ボッティチェリとルネサンス_フィレンツェの富と美
ボッティチェリ展
サンドロ・ボッティチェリ
《ラーマ家の東方三博士の礼拝》
1475-76年頃 テンペラ/板
フィレンツェ、ウフィツィ美術館
(チラシより)
「聖書の一場面「東方三博士の礼拝」を描いた傑作。巧みな構図より、聖母子に視線が引きつけられる。群衆の何人かはフィレンツェの名家メディチ家の人物とみられる。右端でこちらを見ているのはボッティチェリ自身の自画像とされる。」
岩波文庫『福音書』より-マタイ福音書第二章
「東の国の博士たち-
さてイエスはヘロデ大王の代にユダヤの町ベツレヘムでお生まれになったが、そのとき、東の国の博士たちがエルサレムに来て言った、「今度お生まれになったユダヤ人の王(救世主)はどこにおられるか。われわれはそのお方の星が出るのをみたので、おがみにまいった。」救世主が生まれたと聞いて、ヘロデ王はもちろん、エルサレム中の人々も王と共にうろたえた。そこで王は国の大司祭連、聖書学者たちを全部集めて、救世主はどこで生まれるべきであるかとたずねた。彼らはこたえた、「ユダヤのベツレヘムで。預言者ミカによって、こう書かれているからです。
”お前、ユダの地なる”ベツレヘムよ、
お前はユダの町々の中で、最も劣っているものでは”決してない。
“一人の偉大なる支配者がお前の中から出て
わが民イスラエルを牧するのだから”」
そのあとヘロデは内証で博士たちを呼びよせ、最初に星の現れた時間を彼らに確かめた上で、こう言ってベツレヘムへやった、「行って幼児(おさなご)の居所を丹念に捜し、見つけ次第、報告せよ。自分も行っておがみたいから。」王の言葉を聞いて博士たちが出かけると、見よ、前に東の国で出るのを見た星が彼らの先に立って、幼児のいる所の上まで行って止まった。彼らはその星を見たとき、大喜びに喜んだ。家に入って、幼児が母マリヤと共にいるのを見ると、ひれ伏しておがみ、宝箱を開いて、”黄金、入香(にゅうこう)”没楽(もつやく)を“贈物として”捧げた。それから夢で、ヘロデの所へ引き返すなとのお告げを受けたので、ほかの道から国へ帰っていった。
エジプトへ逃げる-
博士たちが帰ってゆくと、見よ、主の使がまた夢でヨセフに現われて言った、「起きて幼児とその母とを連れてエジプトに逃げ、わたしが言うまでそこにおれ。ヘロデがその幼児をさがして殺そうともくろんでいるから。」そこでヨセフは起きて、夜のあいだに幼児とその母とを連れてエジプトに立ちのき、ヘロデが死ぬまでそこにいた。主が預言者ホセアをもって、”わたしはエジプトからわが子を呼び出した”と言われた言葉が成就するためであった。」
メディチ家の庇護をうけて経済的に保障されていた最盛期のボッティチェリの絵画は芳醇でした。晩年経済的に困窮するようになってからのボッティチェリの絵画も展示されていましたが痩せてとてもさみしいものでした。
メディチ家、宙組『異人たちのルネサンス』でキキちゃんがロレンツィオ・メディチを演じていました。藤本ひとみさんの『逆光のメディチ』を読みたいとずっと思いながらまだまだ積読本が山積みでいまだ果たせず。この世にいる間になんとか。
「メディチ」は「医師」という意味で、先祖は薬種問屋か医師であったのではないかとされており、13世紀のフィレンツェ政府の評議会議員の記録に既にメディチの名前が残されているが、それ以前の経歴や一族の出自に付いてはあまり明らかにされていない。美術研究家の高階秀爾は著書で、メディチ家が元々はムジェッロ出身の農民であり、耕地を売り払って街に出たと推測している[1]。メディチの紋章(金地に数個の赤い球を配する)の由来については、2つの説がある。ひとつは、「メディチ」(Medici)の家名そのものが示すように、彼らの祖先は医師(単数medico/複数medici)ないし薬種商であり、赤い球は丸薬、あるいは吸い玉(血を吸いだすために用いる丸いガラス玉)を表しているという説である。もうひとつは、メディチ家をフィレンツェ随一の大富豪にした当の職業、すなわち銀行業(両替商)にちなんで、貨幣、あるいは両替商の秤の分銅を表しているという説である[2]。銀行業を始める前は、薬品の一種で、欧州の工業で大きな位置を占めていた毛織物産業において媒染剤として重用されたミョウバンを商って栄えていた。いずれにしろ、一族に多いコジモの名は、医師と薬剤師の守護聖人、聖コスマスに由来している。
14世紀には銀行家として台頭し、フィレンツェ共和国政府にもメンバーを送りこむまでになった。1378年の下層労働者と新興商人が結んだチョンピの乱では、メディチ一族のサルヴェストロが活躍するが、反対派のアルビッツィ家らに巻き返されて失敗する。サルヴェストロの名は、永くフィレンツェ市民の記憶に残ったというが、一族の勢力は衰えた。そうした中で後のメディチ一族の基礎を作ったのはヴィエーリ・ディ・カンビオ(1323年 - 1395年)である。ヴィエーリはローマ教皇庁にもつながりを持って、銀行業で成功した。
銀行家としての成功[編集]
メディチ家は、ジョヴァンニ・ディ・ビッチ(1360年 - 1429年)の代に銀行業で大きな成功を収める。メディチ銀行はローマやヴェネツィアへ支店網を広げ、1410年にはローマ教皇庁会計院の財務管理者となり、教皇庁の金融業務で優位な立場を得て、莫大な収益を手にすることに成功した。これは教会大分裂(シスマ)の続くキリスト教界の対立に介入し、バルダッサッレ・コッサなる醜聞に包まれた人物を支援し、対立教皇ヨハネス23世として即位させた賜物であった。1422年、ローマ教皇マルティヌス5世はモンテ・ヴェルデの伯爵位を授けようとしたが、ジョヴァンニは政治的な配慮から辞退し、一市民の立場に留まった。
メディチ家とフィレンツェの黄金時代[編集]
ジョヴァンニの息子コジモ(1389年 - 1464年、コジモ・イル・ヴェッキオ)は政敵によって一時追放されるが、1434年にフィレンツェに帰還し、政府の実権を握る(1434年から一時期を除き、1737年までのメディチ家の支配体制の基礎が確立する)。自らの派閥が常に多数を占めるように公職選挙制度を操作し、事実上の支配者(シニョリーア)としてフィレンツェ共和国を統治した。家業の銀行業も隆盛を極め、支店網はイタリア各地の他、ロンドン・ジュネーヴ・アヴィニョン・ブルッヘなどへ拡大した。メディチ家はイタリアだけでなくヨーロッパでも有数の大富豪となった。
その子であるピエロ(1416年 - 1469年)は、ピエロ・イル・ゴットーゾ(痛風病みの)と呼ばれ、病弱であったが、反メディチ派を抑え込み、メディチ家の黄金時代を維持させることに成功した。一方でパトロンとしては独自の才覚を発揮し、アルベルティ、ドナテッロ、フィリッポ・リッピ、ベノッツォ・ゴッツォリなどが活躍した。ボッティチェリもピエロの代に輩出するのである。
コジモの孫のロレンツォ(1449年 - 1492年)は優れた政治・外交能力を持っていた。イタリア各国の利害を調整する立場として大きな影響力を振るい、信頼を得ていた。パッツィ家の陰謀への対処に見られるように反対派には容赦無い弾圧を加える一方で、一般市民には気前良く振舞い、またボッティチェリ、ミケランジェロなど多数の芸術家を保護するパトロンとしても知られている。ロレンツォの時代はフィレンツェの最盛期でもあり、「偉大なるロレンツォ」(ロレンツォ・イル・マニーフィコ)と呼ばれた。しかし、銀行経営の内実は巨額の赤字であり、曾祖父ジョヴァンニと祖父が築き上げたメディチ銀行は破綻寸前の状態であった。また、共和国の公金にも手を付けていたといわれる。ロレンツォの不正は、メディチ家のフィレンツェの支配者としての意識の変質を物語るものとなる。