『東北歴史紀行』より-「入りそめて〈奥州王の都〉」
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「江戸時代の数多いお家騒動のなかでも、仙台の伊達騒動は、寛文事件として、もっとも有名です。すでに当時『伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ』の芝居に上演されて、だれ知らぬ者のない出来事でした。そのときの立役者たちゆかりのあとが、市内にいくつもあります。善玉の伊達安芸の仙台低は、市民会館の近く、西公園というところにありました。悪玉の張本の原田甲斐の邸跡は、今日、裁判所敷地になっていますから、歴史のめぐり合わせは、皮肉です。その甲斐邸の門はのち、市内北部の寺町新坂通の荘厳寺(しょうごんじ)という寺に移建されて残っています。でもその名を逆臣門(ぎゃくしんもん)というのです。この藩では、そういう形でしか、この人の名は残りえなかったのです。戦後、作家山本周五郎の小説『樅の木は残った』は、伊達騒動にまったく新しい評価を導き入れました。原田甲斐は仙台藩起死回生(死のうとするのを生き返らせる)の英雄だというものです。ほんとうにそうなるのかどうか、定禅寺通(じょぜんじどおり)、見事なケヤキ並木公演あたりで、よみがえった森の都の緑にいといながら、おもいやるのもたのしいひとときです。
伊達騒動では、ハラがすいてもひもじうないと、けなげにいう若君を、己(おの)が子を身がわりにしてまで守りつづける忠義のかがみ、乳母の政岡というのを、忘れることができません。芝居の政岡は、幼君亀千代(四代藩主綱村)の生母三沢初子をモデルにしているとされています。その三沢初子の墓は、東十番孝勝(こうしょう)寺裏にあります。
(略)
近世の仙台藩といえば、かならず思い出す人。それは、林子平(はやししへい)です。「江戸の日本橋より、唐(中国)・和蘭オランダまで、境目なしの水路である。」子平の有名な警告です。それならば、長崎にだけ備えても、どうにもならむ。これでは海国日本の備えになりえない。世界は海で一つに結ばれようとしている時であるー『海国兵談』はそう指摘して、幕府の無策ぶりを痛烈に批判したのです。「日本の武備をしるした本として、この『海国兵談』のように、したしく外国人に聞いて、海外の事情を知った上で、国防を考え、海陸あわせ備える大計をのべたものはない。これは実に、開闢(かいびゃく)以来、未曽有の発明である。」本人がはっきりそう書いているのですから、まるで幕府への挑戦状のようなものです。国家百年のために、処罰を覚悟して、かれはあえてはげしいことばで発言していたのです。(略)
『三国通覧図説』『海国兵談』。反体制の書がつづいたのです。幕府は『海国兵談』の発禁を命じ、版木を没収、これを禁錮処分に付し、兄の家に閉じ込めたのです。「親もなし妻なし子なし版木なし 金もなければ死にたくもなし」。目ざめた人の自嘲する姿が見えるようで、いたましいかぎりです。六無斎(六つのものがない人)というのです。一年余にして寛政5(1973)年6月21日、56歳で没したのです。外国から日本を襲うなどという奇怪な異説を唱え、不届きである」。そういう理由で処分したのですが、それから四か月、預言は果然的中したのです。ロシアのラックスマンの根室来航となり、幕府はいやおうなしに子平の警告に従わなければならなくなったのです。天保12(1841)年、子平の罪はようやく赦免になりました。遅まきながらその墓碑も建つことになったのです。
仙台市子平町竜雲院。不遇のうちに終わった偉大な先覚者の墓は、ここにあります。もとは半子町(はんごまち)といった町名も、いまはかれの名にちなんでよばれているのです。
子平のお墓のあるところに近い八幡町の大崎八幡神社は、仙台を代表する伊達文化の遺構です。伊達政宗が創建するのですが、今日現存する桃山後期様式の建造物としては、松島の瑞巌寺とともに、日本でも代表的なものです。仙台藩初期の建築は、豊臣と徳川の間にあって、豊臣後、徳川の文化が日光東照宮のような形で本格的におこるまでの武家文化を、地方にあって代表するという意味をもっていたのです。大崎八幡は伝統的な市民生活の中にもとけこんでいて、正月14日の夜、正月のしめ飾りを焼いて、お正月さまを天に送りかえすどんと祭の行事は、夏の七夕祭と並んで、全国的に有名な年中行事の一つです。
市の東部、木下には、千二百年前の陸奥国分寺跡があります。国分寺薬師堂仁王門が正面にあって、建物は近世のものですが、ここが南大門の跡です。これをはじめとして、中門・金堂・塔・講堂などの七堂伽藍の遺跡をよく残し、代表的な国分寺遺跡として、全国的に有名です。500メートルほど東には国分尼寺もありましたが、遺跡はそうはっきりしません。国分寺の旧講堂の位置に、ほとんどそのプランにしたがって、伊達政宗が薬師堂を建て、天平の昔をしのぶよすがとなっています。
宮城野。今は昔をしのぶよすがもないのですが、国分寺から東南一帯が、世にいう宮城野原、文学に名高い宮城野の萩の名所でした。「みさぶらひみかさと申せ 宮城野の木(こ)の下露は雨にまされり」(古今集みちのくうた)、「宮城野の露吹きむすぶ風の音に 小萩が本をおもいこそやれ」(源氏物語桐壺)、「さまざまに心ぞ留る宮城野の 花のいろいろ虫のこえごえ」(堀河晩百首源俊頼)。王朝のかずかずの名歌が、この歌枕をロマンの花に飾っていたのです。これに、明治29年、仙台の私立中学校の作文教師として赴任した若い詩人、島崎藤村の『若葉集』「草枕」の一節がくわわるのです。「心の宿の宮城野よ 乱れて熱き吾身(わがみ)には 日影も薄く草枯れて 荒れたる野こそうれしけれ」。戦前までは、宮城野に王朝の風雅のあとをたずね、藤村「草枕」のロマンのおもいを回想するに十分な詩情がこのあたりにただよっていましたが、いまの仙台はその自然を失ってしまいました。北郊台原(だいのはら)というところには、『滝口入道』でいちやく文名を馳せた高山樗牛(ちよぎゆう)(かれは旧制二高卒業、一時同教授)にちなむ「樗牛瞑想の松」というのが、茫々たる原野にポツリと立っていて、ゆかしい文学探訪の名所になっていたのですが、これも都市化の波にのまれて 名前だけのものとなりました。
近代化は、こうして、東北でも歴史を変革しているのです。」
(岩波ジュニア新書『東北歴史紀行』57-62頁より)