(1995年帝国劇場公演プログラムより)
「萩尾瞳(映画・演劇評論家)
-ロンドンで甦った90年代の『回転木馬』-
1992年12月10日、ロンドンの『回転木馬』初日。
クリスマスを控え、イルミネーションの輝きと人波で華やぐロンドンの街。なかでも、テムズ河畔にあるロイヤル・ナショナルシアター(NT)は、この夜とびきり華やかな興奮に包まれていた。興奮の渦の中心は、NTに3つある劇場の中で2番目に大きい劇場、リトルトン。そう、『回転木馬』初日の幕が開いたのだ。オーバーチュアに盛り込まれた工場のシーンに観客は鮮烈な衝撃を受け、その直後、まさに弾けるといった感じで登場する回転木馬のシーンでは劇場を揺るがすような拍手が沸き起こる。リチャード・ロジャースとオスカー・ハマースタインの名作が、ニコラス・ハイトナーの演出とサー・ケネス・マクミランの振付によって、ほぼ半世紀の時を経て鮮やかに甦ったのだ。プログラムによると、この作品は、NTのクラシック・ミュージカル・リバイバル・シリーズの第一弾。なるほど、演出、振り付けはもちろん、美術にボブ・クロウリー、照明にポール・パイアントといった一流スタッフが揃っているのを見れば、この作品にどれほど才能と力が注がれたかが分かる。この夜以来、劇場は連日満員。やがて、この作品は、93年度ローレンス・オリヴィエ賞をリバイバル・ミュージカル作品賞、ミュージカル演出賞など4部門を受賞する。
-ロンドンからニューヨーク、そして東京へ―
NTの『回転木馬』は素晴らしい。そんな評判が、あっというまに世界中のミュージカル関係者の間を駆け巡った。初日から3か月が過ぎた93年3月、東宝のプロデューサー、古川清はリトルトンの観客席にいた。94年に再演する『レ・ミゼラブル』のキャストについて打ち合わせるためロンドンを訪れた彼は、当然のごとく『ミス・サイゴン』の演出家ニコラス・ハイトナーの評判の新作『回転木馬』を見に来たのだった。ただし、この時点では日本上演の可能性を調べるという意図は、全然なかった。「ところが、舞台の素晴らしさに圧倒されましてね。古い作品だし、映画の『回転木馬』(55年製作)の印象が良くなかったので、あまり期待してなかったのに。なんと、名作が見事に甦っているうえ、サー・ケネスが振り付けたバレエの美しさときたら。ミュージカルにクラシック・バレエのシーンが盛り込まれているのではなく、バレエがストーリーに完璧に融け込んでいる。ボブ・クロウリーの美術も新鮮でしたし」と、驚き、感動し、「ぜひ、これを日本でやりたい」と即座に思い定めてしまった。
キャメロン・マッキントッシュの強い勧めもあり、それから数か月間、『レ・ミゼラブル』『ミス・サイゴン』に続き『回転木馬』でも共同プロデューサーに入ることになる田口豪孝ら関係者が、次々とNTを訪れ『回転木馬』を観劇、それぞれが作品に魅了されて帰国した。そして、93年11月、最終的にGOサインが出る。劇場は帝劇、プレビューを含む公演期間が95年5月から9月までの5か月というロングランが決定。日本版『回転木馬』の芽生えであった。
東宝の内部では『回転木馬』公演のこまごまとした準備が進んでいた。その頃、ロンドンの『回転木馬』はNTでの公演をいったん終え、93年9月10日にウエストエンドのシャフツベリー劇場で改めて初日を迎えていた。レパートリー・システムのNTでは、ひとつの作品がロングランすることはない。だから、NTで評判になった作品がウエストエンドの劇場に場所を移して続演されることも多い。『回転木馬』の場合、NTのプロダクションに多大な援助を与えているプロデューサーのキャメロン・マッキントッシュによって、シャフツベリー劇場で上演されることになったのだった。きらめく星空に木馬をあしらったネオンで外壁を飾ったこの劇場で、『回転木馬』は約1年続演し94年8月末に幕を降ろした。
『回転木馬』ブロードウェイ公演は、ウエストエンドより半年後にスタートした。94年3月24日、リンカーン・センターのヴィヴィアン・ポーモント劇場で初日を開けた『回転木馬』は、この劇場の半円形の舞台によく似合い、もとより作品の素晴らしさのおかげで大ヒット。同年のトニー賞リバイバル作品賞、演出賞、振付賞など5部門を受賞する。ここでの公演は、95年1月15日までロングランした。
-世界3都市でオーディション-
ロンドン、ニューヨークの『回転木馬』が連日満員を記録している頃、東京では帝劇公演を目指してオーデォションが始まっていた。第一次オーディションは94年3月から4月にかけて、第二次が同年6月、第三次は同年10月後半と、当初の予定よりオーディション期間は長引き、審査員が会った人数も回数も予想をはるかに越えた。『レ・ミゼラブル』『ミス・サイゴン』を手がけ、オーディションにはすっかり慣れているはずの東宝だったが、『回転木馬』のオーディションは予想以上に難航した。もっとも、歌や演技が中心のプリンシパルについては、ほとんど問題はなかった。これまでの実績からオーディション・システムが浸透していたからである。大変だったのは、バレエ・ダンサーのオーディションだった。サー・ケネス・マクミランの振付は、一見バレエの心得のあるダンサーなら踊れそうだけれど、実はかなりのバレエ技術の持ち主でなければ踊れない難しいもの。当然、アンサンブルのダンサーのオーディションは大変だった。けれど、もっと難航したのは2幕に長いバレエ・シーンのあるルイーズとフェアグランド・ボーイのダンサーである。「最初からプリマ級をねらってました。まずは、国内のバレエ団に声をかけたのですが、バレエ界は思ったより閉鎖的で、所属しているダンサーは貸してくれないんですよ。ルイーズはせりふがあるからやっぱり日本人じゃないとまずいので、外国で活躍している日本人に結局ねらいをつけて。一方、フェアグランド・ボーイはせりふがないから国籍は問わず、ただし日本の舞台に立つのは法律的にクリアできればいい、ということで」バレエ・ダンサー探しを進めた。従って、オーディションは東京だけでは済まず、ニューヨークやロンドンでも行われた。スコティッシュ・バレエ団でプリマを踊る下村由理恵や、コロラド・バレエ団のプリンシパル・ダンサー宮内真理子などは、こうしてカンパニーに参加することとなった。日本の『回転木馬』はすべての役がダブル・キャスト。もちろん、ルイーズ役もフェアグランド・ボーイ役もダブル・キャストのはずだった。ところが、2役は、ロンドンでもニューヨークでもダブル・キャストになっている。バレエにテクニックとエネルギーを出し尽くすため、連続して出演するのは無理なのだ。あちらより1週間の公演数が多い日本では、この2役についてはダブル・キャストのもう1人加え、トリプルという3人体制を取ることになった。
世界3都市に渡る長期のオーディションを経て、ついに全キャストが決定した。94年11月14日、『回転木馬』の製作及びキャストの発表。出演者全員の笑顔の奥には、これから始まる稽古への闘志がすでに燃えていた。『回転木馬』カンパニーは、スタート・ラインについたのだ。
-訳詞の手直し、小道具や衣装、すべてに細心-
ミュージカルの舞台を作るには、実にもう膨大な時間と手間と人材とお金がかかる。オーディションが進行していく一方で、台本の翻訳や訳詞の作業も着々と進んでいた。翻訳の酒井洋子はせりふを滑らかで耳に入りやすく、しかも明確な日本語に移すことに腐心し、訳詞の岩谷時子は、元の意味をできるだけ正確になぞりながら、しかもメロディに乗る日本語の歌詞にするため、言葉を探していた。『レ・ミゼラブル』『ミス・サイゴン』の訳詞をこなしてきた岩谷は、この『回転木馬』でも同じ苦労を強いられた。まず、一つの音符には一つの音しか入れないという原則を守ること。そうすると、一つのメロディで伝えられる情報は、英語に比べて日本語ではグンと減ってしまう。この情報量をできるだけ減らさないようにしながら、元の歌詞のニュアンスを捕らえ、また聞いただけで意味が理解でき、しかも、アクセントがメロディに反さず歌いやすく耳に心地よい訳詞を作る。はっきり言って、不可能な作業。それでも、不可能を可能にすべく、彼女はいくつもいくつも訳詞を書く。音楽監督と相談し、キャストに歌ってもらっては、直していく。英国側スタッフと話し合った結果、ニュアンスが違うからと、また手直しする。今回、歌詞は全て日本語に移すことに決まった。音符3つに「I Love You」とそのまま英語で入れれば簡単でも、そんな逃げはなし。けれど、五か所だけ、とうとう日本語にできない歌詞があった。『六月みんな弾ける』のナンバーの一部である。3つの音符に乗った「June June June」は、掛け声的な性格と弾むような語感を生かすため、結局そのまま歌うことになったのだ。
小道具や衣装の準備は、95年に入ると急速に進んだ。一番苦労した小道具は、以外にも木馬である。これだけは94年から準備を進めている。木馬なんかいくらでもありそうなものだが、なかなかピッタリのものがないのだ。油圧で上下する木馬のシステム自体は、日本の技術者にとってはなんてこともない。ところが、あの精悍な顔つき、筋肉しっかりのスタイルは、日本の木馬とは微妙に違うらしい。とうとう英国から買うか、という語になった。そこへ、リンカーン・センターの『回転木馬』が1月に終わるという情報が入ってきた。タイミングもいい、と、木馬をはじめとするこまごまとした道具や衣装は、リンカーン・センターから買うことになった。
95年1月、スタッフはニューヨークに飛び、さまざまな道具や衣装を買い込んで来た。道具のなかには、木馬はもちろん、古びてSINGERの文字がかすれたミシンやペンキがはげかけた椅子から、種の袋なんてものまである。種の袋は、それらしい模様と飾り文字がついた素朴な紙袋で、いかにも40年代のアメリカ、ニュー・イングランド地方で売られていたものに見える。客席からは見えない細かい部分まで、全てがきちんと作られているのだ。買って来た道具は、全部が日本の舞台で2度目のお務めをするわけではない。この道具を参考に、日本で作り直すものもずいぶんあるのだ。衣装も、リンカーン・センターで使ったすべてが、2月には日本に到着した。ただし、これも参考にするだけ。第一、サイズが合わない。到着した衣装は、日本側の衣装スタッフの手で見る間にバラバラにされてしまった。微妙なラインの出し方や各部のはぎ方などを、衣装をバラしながらチェックするのである。4月には、英国側から衣装補のクリスティーヌ・ローランドが加わり、日本側の衣装スーパーバイザー黒須はな子が腕を奮って、日本人キャストに合わせた舞台衣装が次々と出来上がってきた。
-基礎訓練から舞台稽古まで-
出演者の稽古は、製作発表の直後、94年11月に早くも始まった。とはいえ、この頃は「スクール」と称する基礎訓練。週に一度、原則的には水曜日に、この訓練は行われた。発生、肉体訓練、バレエの基礎演習、といった内容だ。歌がメインで選ばれたプリンシパル、バレエで選ばれたメイン・キャストは、まあ、さほど苦労せずにすんだよう。大変だったのは、歌で選ばれたダンサー・シンガーと、ダンスで選ばれたシンガー・ダンサーで構成されたアンサンブル。それぞれのグループの歌とダンスのレベルを揃え、より高いレベルに持って行く必要があるのだから。「特にバレエ・ダンサーの人たちは、最初とまどったようです。バレエって、声を出すのはタブーでしょう。まず声を出すことから始め、徐々に、歌うのって気持ちいいね、と思えるように持っていく。でも、さすが表現する人たち、物理的にはついていけなくても表現したい気持ちはあふれるほどある。だから、いったん歌えだすと、伸びがすごい」と、音楽監督の山口シュウ也は言う。
スクール最後のカリキュラムは『回転木馬』のナンバーの練習だった。1週間ほどの特訓の成果は、3月17日の『回転木馬 帝劇上演記念グランドコンサート』で披露された。これは、3月18日からの『回転木馬』の前売り開始を記念して帝劇で開かれたもの。無料だったけれど、葉書で応募して抽選で入場券がもらえるというシステムだったため、一人で何枚も葉書を出すファンも多く、東京地区以外からの応募も多かった。『もしもあなたを愛したら』で始まり『人生ひとりではない』で終わったコンサートは、早く公演を見たいという気持ちをかき立てるに十分なものだった。
4月に入り、ロンドンから演出補のマシュウ・ホワイト、振付補のジェーン・エリオット、音楽監督のマーティン・イェーツらもやって来た。いよいよ稽古は本格化。たくさんある帝劇の稽古場のうち、一番大きな9F稽古場ではダンスが、もっと小さなB6稽古場ではお芝居が、さらに小さなB4稽古場では歌が、といった具合に分業で稽古が進行する。4月も後半になると、午前中から午後にかけては分業で、午後か夕方には全員が9F稽古場に集まって場面ごとの稽古をするというスケジュールが基本になった。『回転木馬』の時代や舞台背景については、それ以前にカンパニー全員が勉強済み。その勉強のために、たとえば「ニュー・イングランドの歴史と産業」と題した参考資料を作ったのは演出部のメンバーだった。
面白いのは、出演者それぞれが自分の役に肉付けし膨らませていくエクササイズ。舞台の上では呼ばなくても、アンサンブルの全員にニュー・イングランドふうの名前が付いているのだ。名付け親は演出家のマシュウ。日本人には、どんな名前がニュー・イングランドふうなのか、なんて、よく分からないからだ。そして、それぞれの人物には、年齢や仕事や生い立ちなどのキャラクターづけがされる。たとえば、エラは陽気なミセスといったように、さらには誰と誰が家族で、誰と誰が仲良しでといった人間関係も作り上げていく。「浜辺のはまぐりピクニックのシーンひとつとっても、誰と誰は不倫をしているとか、新しい恋人探しが目的で参加しているといった人間模様があるわけ。細部までていねいに作っているので、よく見れば見るほど面白いですよ」と、演出助手の増田邦彦は言う。
9F稽古場には、真っ青な回り舞台が入っている。ただの青ではない。『回転木馬』のテーマ・カラー「インディゴ・ブルー」である。その舞台で、4月下旬、初めて『ジューン・ダンス』が通して踊られた。見た目よりはるかに難しいこのダンスでは、思わぬケガ人が続出している。それほどダンサーたちが苦労しているだけあって、さすがに素晴らしいシーンだ。華やかさと迫力に、見ている人々は呆然とし、次の瞬間は拍手が起きる。他の日、初めてルイーズとフェアグランド・ボーイのバレエが通される。渡辺美咲と森田健太郎のコンビだ。サー・ケネスの振付の美しさに、バレエを見ている人々は瞳にうっすら涙さえ浮かべるほど感動している。
4月28日。帝劇で上演されていた『サウンド・オブ・ミュージック』の千穐楽。マチネのラク公演が終わるのを待ちかねたように、夕方から道具が撤去され始めた。徹夜の撤去の後は『回転木馬』の舞台作りが始まる。美術も美しく新鮮なら、それをより際立たせる照明もまた美しい『回転木馬』だけれど、それだけに装置や照明器具は贅沢に凝っているのだ。たとえば、最近使われ始めたバリライト。ちょっとゴージャスなコンサートでも2、3機程度で済ませるこの高価なバリライトを、『回転木馬』ではなんと20機も使っている。それを備え付けるだけでも大仕事。観客席からは見えない部分にこそ、実は最も労力とお金がかかっているわけだ。
5月1日。初めて1幕、2幕を通し稽古。プレビュー初日まで、残り20日を切った。カンパニー全体に、ほどよい緊張感がみなぎる。後は、細部をていねいに練り上げていくだけだ。
-プレビュー、そして初日の幕が開く-
5月19日、プレビュー初日。帝劇は、この日を待ちかねた観客で埋まった。この日のジュリとビリーは鈴木ほのかと宮川浩で、日によってキャストの組み合わせは変わる。満席の客席が期待と興奮でざわめくなか、オーヴァーチュアが鳴り響く。劇場の空気に緊張が走り、次の瞬間には観客はもう舞台の虜だ。舞台上が一瞬にして回転木馬の回る遊園地に変わるや、どっと拍手が沸く。2幕目になると、客席のあちこちで涙を拭う姿が目立ち、鼻をすする音が聞こえる。この夜、出演者たちは少々あがり気味ながら見事な舞台を見せ、カーテンコールでは盛大な拍手を受けた。ここからスタートしたプレビューの客席には、時に海外からの劇場関係者の姿も見受けられた。たとえば5月26日には米国からロジャーズ&ハマーシュタイン・オーガニゼーション社長のセオドア・S・チャピン氏が来日して観劇、「初めて日本語の『回転木馬』を見ました。日本語の分からない私も、とても感動しました。素晴らしい舞台にしてくれて、ありがとう」という言葉を残している。
6月2日。この夜の観客には予期せぬプレゼントがあった。カーテンコールに一人の米国人女性が現われたのだ。彼女はメアリー・ロジャーズ・ゲッテル。この作品の作曲家・リチャード・ロジャーズのお嬢さんで、いまは名門ジュリアード音楽院の理事長を務めている。『回転木馬』については「50年前のブロードウェイ初演を14歳の時に見ました。それまでも父の作品は見ていたけれど、初めて初日を見せてもらったのがこれなので、とりわけ感慨深い作品です。その夜、ちちは背中にケガをして担架で劇場に運ばれて来たため客席には座れませんでした。でも、客席から聞こえて来る大きな拍手の音で成功したのが分かったそうです」という思い出がある。思わぬ人の登場にどよめく客席に向かって、彼女は「こんなに素晴らしい舞台を見たのは初めてです。亡き父がこの舞台を見たら喜んだことでしょう。カーテンコールのときに回転木馬が回るのは、日本のオリジナル演出ですが、とても素敵でした。俳優さんたちの歌も演技も素晴らしかった」と挨拶、割れるような拍手を受けた。その後、舞台裏で出演者に囲まれ、父の作品が日本で甦るのを、ワクワクしながら拝見しました。日本語は分からないけれど、とても感動しました」と語った彼女の言葉に、カンパニー全員は自分たちの仕事に改めて自信と誇りを持ったのだった。こんな出来事もあったプレビューの日を重ね、舞台はグングンと磨かれてきた。
そして、6月26日。ついに初日の幕が開いた。各界の有名人の観客も多く、華やかななかにも静かな興奮と緊張が支配するこの夜の客席には、オリジナル演出のニコラス・ハイトナーの姿もあった。パリのシャトレ劇場で演出したヤナチェク作のオペラ『利口な女狐の物語』の初日を開けたばかりで、『キング・ジョージの狂気』に続く監督2作目『るつぼ』のクランク・インを控えた多忙なスケジュールのなか、ロンドンから飛んで来たのである。終始、嬉しげに舞台を見つめていた彼は、幕が降りた途端こう叫んだのだった。”They did a great job!“(素晴らしい出来だ!)
「日本人キャストの表現はナチュラルで、しかもパッションを感じさせて、とても素敵です。歌のスタイルは、日本人の場合、欧米とは違ってビブラートの幅が大きいという特徴がありますが、歌そのものは、文句なしに素晴らしい。バレエも技術的に優れていて、もちろん美しいし。日本のカンパニーは実に感動的な舞台を作ってくれました」と、手放しの褒めよう。それからも毎日、毎日、劇場では素敵な奇跡が起こり続けている。」