日 01時22分37秒 | 国内政治・経済・社会問題
昨日の毎日新聞に、「『天下り』規制後退」なる社説が載った。マスコミによる最近の新政権批判論調には取って付けたような、あるいは為にするような議論が多いが、今回もそんな気がしたので、これを書くことにした。

社説は「6日に決定した(政府による天下り規制問題の)答弁書の見解」を批判している。こんなふうに。
【 答弁書で政府は「天下り」について「府省庁が退職後の職員を企業、団体などに再就職させること」としながらも「法令に違反することなく府省庁によるあっせんを受けずに適材適所の再就職をすることは、天下りに該当しない」と結論づけた。
 この見解には、落とし穴がある。もともと省庁は天下りの「あっせん」の事実すら認めようとはしておらず、省庁が「あっせんはない」と言い張ればあらゆる再就職が「天下りではない」と認知され、黙認されかねない。特に、公益法人などの幹部ポストが関係省庁の「指定席」となっている場合、対象外となるおそれがある 】
 この文章には三つの点が抜け落ちていると、僕は思う。
一つは、各省庁の「政治主導」が。官僚とつるんでいたと言える自民党の時代とは違って、各省庁の閣僚、副大臣、政務3役などが官僚に目を光らせる体制であることが。そしてこの監視は、現れてきた諸般の状況などから判断して当面は信用できると、僕には思われるのである。
次いで二つ目には、新政権が重視する情報公開にも全く言及がない。自民党は大いに意識してこれをサボり、それを利権にしてきたが、新政権は当面これにもある程度本気であると僕は思う。情報公開の本気度は、行政刷新会議などの厳しい進め方などを見ても、分かるのではないか。「再就職先」「あっせん」「利権」なども非常に分かりやすくなるはずである。
三つ目には、こんなことも自民党時代とは全く違うはずだ。無駄な予算が絡む団体への、それこそ「あっせん」であるならば、その団体への無駄な金が公開の行政刷新会議に懸けられるということである。そこにも新たに、政治主導の目が光っているということである。

こういう三つの明白な変化が存在するようになったそのうえで、上のように断言できるだろうか。「あっせんはない」と省庁が言えば黙認されていくなどと。これが独断であるとは論理的にも自明だと思うが、どうだろう。

ここで僕も既に述べてきたが、「再就職」が悪いのではない。「天下り規制」の定義とは、再就職一般ではないはずである。その定義が難しいにしても「適材適所」が悪いわけでもない。利権が絡む、あるいは例えば公募がないとかいうように「不公正な」、「法令に違反する」、そんなあっせんが悪いのである。こんなことは当たり前のことだと思うが、どうだろうか。

マスコミの新政権批判は昨今ことほど左様に、為にしているのかどうか、とにかく素人っぽいような、荒い論理が目立ちすぎる。まるで自民党時代に培われた先入観だけで見て、論ずるといったような。時代遅れの「玄人」の、サボり論難とならないことを願うものである。
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低調南ア戦、そのわけは?   文科系

2009年11月16日 15時49分43秒 | スポーツ
南ア戦には、実に失望した。期待が大きかっただけに、この失望は大きい。何がいけなかったのか。
ところで、最初にお断りしておくことが一つある。日本代表を褒めている人もいたことだ。相手監督、ブラジル人名将・パレイラである。「組織だった良いチームとやれて良かった」と講評している。が、この言葉、世界80位台チームの監督が発したものなのだから、我々が喜ぶわけにはいかない。

僕が常々思う戦評の名手、相馬直樹が毎日新聞でこう語っているが、僕も同じ見解である。最も聞くべき言葉と言えよう。
「この日の前半は悪いサッカーではなかったが、ゴールに向かってはいなかった。良い攻撃は良い守備から生まれる。ボールを失った時、前に出て相手を追う守りができるようになったのは、後半14分に松井と中村俊が入ってからだった。(中略)後ろに下がって追いかけるのではなく、前に出て圧力をかけることで、相手から余裕を奪い、自分たちのリズムで戦えたのも確かだ」
ゲーム自身の表現としてはこれで十分であろう。ただし、85位の相手に56%のボール保持率とは、日本としては相馬が語るよりも遙かに不出来だったと、僕は主張したい。なんせ、本大会ベスト4を目指しているのだから。そして、キープ率はこのチームの最も得意なお家芸であり、世界10位台のチーム相手でもこれくらいのキープ率は優に取れるチームであるから。つまり、集団的シュート体制もあまり作れなかったのだし、得点チャンスは1~2回だった。それはなぜか。

さて、このゲームについて、別の視点から一言。
岡田監督自身が「ワンボランチ、スリートップの実験」を試みたらしいが、これをどう見るかである。「日本の理想的組織を語れと言われるならばワンボランチだ」とは、代表監督時代のオシムの言葉である。多分、同じように背が低くて俊敏なスペインの、例えばバルセロナを念頭に置いて語っていたのだと思う。オシムはその時、お気に入りの鈴木啓太を真っ先に念頭に置いていたに違いない。が、今回は稲本である。ところが、これを59分に松井に替え、同時に中村俊輔を入れて、遠藤・長谷部の二人ボランチ、および2トップに戻したところを見ると、失敗だったということだろう。この失敗、どうしても得点がほしい時など局面においては長谷部辺りで実際にやらねばならないときもあるかも知れないから、一つの勉強にはなったと思う。ただこのでき、内容については、中村俊輔がこう語っていた。
「初めの3トップでは、本田も大久保も主として中にいた。外にいるときでも、中から外へ出て行っただけだ。その逆で、外から中へ入ることによって、サイドバックが上がれる。こうして、練習してきたクロス、速く低いクロスが生きてくる」
トップの両サイド2人が攻撃に性急な余りに、サイドバックが使えず、自らのプレスもおろそかになって、自チームの最大長所「攻撃的な守備」ができなかった。だから得点できなかった。そう見るべきゲームであったと思う。

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「不確かな(野)党」と「後方支援」と  文科系

2009年11月16日 14時33分06秒 | 国内政治・経済・社会問題
僕が思う近ごろ不思議なことが一つ。このブログに多い日本共産党支持者とおぼしき人々がなぜもっと鳩山新政権を褒めないのだろうかということだ。
新政権が行っていることは、日本共産党が長年言い続けても自らはとうてい手も付けられなかったことも多いように思われる。ちょっと上げてみるだけでも、ダム、道路、ガソリン暫定税、郵政、子ども手当、授業料補助、母子・父子家庭支援、ワンストップサービスなど雇用対策、貧困率の発表、地球環境問題、インド洋給油、「東アジア共同体」などなど。他方、新政権誕生がもたらした間接的な民主主義的成果も多い。NHKなどの放送内容の改善。記者クラブの開放。経団連、医師会、農協、各種政府審議会などで現在進んでおり、更に進むであろう自民党離れ、各種自民党牙城の崩壊も国民にとって非常に良いことだろう。自民党内においても例えば、道路調査会の消滅、道路族巣窟の崩壊!
新政権のこの4年で、自民党時代にはもう後戻りできない橋頭堡が我が国に築かれるものと、僕は確信している。

これらを抽象的にまとめ上げれば、曰く「内需拡大。それも、土建国家から社会的弱者・子どもなどへの内需拡大方向の転換」、曰く「『米国依存しすぎ』(鳩山発言「これまでの日本は米国に依存しすぎていた」)からの脱却、対アジア友好」。これらの表現で括られているような新政権の諸施策にもそろそろ信じられる点も多くなり始めて、「少なくとも当面は、かなりが本物らしい」と見えてきたはずだとも、僕は思う。
本日の朝刊に載った「APEC関連、鳩山講演」にもこんな立派な下りがあったので、ご紹介したい。
【 「日本と他のアジア諸国、アジア・太平洋諸国の間に、友愛のきずなを作り上げることはできないものか」と考えてきた。日本が多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に多大な損害と苦痛を与えた後、60年以上がたった今もなお、真の和解が達成されたとは必ずしも考えられていないからだ。
欧州では悲惨な2度の大戦を経て、憎みあっていた独仏両国は協力を積み重ね、国民相互間の交流を深めた結果、事実上の不戦共同体が成立した。独仏を中心にした動きは紆余曲折を経ながら今日のEUへと連なった。
欧州での和解と協力の経験こそが、私の東アジア共同体構想の原型になっている 】

さて、現に志位委員長が国会質問で「新政権後方支援もしたい」などと語り始めたのは、こういう新政権への一定の支持なのだろうし、不破哲三氏でさえこう語っているらしい。「我々も政治を変えたいのでシミュレーションとして注目していますが、難点がちょっと早く出過ぎている」(16日毎日新聞2面「風知草」より) この文章の後半はともかく、前半に力点を置いて読めば「注目すべき変化もある(もしくは、多い)」ということにもなる。

もちろん共産党が、「建設的野党」「是々非々」の立場から普天間基地問題、後期高齢者医療制度廃止の問題などでは新政権を批判していることは、僕も知っている。そして、事実としては多分、個々の党員においてはこういう新政権への態度も多いことなのだろう。「口だけだ。策略かも知れない。今に化けの皮がいろいろとはがれてくるだろう」。なんせこの政権の中核、民主党をつい最近までは、「不確かな野党」「自民党と同じ穴の狢」と見てきたはずなのである。「大企業本位と対米従属では同根、同本質」と、定式的・硬直的に見てのことなのであろう。この態度は、つい最近、東京都議選で民主大躍進、共産大敗北を喫するまでのことだった。因みに、「建設的野党」と呼び替えたのは、この大敗北を経たその後、総選挙直前のことである。よってこの呼び換えは、本心からのものとさえ思えず、世に迎合しただけのポーズとも見えるのである。

こうして見れば新政権に対する日本共産党の姿勢はどこまで行っても「不確かな野党」「自民党と同じ穴の狢」が本心であって、「建設的野党」「後方支援」こそ一時のこと、ポーズなのかも知れない。新政権に今国民の大きな支持があり、これが国民寄りのことを予想外に多く行い始めているように見え、他方では日本共産党は近年希な停滞を見せているのだから、現在は戸惑っているというか、途方に暮れているというか、そんな面も多いのかも知れない。
この停滞に至った今までの自らの方針、理論の根本的な反省こそ、現在もっとも重要であると僕は思うのだが。それが実は、本当に国民のためなのだとも思うのだが。はて。
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オバマ大統領に対するある記者の問い 「広島、長崎への原爆投下は正しかったとお考えですか?」

2009年11月15日 00時03分04秒 | Weblog
★昨日の日米首脳の記者会見については色々な感想が有りますが、原爆投下についての質問にオバマ大統領があいまいな答えをしたことは印象深かった。それについて「東本高志氏」が下記のような感想をメールで送ってくれた。どうかんであり、紹介したい。  (ネット虫)



昨日の13日にあった鳩山首相とオバマ米大統領の日米首脳会談及びその後の共同記者会見の模様についてはみなさまご承知のとおりです。が、同記者会見後の質疑応答の部分で日本側の記者のひとりがオバマ大統領に「広島、長崎への原爆投下は正しかったとお考えですか?」という日米関係の現在(いま)と過去を考える上できわめて本質的で歴史的な質問を投げかけたこと。同大統領がそのエッセンシャルで、ある意味チャレンジングでもある同質問にどう答えたか、についてご存知の方はどれほどいらしゃるでしょうか?

私は同共同記者会見の実況中継を見ていなかったので、同会見を見ての私としての感想を述べることはできないのですが、アメリカ・ニュージャージー州在住の作家、冷泉彰彦氏によれば、その質疑応答の部分は次のようなものであったということです。

同質問を受けた「オバマ大統領は、明らかに狼狽していました。『ずいぶん沢山の質問ですねえ』とふざけて見せ、『最後の質問は何でしたっけ・・・北朝鮮の問題だったかな?』と巧妙に話題を振って、見事に『北朝鮮の話』を延々として時間切れに持ち込んだのです。要するに質問への回答を拒否した形になりました。オバマ大統領という人のスピーチや、質疑応答での対処はずいぶん見てきていますが、こうした光景は異例です」。「その前の部分では、広島・長崎への訪問予定に関しては『短期的には予定はありません』としながらも『訪問ができたら大変な名誉です』という言い方で、『ニュートラル+やや前向き」の回答をしていましたが、『短期的には予定はない』という発言の部分については、『原爆投下の是非』への回答拒否と併せて、これも重苦しい瞬間でした」(「初来日を果たしたオバマとヒロシマ・ナガサキ」from 911/USAレポート 第433回)。

しかし、冷泉氏が「非常に重要なやり取りだった」とし、かつ「オバマ大統領は、明らかに狼狽していました」とするこの「重要な」質疑応答の部分に関するわが邦の側の報道は私の知る限り産経新聞(2009年11月13日付)の次のような報道のみ。

「--大統領は任期中に広島、長崎を訪れる意向があるか。原爆投下の選択は正しかったかと考えるか。
大統領 日本は核兵器について独自の視点を持っている。原爆が投下されたからだ。広島と長崎を将来訪れることができたら非常に名誉なことだ。短期的には訪問の計画はないが、私には非常に意味のあることだ」
http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/091113/plc0911132303015-n1.htm

朝日新聞ほかにももちろん同「共同会見の要旨」記事そのものはありますが、たとえば同紙のこの部分の報道(2009年11月14日付)は次のようなもの。

「広島と長崎で原爆が投下されたことにより、日本は核兵器について特有の視点を持っている。首相が深い関心を持っているのはよく分かる。私が広島と長崎を将来訪れることができれば、非常に名誉なことだ。短期的には訪問の計画はないが、私にとって有意義だと考えている」
http://www.asahi.com/politics/update/1114/TKY200911130445.html

朝日新聞だけを読む限り、日本側記者のひとりがオバマ大統領に「広島、長崎への原爆投下は正しかったとお考えですか?」という重要な問いを発したことすらわかりません。もちろん、その問いを聞いて「オバマ大統領は、明らかに狼狽してい」たらしい様子もわかりません。この点については産経新聞も同様です。

上記に代わる本日の朝日新聞一面のトップ記事の見出しは「日米同盟『深化』強調 米大統領来日 首脳会談」というものでした。そして、同記事にはもちろん平和憲法を持つ日本政府が「日米同盟」、また「日米同盟『深化』」という用語を用いることへの批判や違和感の表明もありません。むしろ記事は「日米同盟『深化』」はすばらしいことだ、という論調で終始しています。

注:「『日米同盟』とはなにか?」については小林アツシさんの次の記事が簡潔にして要を得た説明になっているように思います。ご参照ください。
http://atsukoba.seesaa.net/article/132713980.html

こうしてわが国のマス・メディアは、もはやジャーナリズム精神とすらもいえない「マスゴミ精神」(ゴミにはゴミの意地というものがあるだろう、ということです)でさえ自らの手で次々と放擲していくということを繰り返しています。あゝ、やんぬるかな。

本土のマス・メディアの総堕落の影響ももちろんあるのでしょう。沖縄のメディアにも従来あった気骨、気概がここ一、二年の間に急速に失われつつある気配を私は寒々と感じています。次の琉球新報の社説記事はそのことを端的に示しているのではないでしょうか?

■鳩山・オバマ会談 軍事同盟より民生の鎖を(琉球新報 2009年11月14日)
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-152790-storytopic-11.html

アフガニスタン支援と称して鳩山内閣が今年から5年間で50億ドル(約4500億円)規模の財政支援をするという方針について、その拠出の実態が、これまで同内閣が繰り返し語ってきた経済復興援助という目的から大きく逸脱した反政府勢力タリバンの元兵士への職業訓練、アフガン警察官約8万人の給与負担などを含む治安維持支援というべきものであるにもかかわらず(「アフガン支援:5年間で4500億円 元兵士職業訓練など―政府決定」毎日新聞、2009年11月10日付)、その支援を軍事色の薄い「農業や教育、職業訓練など民生分野の支援」として「民生分野の支援に転換する意味は大きい」などとする同紙の認識、「来年は日米安全保
障条約改定から50年の節目だ。軍の論理がまかり通った世紀が終わ」ったとする認識など、これまで沖縄のメディアの主張とは明らかに一線を画する主張、認識に変質しているように感じられます。「沖縄のメディアよ、お前もか」とは私は言いたくありません。沖縄のメディアには正気を取り戻して欲しい、と切に願うものです。


東本高志@大分
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名古屋アメリカ領事館への申し入れ     名古屋@不戦ネット山本

2009年11月14日 00時12分06秒 | Weblog
名古屋@不戦ネット山本さんから下記のようなメールをもらいました。紹介します。(ネット虫)
=========================
本日、オバマ大統領来日をしましたが、以下の要請書を名古屋アメリカ領事館に
提出しました。

{アメリカ軍普天間基地の即時閉鎖と、辺野古への新基地設建設の中止を求める要望書}

アメリカ合衆国バラク・オバマ大統領様

 私たちは、愛知県内で沖縄の普天間基地の撤去、辺野古への新基地建設に反対する市民グループです。
バラク・オバマ大統領の来日を機に、普天間基地の全面撤去と辺野古への新基地建設を中止するように要請します。

沖縄はこれ以上の基地による負担を受容することはできない
 1996年4月のSACO合意により、普天間基地の全面撤退が表明され、その代替施設として名護市辺野古沖への新基地建設が言われてからすでに14年になります。いまだ実現していないのは、沖縄にはこれ以上の基地による負担を受容する余地のないことを示しています。悲惨な沖縄戦を体験し、戦後も基地建設のために銃剣とブルドーザーで、土地を奪われ、故郷を追われてきました。また、基地があるゆえに殺人をはじめ、様々な人権被害を受け続け、社会的・経済的な不利益を被っている沖縄人たちにとって、これ以上の基地による負担を容認する余地はありません。 
沖縄の人たちは新基地建設を同意していない2005年10月に日米両政府によって発表された「日米同盟 未来のための変革と再編」の中間報告と翌年5月の「再編実施のための日米のロードマップ」の中で、普天間基地の移設先は、名護市にあるキャンプ・シュワブの沿岸の一部を埋め立てるいわゆる「沿岸案」が合意されました。この「沿岸案」は、沖縄県民には何の説明もなく、同意したものではありません。
名護市辺野古への新基地建設は、97年9月の名護市の住民投票ではっきりNOが示され、また、最近のマスコミによる沖縄県内の世論調査でも、普天間基地の県外・国外移設に賛成が約70%、辺野古への基地建設に反対は67%になっています。沖縄の民意は、普天間基地の即時撤退と、県外・国外移設です。
新基地建設は、沖縄の自然を破壊する移転先となっている、キャンプ・シュワブ沿岸の大浦湾や辺野古沖には、ジュゴンや世界でも有数の青サンゴの群落など、貴重で多様な生物の宝庫になっています。ジュゴン保護をめぐっては、2003年9月、アメリカの連邦裁判所に対し、文化財を守ってもらうための訴訟を提起し、2008年1月24日、米国・連邦裁判所は訴えを認める判決を出し、米国政府にも沖縄のジュゴンを保護するための配慮をしなくてはならない義務があると断じました。地球環境を保護する上でも、辺野古への新基地建設に反対します。
私たちは、戦争のための基地建設を拒否します日本国憲法第9条は、「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、
武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」としています。
貴国は、イラク・アフガニスタンへの戦争を継続し、在日米軍基地はその出撃拠点となっています。今月はじめに貴国の陸軍基地「フォードフッド」で起きた大変不幸な銃乱射事件は、戦争がもたらす悲劇が他国の兵士や民間人を殺戮するだけでなく、自国の兵士にも大きな犠牲を強いることを端的に物語っています。私たちは、
国の最高法規である憲法に則って、国際紛争を解決する手段としての武力行使には反対する立場から、普天間基地の閉鎖と新基地建設を拒否します。

 沖縄の人たちは、一貫して普天間基地の県内移設や米軍再編計画に反対してきました。1950年代半ばに本土から沖縄に移駐してきた海兵隊が、半世紀以上も沖縄に駐留し続ける理由はありません。

普天間基地の撤去問題を早期に解決するためには、日米両政府が沖縄の要求を真摯に聞き、「チェンジ」に向かうために決断をすることが必要です。普天間基地の無条件閉鎖と辺野古への新基地建設を断念するよう要求します。
                   2009年11月13日
   
NO BASE辺野古☆名古屋
命どぅ宝あいち
日本聖公会中部教区沖縄プロジェクト
有事法制反対ピースアクション
不戦へのネットワーク

連絡先 名古屋市昭和区鶴舞1-8-10 労働文化センター2階℡:052-753-7517
不戦へのネットワーク
http://www.jca.apc.org/~husen/index.htm
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「普天間(ふてんま)基地閉鎖・返還(撤去)問題」の考察③──  井上澄夫

2009年11月13日 14時46分54秒 | Weblog
◆動揺する鳩山政権の沖縄政策と揺るがない「沖縄の総意」

 しかし海上ヘリポート建設計画が頓挫したあと、日米両政府が打ち出した「キ
ャンプ・シュワブ沿岸域案」に対しても、新基地建設を阻止する抵抗は粘り強く
続けられた。同案はキャンプ・シュワブの敷地にまたがり、ジュゴンが回遊する
辺野古沖と、最近、巨大なアオサンゴの群生があいついで発見された大浦湾を埋
め立てて、V字型にそれぞれ1800mの滑走路を建設するというもので、名護
市民・沖縄県民が容認するはずはない代物だった。今年10月9日、辺野古漁協
近くのテント村での座り込みは2000日を迎えた。
 海上ヘリポート案と現行案との違いでどうしても強調しなければならないこと
がある。海上基地案については、当時の稲嶺県知事と日本政府との間で「使用期
限15年」と「軍民共用化」が合意された。撤去可能な基地であることも強調さ
れた。だが現行案には使用期限はないし、民間航空の使用もない。米海兵隊の巨
大な新基地が辺野古に半永久的に固定されるのだ。

 さらにこれはぜひ付け加えねばならないのだが、日米両政府はウソをついた。
米海兵隊が辺野古の新基地にオスプレイを配備することは早くから指摘されてい
たが、日米両政府は一貫してそれを否定していた。オスプレイはヘリコプターの
ように垂直離発着ができ、しかも固定翼機のように長い航続距離を持つ最新鋭の
輸送機である。両翼のエンジンを傾けることができるティルトローター機である
が、無理な構造ゆえに、試作段階でも初期生産段階でも何度も墜落事故を起こし、
生産中止が度々検討されたいわくつきの機種である。そのオスプレイの配備が、
沖縄防衛局の環境影響評価(アセスメント)が行なわれたあと(!)、公表され
たのである。だからオスプレイがもたらす騒音はアセスメントの対象にならなか
った。そしてそのような基地の建設を日米両政府は「地元の負担軽減になる」と
うそぶいているのである。

 重ねて強調したいが、沖縄の人びとは「代替施設」を望んだのではない。沖縄
の人びとが一貫して求めてきたのは「基地のない平和な島」であり、それゆえに
こそ普天間基地の「即時閉鎖・返還(撤去)」を切望してきたのだ。
 ところが日米両政府はすでに見たように、ずるがしこくも、「返還」(既存米
軍基地内ヘリポート移設・一部機能嘉手納統合)を「代替施設の移転」にすり替
え、しかもそれをまた沖縄に押しつけた。「基地のたらいまわし」そのものであ
る。だから沖縄の世論は「県内移設反対」に凝縮されることになった。8月30
日の衆院選で沖縄4選挙区で自民党が全敗し、比例の九州ブロックでも負けた。
衆院選直後、当選した5人の国会議員はそろって「辺野古新基地建設反対」を表
明した。また昨年6月の県議選では自民・公明両党の支配を覆して野党が勝利し、
同年7月県議会で政府にあてて「名護市辺野古沿岸域への新基地建設に反対する
意見書」が採択された。県議会でも衆院選でも「沖縄県民の総意」が鮮明に表明
されたのだ。

 民主党は衆院選前、普天間基地の「県外・国外移設」を公約としてきた。それ
を具体的に以下紹介する。
▼鳩山由紀夫現首相 「(普天間の移設問題で)県民の気持ちが一つなら『最
低でも県外』の方向で行動したい」(09年7月20日、沖縄市の集会で)
 ▼岡田克也現外相  「『普天間』の県外、国外への移設実現を目指し、政治
生命を賭けて交渉したい」(05年8月25日、日本外国特派員協会で講演) 
 ▼前原誠司現沖縄担当相 「海兵隊はいろんなプロセスを踏んで最終的に国外
に持っていく」(05年4月、沖縄タイムスのインタビューで)
念のために付け加えるが、同種の発言はまだまだある。さてその民主党は鳩山
政権成立後、公約を実現しようとしているだろうか。
 北沢防衛相は就任後初めての沖縄訪問で辺野古のテント村で住民の意見に耳を
傾けることもなく、「県外移設は困難」と表明した。岡田外相も「県外は事実上、
選択肢として考えられない」と表明しつつ、「嘉手納統合の可能性を検討するし
か、残された道はない」と語った。これに対し鳩山首相は依然「県外移設」の可
能性に含みを残す発言をしているが、11月13日に予定されるオバマ米大統領
の来日前の決断は先送りするつもりのようだ。

 これに対し米国政府は苛立ちを隠さない。1996年の橋本・モンデール「普
天間返還」合意は「5年から7年以内」に実現するはずだったが、代替施設建設
は遅々として進まず、もう13年も経ったではないか、というわけだ。10月2
1日に来日したゲーツ米国防長官は、まるで植民地の総督ででもあるかのように、
辺野古案の早期実施を日本政府に強要した。その直後来日したマレン米統合参謀
本部議長も同様に振る舞った。だがそのような姿勢はアフガニスタン・パキスタ
ン侵略戦争の泥沼化(ベトナム化)でパニック状態にあることを隠すための虚勢
を張った猿芝居であるから、無視すればいい。米国政府の現在の苦境は、そもそ
もブッシュ前政権から引き続きオバマ政権でも国防長官の座に居座ったゲーツ自
身が招いたものなのだ。
 米南部テキサス州のフォートフッド陸軍基地で11月6日(日本時間)に起き
13人が死亡した乱射事件は、2001年の〈9・11〉直後に始まり、ついに
9年目に入った「対テロ戦争」で米軍自身が疲弊し崩壊寸前の状態にあることを
いみじくも実証した。

 鳩山首相が本気で「対等な日米関係」をめざすなら、同等の立場で対米交渉を
堂々とおこなえばいいのである。オバマ政権がなお居丈高な態度をとるなら、日
米安保条約の破棄を申し出ればいいだけのことだ。そうすれば条約は自動的に失
効するのだから、それまでに全米軍が日本から退去することになる。
 11月8日の沖縄・宜野湾市での県民大会(2万1000人が参加)から逃げ
て訪米した仲井真沖縄県知事は米議会や政府に「辺野古移設やむなし」を訴えて
回ったが、これほど時代が見えていない愚行は珍しい。仲井間知事とともに同じ
主張を声高に吹聴した松沢神奈川県知事は県民大会実行委員会から抗議されるこ
とになったが、まるで政府の閣僚気取りで沖縄を差別する振る舞いはもはや政治
犯罪という外はない。

◆問題の核心を改めて確認しよう

 東京の都心で10月22日、沖縄の「普天間基地・那覇軍港の県内移設に反対
する県民会議」が主催する「普天間基地の即時閉鎖と辺野古新基地建設の断念を
求める緊急集会」が開かれた。そこで「基地・軍隊を許さない行動する女たちの
会」の高里鈴代さんはこう語った。
 〈先ほど鳩山首相の選挙区がある北海道に普天間の代替施設を移設すべきとい
う発言がありましたが、私はそう思いません。私たちが求めるのは普天間基地の
「閉鎖・返還」です。そこでピリオドを打ちます。普天間の代替施設をどこかに
持っていけばいいとは思いません。
 今年、グアムで反基地の活動をしている各国の女たちが交流をおこないました。
そこでグアムの先住民チャモロの女性が過去約100年のグアムの歴史を語りま
した。米西戦争でアメリカが勝ってグアムは1898年、スペイン領から米国領
になりました。先住民は島の一角に強制収容され、広大な土地がブルドーザーで
敷き均(なら)されて米軍基地にされてしまいました。それから日本軍が占領し
た3年間を除いて、ずっと米軍統治が続いたのです。彼女の報告を聞いて貧困も
基地被害も沖縄とまったく同じだと思いました。ですから海兵隊員とその家族が
沖縄からグアムに移転するといっても、それで喜ぶわけにいきません。基地はど
こにもいらないのです。〉

 いかにも決起集会風の男たちの演説が多い中で、口ごもりながら語る彼女のス
ピーチは聴衆に問いかけ、論理的な思考を喚起する、異彩を放つものだった。集
会後、筆者は古い友人である彼女に「私にもグアムにチャモロの友人がいる。私
にとってはあなたの話が一番まともで、一番良い話でした」と伝え、しばし懇談
したのだが、本稿の読者はどう思うだろうか。沖縄県外の日本のどこかに移設す
ればいい、グアムは米国領だから大勢の海兵隊員らが移動するのは当然と考える
だろうか。

 私は海兵隊員たちを米国本土に帰還させ、十分なメンタルケアを受けさせ、人
間性を取り戻させてから除隊させるべきだと考える。普天間基地は即時閉鎖し、
米軍が土壌汚染を除去した上で返還させるべきである。「アジアや中東への米軍
の出撃拠点」をたらいまわしすることは、沖縄県内はむろんのこと、県外でも許
されない。いらないものはいらないのだから、なくせばいいのである。軍隊が住
民を守らないことは、沖縄戦での余りにも悲惨な無数の体験記によって十分実証
されているではないか。
 最後にもう一つ指摘しておこう。在日米軍は「日本の安全保障」のために存在
すると日本政府はいう。だがそのために、沖縄は戦後64年間も犠牲を強いられ
てきた。しかも沖縄は「日本の安全保障」の体制からはずされている。戦争にな
れば米軍基地と自衛隊基地が集中する沖縄が真っ先に攻撃されるからである。こ
んな割りの合わない事態に目をつぶっていていいわけがない。

【添付資料】略年表・「普天間移設問題」と北限のジュゴン ◆がジュゴン関連

◆1955年 米軍統治下の琉球政府がジュゴンを天然記念物に指定 
 1965年 米海兵隊の新たな飛行場適地を米軍が調査、辺野古沖が候補地に
      挙げられる
◆1972年 「復帰」の年、日本政府がジュゴンを天然記念物に指定
 1995年 9月 米海兵隊員3名による少女レイプ事件起きる
      10月 島ぐるみ抗議の県民総決起大会
 1996年 4月 橋本・モンデール会談で5~7年以内の「普天間返還」を
      合意
  12月 SACO最終合意で沖縄〔本〕島東海岸の「海上施設」案
      を決定
 1997年 1月 辺野古住民が「命を守る会」を結成
      12月 名護市住民投票で海上基地建設反対が圧倒的多数を占める
◆1998年   テレビが名護市の東海岸でジュゴンが遊泳しているのを撮影
      し放映
 1999年12月 名護市長が「海上施設」の辺野古地区受け入れを表明
      ・この年、「北限のジュゴンを見守る会」発足
◆2004年 日本自然保護協会と那覇防衛施設局がジュゴンの食跡(はみあと)
      を確認
 2004年 9月 那覇防衛施設局による辺野古沖ボーリング調査が始まる・
      阻止行動開始
◆2005年   環境省がジュゴンの7時間の回遊を確認
◆2005年と07年、報道機関がジュゴンを撮影
 2005年 9月 那覇防衛施設局が基地建設のための調査中止、建設阻止派
      勝利
   10月 日米両政府が「日米同盟:未来のための変革と再編」を策
      定
 2006年 5月 日米両政府が「再編実施のための日米のロードマップ」を
      策定
 2009年 2月 日米両政府が「グアム移転協定」を締結
   7月 民主党が沖縄政策で「県外・国外移設」明記
       8月 衆院選で政権交代→鳩山連立政権発足
  10月9日 辺野古テント村の座り込み2000日に達する
◆2009年10月 沖縄県アセスメント審査会が知事への答申でジュゴンの 
      「複数年調査」を要求

 ※ 国際自然保護連合(IUCN)が日本政府に対しジュゴン保護を勧告するな
ど、北限のジュゴンへの国際的な関心が高まっている。(年表作成:井上澄夫)
 

【付記】本稿は「北限のジュゴンを見守る会」のニュースレター『イタジイの森
に抱かれて』第33号(09年11月7日発行)への寄稿に若干加筆したもので
ある。本稿の執筆にあたって、沖縄現地のジュゴン調査グループ「チーム・ザン」
の浦島悦子さんと「北限のジュゴンを見守る会」代表の鈴木雅子さんの協力を得
た。特に辺野古現地を含む沖縄の人びとの抵抗の歴史については、浦島さんから
多大のご教示をいただいた。お二人に深い謝意を表明する。
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朝鮮日報より   落石

2009年11月13日 09時54分18秒 | Weblog
即位20周年を迎えた天皇陛下は、
戦争の歴史が忘れられつつある日本の現実に対し懸念を示した。
というリードで朝鮮日報は平成天皇即位20年を報道しています。

 日本のメディアが12日に報じたところによると、
天皇陛下は今月6日の記者会見で、「歴史が次第に忘れ去られていくのではないか、
という点が心配だ。
歴史的な事実について十分な認識を持ち、それを土台にして、
未来に向かう準備を進めることが重要だ」と述べた。
だが一方で、昭和天皇の戦争責任については、
「(戦争は)昭和天皇が本当に望んでいなかったのではないか、
と察する」として、皇室の戦争責任論を事実上否定した。

 日本メディアは記念行事に合わせ、現天皇の平和に向けた取り組みを強調した。
実際、第2次大戦の当事者で、「戦犯」に当たるのではないか、
として論議を呼んできた昭和天皇とは違い、
現天皇は即位から3年後の92年、反対する意見が少なくなかったにもかかわらず、
中国を訪問して謝罪の意を示し、
翌年には戦争で大きな被害を受けた沖縄県を訪問した。
終戦50周年を迎えた1995年には、原子爆弾を投下された長崎市と広島市を、
そして2005年には、激戦地だった米領サイパン島を訪問した。
このときは、日本の外務省の反対を押し切り、韓国人慰霊塔へも参拝した。

 一方、天皇陛下は韓国訪問も強く望んでいるが、
政治的に物議を醸すことを政府が懸念しているため、実現の見通しが立っていない。
日本政府は、韓国で天皇陛下の訪問に反対するデモが起こることや、
謝罪を要求することにより、天皇陛下が政治的な論争に巻き込まれることを懸念し、
韓国訪問に事実上反対している。

   

昨日、大学で玉音放送について講義をしました。
天皇即位20年の日でしたが、健康的というか、学生は一人の
そのことを入りませんでした。
(知っていても、表現しないことも考えられますが)
8月15日を終戦といい続けてきたことが
外国との歴史認識の共有を妨げていると言いましたが
どうもわかってはくれなかったようです。

わからないほうが「幸せ」でしょうが・・・

天皇は象徴という現代日本最大の不思議な存在ですが、
平成天皇は、その行動が政治に利用されないように細心の注意を
払っているように思います。
多分、父の背を見て学んだんでしょう。

明治維新、敗戦という歴史的な危機になると表舞台に登場する不思議な存在。
平素はいるかいないか気にならないのが象徴としての最善のあり方でしょうか。




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別候補を立てないで          市民派

2009年11月12日 20時02分18秒 | Weblog
共産党に、別候補を立てないで辺野古での基地建設反対で一つにまとまるよう要
請しましょうよ!署名運動でもなんでも。米国移設も県外のうち。

>> 米海兵隊普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の移設受け入れの是非が争点となる
来年1月の沖縄県名護市長選で、民主党県連は31日、県外移設を主張する新人
の前市教育長・稲嶺進氏(64)(無所属)の推薦を決めた。
>
> 県連の喜納昌吉代表は「勝って(県内移設も選択肢とする)政府に物を言って
いく」と語った。
>
> 市長選にはほかに、自民、公明党が支援し、現計画を条件付きで容認する姿勢
の現職・島袋吉和氏(63)(同)と、共産党が支援し、米国移設を主張する新
人の琉球大非常勤講師・比嘉靖氏(65)(同)が立候補を表明している。
>
> ★社民・社大・共産・民主・自由連合の相乗り候補でも大敗したのに、次回の
名護市長選挙は民主党(おそらく社民と社大も共同歩調をとる)と共産党が別個
に候補を擁立するので、どう考えても現職候補に勝てるはずがない。結局「地元
である名護市民は市長選で“辺野古への条件付き移設”を選択する候補を当選さ
せて、民意を示した」ということになり、この問題は“辺野古への条件付き移設
”で決着すると思う。

●この推測をはずれさせる努力をしましょう。これまでの辺野古浜での座り込み
や命がけの測量作業監視の努力を実らせることができる機会がやっと巡ってきた
のですから。
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随筆 ”不整脈ランナーの手記”(4)  文科系

2009年11月12日 13時11分43秒 | スポーツ
昨日、随分久しぶりに中3日置きでジムに行った。今日はこんな心づもりで。
〈先日の「1時間、8.5キロ」を、今日は超えよう。ただし、無理は禁物。調子を見ながらのことだ〉

走り出しでは、ウオームアップ時間をかなり取った。時速7キロほどで、歩行、緩走を10分近く。それから時速8キロに上げ、しばらく走って8.5そして9キロ時へ。30分走ったときには4.1キロまで来ていた。それを確認した時、後半の走り方を、こんなふうに決めた。
「このまま走れば、8.6キロ。でも心拍は落ち着いているし、無理のない程度に上げていこう」

結果は1時間8.8キロ。最高も9.5キロ時に抑えて、心拍も160程度とおおむね安定していた。自分の感じとしては、こんなふうだったろうか。
〈今の力の8割ぐらいで走ったかな。中3日で数日通えば、9キロは無理をしなくても超えられるだろう〉
3月の1時間9.3キロも、もう見えてきた。

いつも気づくことだが、本当に面白いもので走れるようになるとお酒が強くなる。アセトアルデヒドを分解する酸素の吸収率が高くなるということなのだろう。近頃評判の「ニッカ竹鶴12年」を買ってきて、赤ワイン(チリのピノ・ノアール)一杯のあとに飲んだ。評判通りの立派なシングルモルトだと感じた。実験的にグレンフェィディックの21年と比べてみたが、スッキリ感が多少違うかという程度である。スモーキーな香りはもちろんだが、高級ウイスキー特有の奥深い味に、一種切れのある甘さが加味されているのが特徴だと思ったものだ。

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「普天間(ふてんま)基地閉鎖・返還(撤去)問題」の考察②

2009年11月12日 10時00分01秒 | Weblog
◆普天間基地問題の核心

 先の説明でわかると思うが、宜野湾市民は、行政も住民もこぞって「普天間地即時閉鎖・返還」を要求してきた。それは1972年の「復帰」前からずっと続いてきた市民の悲願である。ここではっきりさせなければならないことは、宜野湾市民が要求しているのは危険な基地の「即時閉鎖・返還」であって、「移転」ではないということだ。米海兵隊の基地をどこかに持って行けということではないのだ。筆者が1996年に沖縄を訪れたときには、普天間基地の土地をほんの一部だが返還させて建てられた佐喜眞(さきま)美術館に、普天間高校の生徒たちが作った模型が展示されていた。もし基地が返還されたらどういう街にするか、みんなで相談して、基地跡に創りたい未来の街を模型にしたのだ。
 先に触れた95年9月の少女レイプ事件は沖縄の人びとを憤激させ、島ぐるみの怒りが激しく燃え上がった。そこで当時の橋本首相はモンデール駐日米大使と会談し、「普天間返還」の合意が成立した。事件の翌年、96年4月のことである。その合意では、5年から7年以内に、沖縄にすでにある米軍基地内にヘリポートを移設し、普天間基地の一部機能を、極東最大の米空軍基地・嘉手納(かでな)に統合することになっていた。つまり合意は既存の基地の外に新基地を作る話ではなかったのである。

 ところが同年12月に日米安全保障協議委員会でなされたSACO(沖縄に関する特別行動委員会)の最終合意は「海上施設」案を「最善の選択」とした。既存米軍基地内ヘリポート移設案などは姿を消し、普天間基地の「代替施設」を「沖縄本島の東海岸に建設する」と決めたのである。その決定は、当時の池田外務大臣、久間防衛庁長官、ペリー米国防長官、モンデール大使がおこなったが、沖縄県民には一言の相談もなかった。完全に頭越しの日米政府間合意によって、名護市キャプ・シュワブ沖=辺野古沿岸域に海上ヘリポートが押しつけられることになったのである(辺野古集落は沖縄島北部名護市の東海岸沿岸域にあり、米海兵隊キャンプ・シュワブに隣接している)。
 嘉手納統合案が消えたのは、米空軍と米海兵隊はもともと米軍内で張り合っていて仲が悪く、米空軍が固定翼機(戦闘機)と回転翼機(武装ヘリ)が同じ滑走路を共同使用することはできないとして統合案を拒否したからである。しかし新基地建設に時間がかかることは誰の目にも明らかだったから、SACO最終合意を知った宜野湾市民、沖縄県民はひどく落胆した。また基地の県内たらいまわしか……。

◆沖縄の反撃からグアム移転協定まで

 しかし沖縄の人びとはいつまでも落胆していなかった。落胆は憤激に変わり、憤激は反撃のエネルギーに転じた。
 SACO最終合意で決められた「海上施設」は3つの工法が選択されることになっていた。(a)杭式桟橋方式(浮体工法):海底に固定した多数の鋼管により上部構造物を支持する方式 (b)箱(ポンツーン)方式:鋼製の箱形ユニットからなる上部構造物を防波堤内の静かな海域に設置する方式 (c)半潜水(セミサブ)方式:潜没状態にある下部構造物の浮力により上部構造物を波の影響を受けない高さに支持する方式、がそれである。
 いずれも辺野古沿岸の礁湖(沖縄の言葉でイノーという)を占拠する工法で、自然環境を大規模に破壊することは目に見えていた。その美しい海は、太古の昔から沿岸域の住民の生存と暮らしを支えてきた「命の海」でもあった。とりわけ沖縄戦中・戦後の食糧難を海の恵みによって生き延びた人々は「海は命の恩人」と語る。

 辺野古の住民は1997年1月、「ヘリポート阻止協議会 通称・命を守る会」を結成し、命と暮らしを守るための行動を開始した。そして同年12月の名護市の住民投票では海上基地建設反対が圧倒的多数を占めた。名護市民は日米両政府に「海上ヘリポート建設 NO!」を突きつけたのである。防衛庁(当時、現在は防衛省)は、反対する市民を切り崩すため、名護市に多数の自衛隊員を送り込んで露骨な懐柔工作を展開したが、市民の意思は揺るがなかった。
 だが日米両政府は住民投票の結果をまったく無視した。日本政府には沖縄を踏みつけにして軍事的安全保障を図る国策を変更する気はみじんもなかった。日本政府は比嘉鉄也名護市長(当時)に圧力をかけ、それに屈した彼は市民の意思を踏みじって基地受け入れを表明した。このあからさまな沖縄差別に対し、「命を守る会」や、辺野古に隣接する大浦湾沿岸の住民団体「ヘリ基地いらない二見以北十区会」をはじめ名護市の市民団体や労働組合などで構成する「ヘリ基地反対協議会」は、新基地建設を止めるための活動を展開した。

 那覇防衛施設局(当時、現・沖縄防衛局)が基地建設のための調査に強行着手
しようとした2004年4月以降、辺野古のおじぃ・おばぁたちやヘリ基地反対
協をはじめ「平和市民連絡会」など沖縄各地から駆けつけた人びとは辺野古漁港
近くでの座り込み、海上阻止行動などの非暴力直接行動を長期にわたって持続し、
2005年9月、ついに作業は中止された。これは新基地建設に反対する市民た
ちの鮮やかな完全勝利だった。
 基地建設案は海上ヘリポート案からリーフ埋め立て案、さらに沿岸案へと変わっていくが、日米両政府がどこまでも辺野古にこだわったのは、米軍がベトナム戦争中の1960年代からすでに辺野古沖をねらっていたからだった。2005年10月、日米安全保障協議委員会が「日米同盟──未来のための変革と再編」(以下「日米同盟」)という文書を公表した。それは1996年4月の「日米安全保障共同宣言」を踏まえて「アジア・太平洋地域において不透明性や不確実性を生み出す課題が引き続き存在している」とし「地域における軍事力の近代化に注意を払う必要がある」ことを強調した。そして文書「日米同盟」が公表された際の共同発表で「在日米軍の再編」が打ち出されたのである。

 ただし「在日米軍の再編」という言葉は誤解を招きやすいので注意したい。それは自衛隊の再編を伴いつつ、米軍の指揮下に自衛隊を組み込むことである。米軍のみ再編するのではない。目的は日米両軍の一体化で、それは両軍基地の共同使用に顕著である。その「在日米軍の再編」を急ぐため、日米両政府は2006年5月、「再編実施のための日米のロードマップ」(以下「ロードマップ」)を策定した。その内容は要するに、普天間代替施設を2014年までに完成すれば、海兵隊約8000名とその家族約9000名をグアムに移転する、グアム移転費用を日本政府が負担し代替施設を期限通り完成しないなら、普天間基地をはじめ嘉手納基地以南の基地も返還しないという脅迫的なものである。それは「統一的なパッケージ」と呼ばれ、徹頭徹尾、米国政府にとって有利な合意だった。
 その「統一的なパッケージ」の実施をだめ押ししたのが、今年(2009年)2月に突如日米間で調印された「グアム移転協定」だった。協定というと軽く聞こえるが、それは条約と同等の国家間公約であり、最近、米国政府はそのことを振りかざして日本政府に「協定」の履行を迫っている。
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平成天皇即位20年   らくせき

2009年11月12日 09時04分46秒 | Weblog
新聞に記者会見の全文がのっていました。
興味深かったのは「象徴としての天皇」のあり方について
皇后がよく理解できないといっていることです。

普通の人の感覚なら当然ですよね。

天皇は、そうは言えませんが、かなりの難問を
抱えてた人生なんでしょうね。

天皇家のながい歴史から、そのあり方を模索しているように
感じました。

日本国にあって国民でない人たちもなかなか大変。
自由にしてあげたほうが良いかも。

あるいは、京都に帰って和歌など
日本文化の宗家としての道を歩むか?






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十一月十二日のつぶやき

2009年11月12日 00時51分22秒 | Weblog
いいね! いいね! 

こうてでなくちゃ!!

事業仕分けスタート!!!

テレビ公開生中継を、見て感動した!!!!

こうでなくては、国民の前で、それぞれの必要性を真摯に訴え、判定を待つ。

時代は変ったのだ。        (新政権監視人)


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基地はいらない、どこにも「普天間(ふてんま)基地閉鎖・返還(撤去)問題」の考察①  井上澄夫

2009年11月11日 13時00分14秒 | Weblog
★この投稿は私の参加するグループの反戦の視点の井上澄夫氏が寄せてくださった投稿です。沖縄の基地問題を考える材料として是非読んでいただきたくて転載します。(ネット虫)

=============================
基地はいらない、どこにも
  ──「普天間(ふてんま)基地閉鎖・返還(撤去)問題」の考察①──

                              井上澄夫
はじめに

 沖縄のジュゴンが何頭いるのか、残念ながら、科学的に信頼できる情報はない。
しかし乱獲や魚網に引っかかる事故、生活廃水の垂れ流しによる藻場の減少、あるいは沖縄戦が残した不発弾の海中爆破などがジュゴンの生存をおびやかし、ついに「絶滅危惧種」という恐ろしいネーミングの対象になったことは疑いない。
それに加えて新たな米軍基地の建設がジュゴンを絶滅させようとしている。
 しかしながら、連日、マスメディアに登場する「普天間移設問題」はとてもわかりにくい。鳩山政権の閣僚たちの発言が「日替わり」とからかわれるほどコロコロ変わるので、問題の本質が見えにくくなっている。鳩山首相、岡田外相、北沢防衛相が相互に矛盾する発言を公然と繰り返し、鳩山首相は普天間基地の移設先は「私が最後に決める」と強調するものの、閣内不一致と内閣の迷走ぶりが際立っている。そこでそれらの奇っ怪な現象に振り回されず、落ち着いて頭を整理してみよう。

◆普天間基地とは?

 沖縄には在日米軍基地が集中している。よく「全国の基地の75%が沖縄に集中している」といわれるが、これは正確ではない。米軍が日本全体で占有する施設の面積比で75%(74.4%)が沖縄に存在するということが事実であり、基地の総数の75%が集中しているのではない。しかし面積では日本全体の0.6%に満たない沖縄県に占有面積比ではあれ75%の米軍基地が集中しているのは、いうまでもなく異常である(そのうえ沖縄県の中でもほとんど沖縄〔本〕島だけに基地が置かれ、島の土地の18.4%が占拠されている)。だから「沖縄の中に基地があるのではなく、基地の中に沖縄がある」とよくいわれるのだが、それは那覇空港から島の最北端の辺土(へど)岬まで、いや島の中部あたりまででもドライブすれば、誰でも否応なく実感できる。

 普天間基地は沖縄島中部の宜野湾(ぎのわん)市にある。正確にいうと、米海兵隊宜野湾飛行場である。海兵隊は最前線で敵前に強襲上陸する殴り込み部隊であるから、苛烈な訓練によって人間性をまるで失わせられる戦闘ロボットの集団である。だから戦地から沖縄に戻ると凶悪な犯罪を繰り返す。1995年9月に少女レイプ犯罪を起こした3人の兵士も海兵隊員だった。イラク戦争で起きた「ファルージャの虐殺」に沖縄の海兵隊が加わったことを全国紙などはほとんど取り上げないが、実は2004年に沖縄から5000人の海兵隊実戦部隊がイラクに派遣され、そのうちの2大隊が虐殺に参加したのだ。「動くものはすべて撃った」と兵士たちは証言している。

 普天間基地は人口約9万2000人の宜野湾市のど真ん中に居座っている。市街地はドーナツの輪のように基地の回りにへばりつき、そこに住宅、病院、市役所、商店、ホテル、幼稚園、小学校、大学などが密集している。基地からは武装ヘリや輸送機が出撃し、しかも日々訓練をおこなうから、爆音が市民生活を脅かし、事故発生の危険が身近に迫っている。実際、2004年8月には沖縄国際大学に武装ヘリが墜落した。幸い死傷者は出なかったが、一つ間違えば大惨事になるところだった。さらにもっと小規模の事故は日常的に起きている。落下傘で降下訓練中の兵士が風に流され、市街地に不時着するというような事故である。私の友人の家は滑走路の端に隣接する地域にあるが、その家の窓からは離発着する輸送機のパイロットの顔がよく見える。(つづく)

【付記】本稿は「北限のジュゴンを見守る会」のニュースレター『イタジイの森
に抱かれて』第33号(09年11月7日発行)への寄稿に若干加筆したもので
ある。本稿の執筆にあたって、沖縄現地のジュゴン調査グループ「チーム・ザン」
の浦島悦子さんと「北限のジュゴンを見守る会」代表の鈴木雅子さんの協力を得
た。特に辺野古現地を含む沖縄の人びとの抵抗の歴史については、浦島さんから
多大のご教示をいただいた。お二人に深い謝意を表明する。
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十一月十一日のつぶやき

2009年11月11日 00時03分59秒 | Weblog
わるい・・ごめん・・・すんません・・・腹たつでしょうね・・・

わかってます・・ずーと迷惑のかけっぱなし・・・ほんとは、こっちも引き受けな

なあー・・なんていうて

分かったようなことゆうても・・・何にも出来んかった・・

あんたらの苦労引き受ける気なんか・・なーんもなかったんや・・・

せめて、泡盛、鼻つまんでのんで・・ごめんと叫んでます・・
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