「2013年1月22日(水)日航機墜落で9歳の男の子を亡くしたお母さんの本をむさぼるように読む。涙があふれて仕方ない。」
「2013年1月27日(日)『日航機墜落事故 朝日新聞の24時』を息を呑むようにして読む。」
今あらためて共鳴し、また考えさせられるところを少しずつ紹介させていただきたいと思います。
「(「この事故の実態と真相を公開の法廷で明らかにしたい」という遺族の要望書に賛同する)署名活動をしている最中の1989年8月12日、8.12連絡会は、前橋地方検察庁検事正宛と東京地方検察庁検事正宛に、要望書を提出した。
単独機として、航空機史上最多である520人という犠牲者をだし、世界中の人々を震撼させた事故の公訴時効まで、1年を残すだけとなった。こんな大事故がどうして起きたのか、520人の命を取り戻すことができないのなら、せめて、再び同じ原因によって尊い命を犠牲にさせたくないという気持ちだった。事故から4年目のこの夏は、多くの仲間と気力をふりしぼって、忙しい日々を過ごした。
しかし、マスコミは、この年の9月には、一斉に検察の不起訴処分が決定したとの報道を流した。そんな状況下、検察庁では9月29日に高検、地検の合同捜査会議が開かれ、米国への検事2名の派遣を決めている。
私はさらに、「この事故の真の原因を、公開の法廷で明白にしてほしい」という内容の投稿を1989年10月19日の毎日新聞にした。
万人に公開される裁判という場で、事実関係と責任の所在が明らかにされ、再発防止につながることを望んだ。起訴はあくまで「真相と責任を明らかにする入り口」と思っていた。そして、前橋・東京両地検が、事件の真相の解明に向けて、適正かつ迅速な捜査をされるよう望んだ。
修理を担当したボーイング関係者については、氏名不詳ということだったが、修理指示書の上では明らかになっている。社内では人物は特定されているはずだ。それなのに、何故、その4人に直接話を聞いて事件の真相を明らかにすることができないのか。国が違うという理由で真実に手が届かないことに、私はあせりを感じていた。遺族からは、「できるかぎり真実にせまってほしい」、「検察は、起訴した以上、有罪にならなければ検察の権威に関わると思っているかもしれない。しかし、日本の検察が有罪率99パーセントを誇っているのが変だ」の声が寄せられる。
ボ社の修理作業員からの事情聴取は、数次にわたる検事の派遣によっても実現していないようだった。
捜査は、1207日に及んだ。
1989年11月22日、検察の下した結論は、全員不起訴だった。
事故の責任は、誰も問われなかった。だが、現実に何らかが原因で520人は死んでいったのだ。捜査が不起訴になったことについて、県警特捜の品川正光さんは、「不起訴理由は嫌疑不十分で、過失がまったくなかったということではない。航空関係者は、この事故が防ぎ得た事故たっだということを十分認識し、航空機の整備、点検に限りない努力をして事故防止を図ってほしい」と話した。
しかし、たとえ事故を捜査した警察がそう言っても、不起訴になってしまったら、安全のために論議を交わす機会がなくなってしまう。企業は人命軽視の思想を温存させてしまうのではないかと危惧し、やりきれない思いがした。法律っていったい、誰のためにあるのだろうと思った。ごく普通の市民の生活や命が守られるためにあるはずなのに。法律を守り日々生活している善良な人たちの暮らしを守るためにあるはずなのに。市民の感覚をもっと取り入れて行く司法の仕組みが必要だと思った。
時代は、変わりつつある。技術も産業も、そこで起こる事故も、今までのものとは違う。個人の責任だけを問い、組織の責任を問うことができない業務上過失致死罪には、限界がある。個人の責任は、肥大した組織の中に埋没してしまっているのだから。法は、時代の変化に追いつかなければならないのに、法と現実が遠ざかっていると感じた。また、航空機産業に国境の壁はないはずなのに、事故の責任だけは、国境の壁に阻まれて問えない。国家間の法体系の違いも、責任追及における限界を生んでいた。
このまま不起訴になると、群馬県警や前橋地検が、これまで蓄積したキャビネット30個に及ぶ膨大な調書・写真・証拠品などの捜査資料が生かされない。何としても、事故調査の膨大な資料を生かしたいと思った。
「安全」は、どうしたら守れるのだろうか。事故原因の真相究明は、刑事責任を追及する公開の法廷では無理なのだろうか。事故調査と刑事捜査の区分を明確にすることへの議論を高めたいと思った。」
(美谷島邦子著『御巣鷹山と生きる_日航機墜落事故遺族の25年』2010年6月25日新潮社発行、115-118頁より引用しています。)
「2013年1月27日(日)『日航機墜落事故 朝日新聞の24時』を息を呑むようにして読む。」
今あらためて共鳴し、また考えさせられるところを少しずつ紹介させていただきたいと思います。
「(「この事故の実態と真相を公開の法廷で明らかにしたい」という遺族の要望書に賛同する)署名活動をしている最中の1989年8月12日、8.12連絡会は、前橋地方検察庁検事正宛と東京地方検察庁検事正宛に、要望書を提出した。
単独機として、航空機史上最多である520人という犠牲者をだし、世界中の人々を震撼させた事故の公訴時効まで、1年を残すだけとなった。こんな大事故がどうして起きたのか、520人の命を取り戻すことができないのなら、せめて、再び同じ原因によって尊い命を犠牲にさせたくないという気持ちだった。事故から4年目のこの夏は、多くの仲間と気力をふりしぼって、忙しい日々を過ごした。
しかし、マスコミは、この年の9月には、一斉に検察の不起訴処分が決定したとの報道を流した。そんな状況下、検察庁では9月29日に高検、地検の合同捜査会議が開かれ、米国への検事2名の派遣を決めている。
私はさらに、「この事故の真の原因を、公開の法廷で明白にしてほしい」という内容の投稿を1989年10月19日の毎日新聞にした。
万人に公開される裁判という場で、事実関係と責任の所在が明らかにされ、再発防止につながることを望んだ。起訴はあくまで「真相と責任を明らかにする入り口」と思っていた。そして、前橋・東京両地検が、事件の真相の解明に向けて、適正かつ迅速な捜査をされるよう望んだ。
修理を担当したボーイング関係者については、氏名不詳ということだったが、修理指示書の上では明らかになっている。社内では人物は特定されているはずだ。それなのに、何故、その4人に直接話を聞いて事件の真相を明らかにすることができないのか。国が違うという理由で真実に手が届かないことに、私はあせりを感じていた。遺族からは、「できるかぎり真実にせまってほしい」、「検察は、起訴した以上、有罪にならなければ検察の権威に関わると思っているかもしれない。しかし、日本の検察が有罪率99パーセントを誇っているのが変だ」の声が寄せられる。
ボ社の修理作業員からの事情聴取は、数次にわたる検事の派遣によっても実現していないようだった。
捜査は、1207日に及んだ。
1989年11月22日、検察の下した結論は、全員不起訴だった。
事故の責任は、誰も問われなかった。だが、現実に何らかが原因で520人は死んでいったのだ。捜査が不起訴になったことについて、県警特捜の品川正光さんは、「不起訴理由は嫌疑不十分で、過失がまったくなかったということではない。航空関係者は、この事故が防ぎ得た事故たっだということを十分認識し、航空機の整備、点検に限りない努力をして事故防止を図ってほしい」と話した。
しかし、たとえ事故を捜査した警察がそう言っても、不起訴になってしまったら、安全のために論議を交わす機会がなくなってしまう。企業は人命軽視の思想を温存させてしまうのではないかと危惧し、やりきれない思いがした。法律っていったい、誰のためにあるのだろうと思った。ごく普通の市民の生活や命が守られるためにあるはずなのに。法律を守り日々生活している善良な人たちの暮らしを守るためにあるはずなのに。市民の感覚をもっと取り入れて行く司法の仕組みが必要だと思った。
時代は、変わりつつある。技術も産業も、そこで起こる事故も、今までのものとは違う。個人の責任だけを問い、組織の責任を問うことができない業務上過失致死罪には、限界がある。個人の責任は、肥大した組織の中に埋没してしまっているのだから。法は、時代の変化に追いつかなければならないのに、法と現実が遠ざかっていると感じた。また、航空機産業に国境の壁はないはずなのに、事故の責任だけは、国境の壁に阻まれて問えない。国家間の法体系の違いも、責任追及における限界を生んでいた。
このまま不起訴になると、群馬県警や前橋地検が、これまで蓄積したキャビネット30個に及ぶ膨大な調書・写真・証拠品などの捜査資料が生かされない。何としても、事故調査の膨大な資料を生かしたいと思った。
「安全」は、どうしたら守れるのだろうか。事故原因の真相究明は、刑事責任を追及する公開の法廷では無理なのだろうか。事故調査と刑事捜査の区分を明確にすることへの議論を高めたいと思った。」
(美谷島邦子著『御巣鷹山と生きる_日航機墜落事故遺族の25年』2010年6月25日新潮社発行、115-118頁より引用しています。)