たんぽぽの心の旅のアルバム

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『アンナ・カレーニナ(中)』-第四篇-19より

2024年09月20日 00時29分11秒 | 本あれこれ

『アンナ・カレーニナ(中)』-第四篇-12より

「カレーニンの犯した誤りは、彼が妻に会う心がまえをしたとき、妻の悔悟が真実なものであり、自分がその罪を許し、しかも妻が死なずにすむ、という偶然の場合を予想しておかなかったことにあった。この誤りは、彼がモスクワから帰ってから二カ月もたつと、あますところなく明らかになった。しかも、彼の犯した誤りは、この偶然を予想しなかったためばかりでなく、彼は瀕死の妻と会うその日まで、自分の本心を知らなかった、ということにも起因していた。彼は妻の病床で、生れてはじめて、優しい思いやりの感情に身をまかせてしまった。この感情は彼がいつも、個人の苦痛を見るたびに、呼びさまされたものであり、以前は有害な弱点として恥じていたものであるが、妻に対する哀れみと、自分の妻の死を願ったという後悔の思いと、それになによりも、許すということの喜びのために、彼は急に、おのれの苦悩が癒されるのを覚えたばかりでなく、以前には一度も味わったことのないこころの安らぎすら感じたのであった。彼は思いがけなく、自分の苦悩の原因そのものが、精神的な喜びのみなもとに変ったのを感じた。いや、彼が非難したり、責めたり、憎んだりしていたときには、とても解決することができないように思われたものが、許しかつ愛しはじめるや、たちまち、単純明白なものになってくるのを感じた。

 彼は妻を許し、その苦悩と悔悟のために、妻を哀れんだ。彼はヴロンスキーを許し、彼が絶望的な行為をしたといううわさを耳にしてからは、いっそう彼を哀れんだ。彼はまたむすこをも、以前にもまして哀れんだ。そして、今まではほとんど子供をかまってやらなかったことを、自分に責めるありさまであった。しかし、新たに生れた女の子に対しては、ただ哀れみばかりでなく、優しさのいりまじった、なにか特殊な感情をいだいていた。はじめのうち彼は単なる同情の念から、実の娘でもない、母親の病気で放りだされて、もし彼が心配しなかったら、死んでしまったかもしれない、生れたばかりの弱々しい女の子の世話をやきはじめた。彼はこの女の子を愛しはじめたのを、自分では気づかなかった。彼は一日に何度も、子供部屋へ行き、長いことそこにすわりこんでいたので、はじめはご主人の前でおどおどしていた乳母や婆やも、じきに慣れっこになったくらいであった。彼はときには、30分あまりも、産毛におおわれて、しわだらけなサフラン色がかった赤ん坊のかわいい寝顔を、黙ったままのぞきこんで、妙にしかめた額の動きや、指を握りしめた、ふっくらした小さな手の甲で、目や鼻筋をこすっている様子を、じっと観察することがあった。そんなとき、カレーニンは自分の心がまったく落ち着いていて、自分自身にぴったり調和しているのを感じ、自分の境遇になにひとつ異常なところも、またなにひとつ変更しなければならないところも認めなかった。

 ところが、時がたつにつれて、彼には、こうした境遇が今の自分にとってどんなに自然であろうとも、世間は自分をここに長くは止めてくれないだろう、ということがしだいにはっきりとわかってきた。彼は自分の魂を導いている幸福な精神力のほかに、彼の生活を導いている、もう一つの荒々しい力があり、それは前者と同程度に、いや、それ以上に支配的な力であり、この力は、自分の望んでいる和やかな安らぎを与えてはくれまいと感じた。彼は、みんながけげんそうな、びっくりした顔つきで自分をながめ、自分を理解してはくれないで、なにものかを自分に期待しているのを感じた。とりわけ、彼は、妻に対する自分の関係のもろさや不自然さを痛感した。

 死を間近にして、アンナの内部に生れた心のやわらぎが去ってしまうと、カレーニンはアンナが自分を恐れ、自分をはばかり、自分の顔をまともに見つめることができないでいるのに気づいた。アンナはなにか彼にいいたいのに、それをいいだしかねているようで、やはりふたりの関係がこのままつづくわけにいかないのを予感して、なにやら彼に期待しているようであった。

 二月の末に、やはりアンナと名づけられた赤ん坊が、たまたま病気になった。カレーニンは朝のうちに子供部屋へ行って、医者を呼ぶようにさしずをし、役所へ出かけて行った。彼は仕事をおえて、三時すぎに家へもどった。控室へ通ると、金モールに熊の皮の飾り衿をつけた美男の召使が、スピッツの毛皮で仕立てた白い婦人外套を手にして立っているのが目に映った。

「だれが見えているのかね?」カレーニンはたずねた。

「トヴェルスコイ公爵夫人でございます」召使は答えたが、カレーニンには、相手がにやっと笑ったような気がした。

 この耐えがたい数か月のあいだずっと、彼は社交界の知人、とりわけ、婦人たちが、自分たち夫婦のことに特殊な関心を示すうになったことに気づいていた。彼は、これらすべての知人が、なにかうれしいことがあるのに、それをやっとの思いでこらえているように思われた。彼はそれと同じ喜びの色をかつてあの弁護士の目にも見たし、今またこの召使の目にも認めたのであった。まるでみんなは、だれかを嫁にでもやるように、有頂天になっているみたいであった。そして彼に出会うと、やっとのことでその喜びの色を隠して、アンナの健康をたずねるのであった。」

(トルストイ『アンナ・カレーニナ(中)』昭和47年2月20日発行、昭和55年5月25日第16刷、新潮文庫、338-341頁より)

 

 

 


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