「事務の女性がいますから、わかるようにしておきますから」「事務の女の子にわたしておきますから」「事務のことは女の子でやって」。実際に筆者自身を指して言われたことばである。筆者は現在40歳になるが、部外や他社の人にとっては単なる「事務員」「女の子」である。日本型企業社会の中では、OLは一緒くたに「女の子」として扱われる傾向にある。
このように、組織の中では、OLを「女の子」として十把ひとからげにくくる傾向にあることを、小笠原祐子は、OLを一人前の働き手として尊重していないからだと指摘している。小笠原がフェミニズム論者キャロル・ペイトマンから引用して述べているところによれば、大人の女性が「女の子」と呼ばれるのは、大人の男性の奴隷がしばしば「男の子」(boys)と呼ばれたことと比較することができ、女性や奴隷が社会人としては「死んだも同然」(civilly dead)な存在であることを示唆している。これらの呼称は奴隷のみならず、女性も一人前に扱われていないことを示している。そうであるとするならば、OLを「女の子」としてひと絡げにくくるのは、OLを一人前の働き手として尊重していないからだと考えられるのである。 1)
単純事務作業を担う女性を年齢に関係なく「女の子」と呼ぶことは、先に記したOLに求められている役割と関係がある。日本型企業社会が求めている女性とは、美人で気立てが良く気配りのできる「女らしい」女性であった。このようなOL像は、職業人としては男性社員と比べると二流の労働力、個人としてみられることはなく、半人前扱いとされていることは、多くの日本の職場における種々の実践的行為のうちに繰り返し見出すことができる。それらは社内の規則として公認されているよりは、暗黙のルールとして存在している場合が多い。例えば、社内結婚の時に女性が退職する慣習などはその一例である。
さらに、自己管理権・自己決定権の領域においても、男性と女性の差をOLは意識させられている。自分の時間の使い方を自分で管理し、決定することを男性はある程度任されているが、OLは任されていないことが、小笠原の聞き取り調査から見えてくる。現実に組織の中で働く人々がどのように性による支配を受けているかを問題にした小笠原は、60社もの東京の大企業に勤める、あるいは勤めた経験のある男女に聞き取り調査を行った。
そのインタビューに応じる時の時間と場所のとり方そのものに、先ず男女差は現われたという。女性はほとんどの場合、昼休みは短すぎてゆっくり話ができないからと昼休みに会うのを敬遠した。その話ぶりから僅かな時間でもオフィスに遅れて戻るのははばかられることがうかがえたと小笠原は述べている。対照的に、男性はそのほとんどが昼食時を利用した。男性の場合は、昼休みの時間としては1時間ほどが適当であるが少しくらい遅れてもかまわないといった様子であった。また、勤務時間中、会社の近くの喫茶店であるいはオフィスの客室でインタビューに応じた男性も少なくなかった。このように男性社員は自分の判断で勤務中に部外者と会うことができるのに対し、OLはできない。 2)
時間において自己管理・自己決定権が奪われているからである。OLにとって、時間通りに席に着いていることも重要な仕事の一つだと言える。筆者自身の経験から、男性が勤務時間中に、銀行にちょっと出かける、少し極端な場合は、散髪に行くために席を空けるなどしても、さほど目立たないのに対して、OLが時間通りに席にいないと、電話が鳴り続ける、上司からの指示に即座に応じられないなど、非常に目立つものである。
さらに女性にのみ制服が課せられている場合などは、昼休みに外に出た時にすら、どこの企業のOLであるかがひと目でわかるので行動が制限されることもある。1980年代、筆者が高校卒業後に入行した地方銀行では、昼休みに女性が外に出ることを禁じられている営業店さえあった。ある女性が昼食を買うために外に出た際、得意先である顧客の顔を見ても挨拶をしなかった為に顧客の怒りを買ったというのが理由だという話だった。その女性は得意先の顧客の顔を認識していなかったのかもしれないが、顧客の方からは女性が着ている制服で、懇意にしている銀行の「女の子」であることを認識し、懇意にしているのに知らん顔されたとなってしまったのであろう。男性がバッジを付けるだけなのに対して、女性社員にのみ制服を課している企業があることは、時間だけでなく、服装の領域においてもOLだけが自己管理・自己決定権を奪われていることの現われであると言える。
OLは組織の中では本当の意味での名前を持たない存在である。この「名無しの存在」であることがOLにとって最も屈辱的なことのひとつである。男性社員は個人として扱われ、各々評価され、その働きに応じて加点されたり減点されたりする。一方OLは「女の子」として一緒くたに扱われ、個人としてあまり尊重されていない。だから、ある女性が仕事でミスをしたとしても「いやあ、うちの女の子がミスしちゃってね」と表現されたりするのである。
均等法施行後総合職の第一期生として、大手電機メーカーに就職したある女性は言う。入社して2年目、「改めて周囲を見回すと、上司は一般職でも総合職でもかわりなく、女性をほとんど叱らない。男性は叱られるが、代わりに重要な仕事が回ってくる」と。 3)叱らないということは期待していないということであり、どの女性がミスをしても、反対に素晴らしい仕事をしても関心がないということである。
だから、OLは「よほどのことがない限り」あるいは「よほどのことをしない限り」昇給・昇進の面で同期に遅れをとることがないので、「いいことをしてもしなくても同じ」なのである 。4)OLは一般に勤続年数が短いものだとされてきたし、そもそも多くの日本の企業はOLを「選抜」して登用するつもりなどなかったのだから、OLは「個」として認識されることなく、業績評価の対象ではなかった。
誰でもいいのである。OLはいつでも取替えの聞く消耗品と同様である。事務の仕事というのは経験ではない。質的に求められているのはいつも同じだ。だから、20歳の女の子でも35歳のヴェテランOLでも、仕事の面では同じにみられやすい。となれば、「若い方がいい」となるのは、至極当然である。若さという指標と、OLの仕事の性質とは無関係ではない。
引用文献
1)小笠原祐子『OLたちのレジスタンス』16頁、中公新書、1998年。
2) 小笠原、前掲書、17-18頁。
3) 竹信三恵子『日本株式会社の女たち』21頁、朝日新聞社、1994年。
4) 小笠原、前掲書、20頁。
このように、組織の中では、OLを「女の子」として十把ひとからげにくくる傾向にあることを、小笠原祐子は、OLを一人前の働き手として尊重していないからだと指摘している。小笠原がフェミニズム論者キャロル・ペイトマンから引用して述べているところによれば、大人の女性が「女の子」と呼ばれるのは、大人の男性の奴隷がしばしば「男の子」(boys)と呼ばれたことと比較することができ、女性や奴隷が社会人としては「死んだも同然」(civilly dead)な存在であることを示唆している。これらの呼称は奴隷のみならず、女性も一人前に扱われていないことを示している。そうであるとするならば、OLを「女の子」としてひと絡げにくくるのは、OLを一人前の働き手として尊重していないからだと考えられるのである。 1)
単純事務作業を担う女性を年齢に関係なく「女の子」と呼ぶことは、先に記したOLに求められている役割と関係がある。日本型企業社会が求めている女性とは、美人で気立てが良く気配りのできる「女らしい」女性であった。このようなOL像は、職業人としては男性社員と比べると二流の労働力、個人としてみられることはなく、半人前扱いとされていることは、多くの日本の職場における種々の実践的行為のうちに繰り返し見出すことができる。それらは社内の規則として公認されているよりは、暗黙のルールとして存在している場合が多い。例えば、社内結婚の時に女性が退職する慣習などはその一例である。
さらに、自己管理権・自己決定権の領域においても、男性と女性の差をOLは意識させられている。自分の時間の使い方を自分で管理し、決定することを男性はある程度任されているが、OLは任されていないことが、小笠原の聞き取り調査から見えてくる。現実に組織の中で働く人々がどのように性による支配を受けているかを問題にした小笠原は、60社もの東京の大企業に勤める、あるいは勤めた経験のある男女に聞き取り調査を行った。
そのインタビューに応じる時の時間と場所のとり方そのものに、先ず男女差は現われたという。女性はほとんどの場合、昼休みは短すぎてゆっくり話ができないからと昼休みに会うのを敬遠した。その話ぶりから僅かな時間でもオフィスに遅れて戻るのははばかられることがうかがえたと小笠原は述べている。対照的に、男性はそのほとんどが昼食時を利用した。男性の場合は、昼休みの時間としては1時間ほどが適当であるが少しくらい遅れてもかまわないといった様子であった。また、勤務時間中、会社の近くの喫茶店であるいはオフィスの客室でインタビューに応じた男性も少なくなかった。このように男性社員は自分の判断で勤務中に部外者と会うことができるのに対し、OLはできない。 2)
時間において自己管理・自己決定権が奪われているからである。OLにとって、時間通りに席に着いていることも重要な仕事の一つだと言える。筆者自身の経験から、男性が勤務時間中に、銀行にちょっと出かける、少し極端な場合は、散髪に行くために席を空けるなどしても、さほど目立たないのに対して、OLが時間通りに席にいないと、電話が鳴り続ける、上司からの指示に即座に応じられないなど、非常に目立つものである。
さらに女性にのみ制服が課せられている場合などは、昼休みに外に出た時にすら、どこの企業のOLであるかがひと目でわかるので行動が制限されることもある。1980年代、筆者が高校卒業後に入行した地方銀行では、昼休みに女性が外に出ることを禁じられている営業店さえあった。ある女性が昼食を買うために外に出た際、得意先である顧客の顔を見ても挨拶をしなかった為に顧客の怒りを買ったというのが理由だという話だった。その女性は得意先の顧客の顔を認識していなかったのかもしれないが、顧客の方からは女性が着ている制服で、懇意にしている銀行の「女の子」であることを認識し、懇意にしているのに知らん顔されたとなってしまったのであろう。男性がバッジを付けるだけなのに対して、女性社員にのみ制服を課している企業があることは、時間だけでなく、服装の領域においてもOLだけが自己管理・自己決定権を奪われていることの現われであると言える。
OLは組織の中では本当の意味での名前を持たない存在である。この「名無しの存在」であることがOLにとって最も屈辱的なことのひとつである。男性社員は個人として扱われ、各々評価され、その働きに応じて加点されたり減点されたりする。一方OLは「女の子」として一緒くたに扱われ、個人としてあまり尊重されていない。だから、ある女性が仕事でミスをしたとしても「いやあ、うちの女の子がミスしちゃってね」と表現されたりするのである。
均等法施行後総合職の第一期生として、大手電機メーカーに就職したある女性は言う。入社して2年目、「改めて周囲を見回すと、上司は一般職でも総合職でもかわりなく、女性をほとんど叱らない。男性は叱られるが、代わりに重要な仕事が回ってくる」と。 3)叱らないということは期待していないということであり、どの女性がミスをしても、反対に素晴らしい仕事をしても関心がないということである。
だから、OLは「よほどのことがない限り」あるいは「よほどのことをしない限り」昇給・昇進の面で同期に遅れをとることがないので、「いいことをしてもしなくても同じ」なのである 。4)OLは一般に勤続年数が短いものだとされてきたし、そもそも多くの日本の企業はOLを「選抜」して登用するつもりなどなかったのだから、OLは「個」として認識されることなく、業績評価の対象ではなかった。
誰でもいいのである。OLはいつでも取替えの聞く消耗品と同様である。事務の仕事というのは経験ではない。質的に求められているのはいつも同じだ。だから、20歳の女の子でも35歳のヴェテランOLでも、仕事の面では同じにみられやすい。となれば、「若い方がいい」となるのは、至極当然である。若さという指標と、OLの仕事の性質とは無関係ではない。
引用文献
1)小笠原祐子『OLたちのレジスタンス』16頁、中公新書、1998年。
2) 小笠原、前掲書、17-18頁。
3) 竹信三恵子『日本株式会社の女たち』21頁、朝日新聞社、1994年。
4) 小笠原、前掲書、20頁。