たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

『マイ・フェア・レディ』から『回転木馬』まで(2)

2022年02月20日 01時11分50秒 | ミュージカル・舞台・映画
『マイ・フェア・レディ』から『回転木馬』まで
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/011a3fd8a1f555921d18bd6417bdfe9e

(1995年『回転木馬』帝国劇場公演プログラムより)

「東宝のミュージカル上演史『マイ・フェア・レディ』から『回転木馬』まで-小藤田千栄子-

 そして『マイ・フェア・レディ』のあと、次は、やや小ぶりな作品を2本連続して上演したのもまた大きな魅力だった。当時の情報によれば、ブロードウェイでは、客席1000前後の中劇場でミュージカルを上演することがよくあり、それには日比谷の芸術座がぴったりだと発表されたのである。いまのように、ブロードウェイの情報が、ストレートに伝わる時代ではなかったので、私たちはそういうものかと思い、そしていそいそと芸術座に通ったのだった。

 ここで上演されたのは、浜木綿子主演の『カーニヴァル!』(1963年10月)と、雪村いずみ主演の『ノー・ストリングス』(1964年6月~8月)で、客席から舞台がとても近いのが何よりの魅力だった。『カーニヴァル!』は、映画『リリー』の舞台化で、リリシズムにあふれたものだったが、『ノー・ストリングス』のほうは人種問題が底辺にあり、ブロードウェイ・ミュージカルは、こういうテーマも扱うのかと思ったものである。

 1964年には、同系列の新宿コマ劇場でもブロードウェイ・ミュージカルの上演をするようになった。最初は坂本九・草笛光子主演の『努力しないで出世する方法』で、これはブロードウェイ・ウエイの最新作。これはブロードウェイのクラシック。系統的な上演ではないが、当時のミュージカル・ファンは、とにかく何でも見たい、それも数を見たいという欲求にあふれていたので、いささかバラエティに富みすぎた作品選択にも、大喜びしたものである。

 1965年になると、ここで初めてロジャース&ハマースタイン二世のミュージカルが登場する。同コンビの最後の作品『サウンド・オブ・ミュージック』である。まだ宝塚に在籍中だった淀かほるの主演で、あの映画版が来る半年ほど前のことである。1月~2月の芸術座での上演だったが小さな限定空間から、音楽は無限に広がり、まさにタイトルどおりの音楽の響きだった。

 そして4月には『王様と私』の初登場である。初演は梅田コマ劇場で、東京では12月・宝塚劇場での上演だった。東宝ミュージカルの歴史の中でも、これはとりわけ意義深い上演で、まず日本初演が大阪だったこと、越路吹雪の翻訳ミュージカルへの初登場だったこと、それともうひとつ、松本幸四郎(当時・市川染五郎)のミュージカルへの初登場でもあったことだ。当時、22歳で、染五郎青年さっそうの登場という感じだった。はっきり言って越路吹雪とは、親子ほどにも離れていたと思うけれど、しっかりと胸を張った立派な王様で、なんとも爽やかなミュージカル・スターの誕生だった。

 『王様と私』東京公演の少し前の9月、東京宝塚劇場には、ブロードウェイからメリー・マーティン主演の『ハロー・ドーリー!』がきた。来日ミュージカルでは、1964年の『ウェストサイド物語』につぐもので、華やかさと、スピーディな展開を見せ、これぞブロードウェイの魅力を放ったものである。

 1966年になると、まず東京宝塚劇場で宝田明・江利チエミの『キス・ミー・ケイト』、ついで新宿コマ劇場で越路吹雪の『南太平洋』、そして芸術座には、初めてのロンドン・ミュージカル『心を繋ぐ六ペンス』が登場した。『心を繋ぐ六ペンス』は、当時の市川染五郎と淀かほる主演で染五郎青年の迫力いっぱいのダンス・ナンバーには驚いたものである。好評のため、翌年には帝国劇場で再演された。

 このように次々と歴史的な名作が、あるいはブロードウェイの最新作が登場し、まさに草創期の輝きに満ちていた60年代だが、この輝きは、まだまだ続く。」

                               →続く