たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

コロナ入院期間、4日に短縮可能 重症化リスクに応じ判断、厚労省

2022年02月09日 15時37分37秒 | 気になるニュースあれこれ
2022年2月8日付東京新聞より、

「コロナ入院期間、4日に短縮可能 重症化リスクに応じ判断、厚労省-

 比較的症状が軽い人は自宅療養などに切り替え、病床逼迫を防ぐとともに、高齢者や症状が急変した人が確実に入院できるようにする狙い。」

https://www.tokyo-np.co.jp/article/159042


 リスクの高いところはわかってきているのに、このままコロナの特別扱いは続いていくのか。

 法律上は厚生労働大臣が「新型インフルエンザ等感染症」に該当しないと判断して公表すればインフルエンザと同じ5類に変更できるという記事。


楊井人文のニュースの読み方より、

「コロナ「2類相当」変更は法改正せず厚労相の判断で可能-

「厚生労働大臣が、もはや「新型インフルエンザ等感染症」に該当しないと判断して公表しさえすれば、「入院勧告」「無症状者への適用」その他さまざまな法的な縛りが解けるのです。

現在の感染症法には「5類」にインフルエンザなど8つの感染症が分類されているのですが、「コロナウイルス」は入っていません。ただ、「厚生労働省令」でインフルエンザと同レベルの感染症を5類に分類できるようになっています。」

https://yanai.theletter.jp/posts/7e7882e0-8728-11ec-bbc4-b12f244efdaf


 大人の都合で子どもたちを悪者にした集団ヒステリー(とわたしは思います)。ようやく子どもたちを守る声が医師会から発信されました。??と思うところもありますが、まん延防止~が延長されようとしている中で声があがってきたことは大きいのかもしれません。


「「都医師会理事、2歳以上マスク着用に「とんでもない」 心肺への負担やちっ息の危険も-

会見後、囲み取材に応じた川上理事は「2歳にマスクなんてとんでもないこと。大人を守るために子どもが犠牲になるというのが国の考え方。子どものためにちゃんと声を上げていかないと」と話した。」」

https://news.yahoo.co.jp/articles/bd425c18eabea8b35751576965188dd197ddf9aa


「東京都医師会、子どもへのワクチン接種は「同調圧力で打たせるのは反対」-」

https://news.yahoo.co.jp/articles/c37f88505cbb067b663479976d88f3418649c215


 振り返ると2020年3月ごろ、日本は一か月後アメリカのようになる、イタリアのようになると言われました。ニューヨーク在住のシングルマザーを名乗る女性が、日本は二週間後やばいことになるよと不安を煽った動画、YouTubeで再生回数が多いということで勝手に表示されたので、わたしも見ました。ある大学教授は死者何十万人という予測を出しました。日本はそうならなかったのに、そうなっていないのに、その頃植えつけられた、コロナによって健康だった人が突然バタバタと倒れていくというイメージが強すぎるのではないでしょうか。2020年5月の時点で、指揮者の上垣先生は謝るべきですと書かれています。

https://ameblo.jp/saty0221/entry-12600886270.html?frm=theme


 コロナ禍であらわになった、希望のない日本という船の姿、このまま沈むまでコロナの特別扱いを続けていくのでしょうか。

 

旅の思い出-フォンテーヌブロー宮殿-年代記

2022年02月09日 00時00分01秒 | パリから世界遺産を訪ねて
2008年9月10日(水)、JTBの格安ツアーで訪れました。

写真も旅日記もないので現地で購入した日本語の見学ガイドより、

「年代記-8世紀にわたる歴史

 フォンテーヌブロー宮殿は、狩猟に適した鳥獣が多く棲む広大な森のなかにあり、8世紀にわたって、国の支配者たちのお気に入りの場所であった。ルーヴルやヴェルサイユとは異なり、この王宮が政治の中枢の場になったことは一度もなく、どちらかといえば、特に狩猟シーズンに都会の喧騒の中から逃れ、家庭的なくつろぎを楽しむ館として好まれてきた。このように常に愛されてきた建物や装飾は、それぞれの時代の流行にあわせて絶えず修正や拡張が行なわれ、その美しさに磨きがかけられた。一目でここを理解するのが難しいのはこうした理由からであり、同時にまた、フォンテーヌブローの豊かさと価値も、同じ理由によって説明できる。実際、それぞれの統治者が自らの必要や欲望に応じて翼館の増築、建物の取り壊しや再建を行ったため、視点をかえるたびに、それまでとはまったく別の宮殿がそこにあるように思えるほどである。したがって、その歴史をたどれば、この宮殿をより深く理解できるであろう。

 12世紀、少なくともルイ7世の治世には、この地に城塞のあったことが知られている。聖王ルイ(ルイ9世)は都会を離れてここに来ることを好み、1259年には、病院の維持を担う三位一体修道会の修道院をこの傍らに建てさせた。端麗王フィリップ4世はこの宮殿で生まれ、亡くなっている。15世紀になると、宮殿は王妃イザポー・ド・パヴィエールによって美しく装飾された。

 1528年、パヴィアの戦いによって敗れ捕虜となっていたフランソワ1世は解放され国に戻ると、首都から遠く離れることなく狩猟を楽しめ、しかもパリから逃れることのできるこの場所に愛着をもつようになった。王は中世の建物の土台の上に新しい宮殿を建てることにしたが、正方形をした大きな塔であるドンジョン(主塔)は取り壊さずに残し、その開口部のみが採光をよくするために広げられた。ドンジョンは現在も「楕円形の中庭」の奥に見ることができる。また、イタリアで接した建築に魅了された王は、森に面する側に新しく「黄金の門」を造らせた。この門は、現代的なピラスター(付け柱)と三角形のペディメント(切妻壁)の付いた窓、そしてロッジアで装飾が施されている。さらに中庭に突き出た部分には、「セルリオのポルチコ(柱廊)」と呼ばれる堂々たる会談も造らせた。この会談は後にファサードと一体化された。」