たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

「記念撮影のときマスク姿では世界に笑われる」

2023年01月30日 19時28分37秒 | 気になるニュースあれこれ
もう笑われています、総理大臣を筆頭に自分の頭で考えて決めることのできない姿が・・・。


https://twitter.com/YOSHIHI17950532/status/1619587622351024130より、

「マスクのルールを決めて欲しいと言ってるバカどもは根本的に頭が悪すぎる。

マスク着脱は、個人の判断に委ねる。

これがルール。

つまり、他人にマスク着用を強制してはならない、ということが、このルールにはすでに含まれている。」




https://twitter.com/naika_hashikure/status/1619499938534273024より、

「冬はマスクしてた方が暖かいとか、花粉症だからしたいとか、それは従来通りすればいい。ただしマスクをしていない人は他人を思いやれない奴だとか、デリカシーが無いとか、マスクしてない人は入店拒否だとか、そういうことをやめようという話。

マスクできない/したくない人の人権をどうなのか。抑も感染対策と称して「マスクの有無を根拠に人権侵害をしてよい」というのは無理がある。
マスクの有無だけで区別すると、感染性がないのにマスクがないから入店不可の人も、感染性があるのにマスクがあるから入店できる人も出てきてしまう。

「感染性なんて見た目でわからないから一律にマスクさせて、マスクしてない奴を社会からはじく」
そんなことがいつまで許されるのか。
「違う店に行けばいい」などと簡単に言うけど、「マスク着用のお願い」を掲げてない店なんてほぼ皆無なので、それは全くもって非現実的な詭弁でしかない。

「店にも客を選ぶ権利がある」などとも言うけど、ドレスコードのある店は限られるのに対し、マスクはほぼ全店舗で求められてしまうわけだから全く違う。
銃刀法違反にも例えられるけど、マスクしていない人は何も危害を及ぼさない可能性の方が高いわけだから全く違う。

マスクしていない人をはじく社会をいつまでも続けたいのか。そういう社会を許容していると、次はマスクとは違う基準で社会に邪魔な人たちを見つけ出し、彼らを除外しようとする。
そしていつかは自分が除外される側になる。そういう歴史を繰り返してきているから警鐘を鳴らしているわけです。

社会を正常化する、持続可能な社会にするためには、社会がこのウイルスを許容してコロナ前の生活を取り戻さないといけない。
感染リスクを常に気にして、感染対策を守らないやつは除外してもいいなんてことを続けていたら、今後甚大な被害がさらに顕在化して社会が壊れる。目を覚まして下さい。」


 劇場も含めて、マスクなしは入場・入店お断りとがちがちのカンセンショウタイサクをしまっているところはどうしていくのでしょうか。各ガイドラインの改訂、自治体の動きをみながらということになるのでしょうが、検温・アルコール消毒の強制と共に、厳しくしていくのは簡単だったけれど、緩め方はすごく難しいのではないかという気がしています。それとも、ゼロコロナをめざしてこのまま永久にカンセンショウタイサクを続けていくのか。

 3年もお互いの顔をみないままきてしまいました。なんとなく街の様子だと、日本人が体調に問題なくてもマスク外せるまでには何年もかかるようにみえます。レジの店員さんとか接客業の方々、人によってはもうこわくて永久に外すことができなくなっているのでは・・・。

 表面温度測定器を置いて、発熱患者の入室お断り、外で検査結果待ちとしてしまっている町医者もどう対応を変えていくのでしょうか。ビニールシートとアクリル板、場所によってはカンセンショウタイサクではなく防犯対策になっているように思えます。どうなっていくでしょうか・・・。

通信教育レポート-社会学史Ⅰ

2023年01月30日 14時33分37秒 | 日記
課題-
 社会学では人間をどのように理解してきたのか。テンニエス、ジムメル、マックス・ウェーバーの場合について述べよ。

「社会学」という名称は、19世紀中頃のヨーロッパにおいて用いられるようになった。初期の社会学は、経済・法律・政治学の社会諸科学を総合的に組織化しようとした総合社会学である。権威主義的な前近代社会から近代市民社会へと移行する過程で生じた様々な問題を乗り越えるためには、諸々の社会現象が相互に関連し合いながら一つの社会現象をつくり出しているという認識が重要となってきた。総合社会学は、危機状況を打開するために必然的に生まれた「市民社会の科学」であり、その基礎には”人間”の存在がある。社会学が、やがて独自の研究領域をもつ社会科学へと変わっていく中で”人間”は、どのように捉えられたか。

 1880年から1920年代にかけて、ドイツで新しい社会学の流れが起こった。先ず、テンニエスは、『ゲマインシャフトとゲゼルシャフト』において独自の社会学を構想した。この質的に対立する二つの概念は、あらゆる人間は「本質意志」と「選択意志」を共有する、ということが前提となっている。彼の社会学は、縦軸に人間行動の原因、又は傾向である衝動や感情の統一としての意志をおき、横軸には、生命発展の三段階を示す植物的生命、動物的生命、人間的生命をおいている。そして、縦軸の意志が、「本質意志」と「選択意志」に分けられる。「本質意志」は、根本は人間の感情(本能)の中にあり、慣習によって固定し、信仰または信頼として完成する意欲をいう。利害関係を抜きにして他者との関わりを求める自然発生的な意志である。この「本質意志」に基礎をおいた理解的・非合理的・非打算的な共同体を「ゲマインシャフト」という。これに対して「選択意志」は、目的と手段が分離し、反対意志(嫌悪や良心の呵責)があるにも関わらずこれを抑圧して目的のために手段を選択する人為的な意志。この「選択意志」に基礎をおく理知的・合理的・打算的な集合体が「ゲゼルシャフト」である。これは、近代の株式会社及び市場によって代表され、そこで人々は「選択意志」によって利害を媒介して一時的に結びついている。いわば「外見上の共同生活」である。近代化は、親族集団や村落共同体のようなゲマインシャフトを解体させ、企業や市場のようなゲゼルシャフトを発達させる。「ゲマインシャフト」から「ゲゼルシャフト」への移行の図式は、有機的な構成をもつ前近代的な社会から機械的な仕組みをもつ近代市民社会への移行という、近代を社会関係の性質の変化という観点から捉えたものである。

 テンニエスに続くジムメルによって、社会学は独自の研究領域をもつ社会科学の一部として確立された。彼は、社会の本質を人間の心的相互作用という動的概念の中に求め、諸個人の間にひき起こされる相互作用が社会化の「形式」である、とした。これは、どのようなことか。先ず、彼は自然科学の命題を考えた。自然を構成している諸要素は客観的な実在だが、それらを認識する個人はそれらを結合して自然の表象をつくる。つまり、個人という主体に対する自然という客体があり、個人の主観の中で客体である自然の表象は成立する。しかし、社会の認識の場合は、客観的な諸要素を結合する主観は、諸要素そのものの中にあると考えた。認識される社会という客体が認識する主体である個人と対立しているのではなく、認識されるものも認識するものも心的相互作用という意識、つまり、社会を自然のような個人を超える客観的な実在とは考えないで、社会をはじめから個人の意識の中にあるものとした。社会という客観的な統一体があって個人の心的相互作用があるのではなく、個人の心的相互作用があってはじめて社会的統一がある。この社会化の過程における形式が、経済・政治・法律などの諸領域を含む「広義の社会」からは区別して「狭義の社会」と呼ばれる。この区別は、社会化の内容と形式との分離にもとづいている。「広義の社会」である経済・政治・法律などは社会化の内容を成す素材であり、これらが社会化において実現されるには共通の形式が必要である。つまりそこには、個人の意欲や関心という内容から抽出して得られる「社会性」による規定が貫いている。個人の間の心的相互作用が社会化の「形式」である、とはこのようなことである。ジムメルは、社会化の内容は他の諸科学にまかせて、内容とは分離した人間の心的相互作用の社会化の形式のみを社会学独自の研究領域とした。故に、形式社会学と呼ばれる。しかし、この方法は、最初から社会の内容と形式との論理的分離を行ったために、また心的動機には触れなかったために、そこにおける人間は歴史的・現実的な個人ではなく、きわめて抽象的な概念になってしまった。結果、人間の主体的意義は失われた。

 ジムメルが失ってしまった人間の主体的意義を中心にすえ、その行為の社会的経験を問うたのがウェーバーである。彼は、社会現象を生きた人間の主体的営為との関わりで捉えた。その出発点は、人間の個人の行為を分析し、その主体的な意味を理解することにある。彼によれば、社会学は人間の「社会的行為」に関する経験的科学である。経験科学においては、行為者の主観的意味や動機が重要となる。

 では「社会的行為」とはなにか。先ず、行為とは行為者が欲求・動機あるいは目的をもつことによって始まり、その欲求・動機が充足され、あるいは目的が達成されるこによって終わる過程である。ここにいう欲求・動機・目的は個人レベルのものであり、社会システムの中でいつも充足、あるいは達成されるわけでは決してない。行為者は、行為の過程の中で、外側になる社会システムという環境との関わりの中で、内側にある欲求・動機、あるいは目的の充足、達成の為に行為する。この行為を、行為者が他者に対して何らかの主観的意味を結びつけると「社会的行為」となる。「社会的行為」とは、行為者が他者と意識的に意味をもって関わる対人的行為であり、「行為の合理性」を軸に四つに分類される。

(1)目的を達成するために合理的に計算される目的合理的行為

(2)結果を顧みることなく価値ある目的に挺身する価値合理的行為

(3)感情的満足を与えるように方向づけられた感情的行為

(4)伝統によって慣習化された伝統的行為

 ウェーバーは、この中で目的合理的行為を優位においている。行為が目的達成のための過程である以上、その目的に対してより適合的な手段を探り選択していくのは合理的な行為である。社会的行為における人間は、目的を達成するために手段を選択しながら行動する主体的な人間といえる。いいかえれば、人間は一定の行為を選択するか、選択しないかを選択する主体である。

 このような主体的人間である個人の社会的行為が相互に関係づけられる時、社会関係が成立する。この社会学的な意味は、より高い満足の実現のために互いに相手を必要とすることにある。社会的行為の当事者間に、その相互関係が互いに満足をもたらした場合には反復される傾向があり、そのことを通じて相互関係を今日と同じく明日も明後日も持続したいという期待が共有されるようになり、社会関係は成立する。そして、社会的行為が繰り返されるとその内部に事実上の規則性が生まれ、人は互いにその規則性に準ずるように自分の行為を方向づける。これが社会現象であり、ウェーバーの社会学の目的は、この社会現象を解明することにある。解明するとは一定の現象を法則的な知識を頼りに、原因-結果の系列で捉えることをいう。諸個人が無数の複雑な相互関係で結ばれている社会に、自然科学のような単純な因果関係を求めることは困難である。しかし、社会科学も科学である以上、何らかの法則的な知識なしには成立しない。そこで、法則を求めるために、目的-手段という人間の目的論的関連を、因果関係のカテゴリーに組み直す必要がある。これを可能にするのが理解的方法であり、個人の生活態度、その意味を出発点とする。

 例えば、近代資本主義はなぜ西欧で発達し、他の地域では発達しなかったか。これをウェーバーは宗教倫理と結びつけて考えた。宗教改革が行われた西欧では、プロテスタンティズムが人々の心を捉えた。その倫理のもとで人々は何よりも現世の職業活動に励むことがもっとも神の声にかなうものと信じ、勤勉・質素・節約を旨として職業活動に専念した。そこで蓄積された富は、ぜいたくなどに使われてはならず、再び職業活動にふりむけられた。そうした結果、富が資本となり、近代資本主義が発達した。つまり人々は私欲から利益を追求したのではなく、キリスト教的禁欲精神から経済的営為に精を出した、と説いた。このようにウェーバーは、日常生活を営む人々の生活態度と生活様式、行動のパターンに注目し、どのようなものによって生活に一定のスタイルが与えられるかを研究した。そしてその精神的態度に注目したのである。ほかならむ日常生活において、経済的営為は行われている。西欧の人々は、世俗内的禁欲によって支えられた行動によって神による救いが得られるものと考え、そうした考えを抱きながら日常生活を営んだ。ウェーバーによれば、日常生活の中で、宗教的に資質ある者への恩恵と撰びが証明される。それは、あるがままのものではない。神への奉仕のために方法的に合理化された日常生活の行為において救済の状態にあることが証明される。ウェーバーは西欧の近代資本主義文化の担い手である人間の、合理的に秩序づけられた日常生活に目を向けた。そして、生活する人間の行為を動機づけるもの、そうした人間がよりどころとする思想に注目しながら、人間を軸として、日常生活の諸相の探究を試みたのである。

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=参考文献=

秋元律郎・石川晃弘・羽田新・柚井孝子著『社会学入門』(有斐閣新書)

富永健一著『社会学講義』(中公新書)

山岸健著『日常生活の社会学』(NHKブックス)

横山寧夫著『社会学』(通信教育教材)

平成10年に書いたレポート、評価はB。
講師評は、
「「人間」理解を考える問題ですから、もう少し構成に工夫が必要です。
ゲマインシャフト的人間・ゲゼルシャフト的人間とは、どのような人間ですか。」
でした。講師は数年前、交通事故で亡くなられた山岸美穂さん。まだ30代でした。