たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

日本経済復活のために消費税廃止は一丁目一番地

2024年09月20日 15時30分47秒 | 気になるニュースあれこれ

安藤裕チャンネル、

(286) 【20240918あんどう裕京都6区初街宣・怒涛の8か所!】JR宇治駅→近鉄大久保駅→近鉄寺田駅→京阪石清水八幡宮駅→近鉄新田辺駅→近鉄新祝園駅→JR木津駅→近鉄高の原駅 - YouTube

 

参政党京都支部チャンネル、

参政党京都 あんどう裕 第6区内初街頭演説めぐり #あんどう裕 ♯前衆議院議員  #宇治市 #城陽市 #八幡市 #京田辺市 #木津川市 #精華町 #高の原市 #消費税廃止 (youtube.com)

チャプター:

0:00 オープニング

0:14 JR宇治駅前

7:36 近鉄大久保駅前

17:39 近鉄寺田駅前

23:55 京阪石清水八幡宮駅前

40:38 近鉄新田辺駅前

55:07 JR祝園駅前

1:07:55 JR木津駅前

1:19:20 近鉄高の原駅前

 

2024年9月18日東スポ、

参政党 京都6区に自民党元職・安藤裕氏出馬へ「参政党さんと共に日本をたて直す」 | 東スポWEB (tokyo-sports.co.jp)

「参政党の神谷宗幣代表は18日、京都市内で記者会見を開き、元衆院議員・安藤裕氏が次の衆議院選挙の京都府第6区から出馬すると発表した。

 出馬予定だった堀田悦子氏が足をケガし、本人が出馬を辞退したため、党員から推薦された安藤氏が出馬することになった。

 神谷代表は「堀田さんから安藤さんにバトンタッチする形で新たに公認を取っていただいて、京都の6区から立候補していただく」と紹介。「京都という場所は、日本人の精神の中心。大きな歴史を作ってきた場所でもありますので、政治的なメッセージを送っていただきたい」とし、さらに「近畿が最重点ブロックで、新人含めて合計25~26名で2議席を狙う」と方針を明かした。

安藤氏は、2012年に自民党から衆院選に出馬し、初当選した。3期9年間、国政に関わったが、21年に行われた衆院選に出馬しなかった。以降ユーチューブチャンネルでの配信や講演活動、「M―1グランプリ」に出場するなどの活動を行ってきた。

 安藤氏は「国政を離れた3年間、自民党の政治を見ていると、日本がますます衰退していくなと思っており、国会に議席を持たなきゃいけないなと感じておりました」と切り出した。

 なぜ参政党から出馬するのか聞かれた安藤氏は「神谷代表にお会いし、思いを共にできるなと思いました。日本国民が、日本への誇りを取り戻して、子どもたちが『日本人で良かった』と思えるような政治を取り戻したい。本来、自民党がやるべきことだったと思いますが、自民党がやらない政党だとよく分かった」と語った。

自民党所属時は、復興大臣政務官兼内閣府大臣政務官などを務めた。「総裁選にも機会があれば出て、自民党を変えていこうと思っておりましたけど、それができない立場になりましたので、新しい政党かもしれないけど、参政党さんと共に日本をたて直す仕事をやっていきたい」と語った。

 会見後の街頭演説で安藤氏は、消費税廃止を訴えた後、神谷代表と両手で握手を交わしていた。」

 

 


『アンナ・カレーニナ(中)』-第四篇-19より

2024年09月20日 00時29分11秒 | 本あれこれ

『アンナ・カレーニナ(中)』-第四篇-12より

「カレーニンの犯した誤りは、彼が妻に会う心がまえをしたとき、妻の悔悟が真実なものであり、自分がその罪を許し、しかも妻が死なずにすむ、という偶然の場合を予想しておかなかったことにあった。この誤りは、彼がモスクワから帰ってから二カ月もたつと、あますところなく明らかになった。しかも、彼の犯した誤りは、この偶然を予想しなかったためばかりでなく、彼は瀕死の妻と会うその日まで、自分の本心を知らなかった、ということにも起因していた。彼は妻の病床で、生れてはじめて、優しい思いやりの感情に身をまかせてしまった。この感情は彼がいつも、個人の苦痛を見るたびに、呼びさまされたものであり、以前は有害な弱点として恥じていたものであるが、妻に対する哀れみと、自分の妻の死を願ったという後悔の思いと、それになによりも、許すということの喜びのために、彼は急に、おのれの苦悩が癒されるのを覚えたばかりでなく、以前には一度も味わったことのないこころの安らぎすら感じたのであった。彼は思いがけなく、自分の苦悩の原因そのものが、精神的な喜びのみなもとに変ったのを感じた。いや、彼が非難したり、責めたり、憎んだりしていたときには、とても解決することができないように思われたものが、許しかつ愛しはじめるや、たちまち、単純明白なものになってくるのを感じた。

 彼は妻を許し、その苦悩と悔悟のために、妻を哀れんだ。彼はヴロンスキーを許し、彼が絶望的な行為をしたといううわさを耳にしてからは、いっそう彼を哀れんだ。彼はまたむすこをも、以前にもまして哀れんだ。そして、今まではほとんど子供をかまってやらなかったことを、自分に責めるありさまであった。しかし、新たに生れた女の子に対しては、ただ哀れみばかりでなく、優しさのいりまじった、なにか特殊な感情をいだいていた。はじめのうち彼は単なる同情の念から、実の娘でもない、母親の病気で放りだされて、もし彼が心配しなかったら、死んでしまったかもしれない、生れたばかりの弱々しい女の子の世話をやきはじめた。彼はこの女の子を愛しはじめたのを、自分では気づかなかった。彼は一日に何度も、子供部屋へ行き、長いことそこにすわりこんでいたので、はじめはご主人の前でおどおどしていた乳母や婆やも、じきに慣れっこになったくらいであった。彼はときには、30分あまりも、産毛におおわれて、しわだらけなサフラン色がかった赤ん坊のかわいい寝顔を、黙ったままのぞきこんで、妙にしかめた額の動きや、指を握りしめた、ふっくらした小さな手の甲で、目や鼻筋をこすっている様子を、じっと観察することがあった。そんなとき、カレーニンは自分の心がまったく落ち着いていて、自分自身にぴったり調和しているのを感じ、自分の境遇になにひとつ異常なところも、またなにひとつ変更しなければならないところも認めなかった。

 ところが、時がたつにつれて、彼には、こうした境遇が今の自分にとってどんなに自然であろうとも、世間は自分をここに長くは止めてくれないだろう、ということがしだいにはっきりとわかってきた。彼は自分の魂を導いている幸福な精神力のほかに、彼の生活を導いている、もう一つの荒々しい力があり、それは前者と同程度に、いや、それ以上に支配的な力であり、この力は、自分の望んでいる和やかな安らぎを与えてはくれまいと感じた。彼は、みんながけげんそうな、びっくりした顔つきで自分をながめ、自分を理解してはくれないで、なにものかを自分に期待しているのを感じた。とりわけ、彼は、妻に対する自分の関係のもろさや不自然さを痛感した。

 死を間近にして、アンナの内部に生れた心のやわらぎが去ってしまうと、カレーニンはアンナが自分を恐れ、自分をはばかり、自分の顔をまともに見つめることができないでいるのに気づいた。アンナはなにか彼にいいたいのに、それをいいだしかねているようで、やはりふたりの関係がこのままつづくわけにいかないのを予感して、なにやら彼に期待しているようであった。

 二月の末に、やはりアンナと名づけられた赤ん坊が、たまたま病気になった。カレーニンは朝のうちに子供部屋へ行って、医者を呼ぶようにさしずをし、役所へ出かけて行った。彼は仕事をおえて、三時すぎに家へもどった。控室へ通ると、金モールに熊の皮の飾り衿をつけた美男の召使が、スピッツの毛皮で仕立てた白い婦人外套を手にして立っているのが目に映った。

「だれが見えているのかね?」カレーニンはたずねた。

「トヴェルスコイ公爵夫人でございます」召使は答えたが、カレーニンには、相手がにやっと笑ったような気がした。

 この耐えがたい数か月のあいだずっと、彼は社交界の知人、とりわけ、婦人たちが、自分たち夫婦のことに特殊な関心を示すうになったことに気づいていた。彼は、これらすべての知人が、なにかうれしいことがあるのに、それをやっとの思いでこらえているように思われた。彼はそれと同じ喜びの色をかつてあの弁護士の目にも見たし、今またこの召使の目にも認めたのであった。まるでみんなは、だれかを嫁にでもやるように、有頂天になっているみたいであった。そして彼に出会うと、やっとのことでその喜びの色を隠して、アンナの健康をたずねるのであった。」

(トルストイ『アンナ・カレーニナ(中)』昭和47年2月20日発行、昭和55年5月25日第16刷、新潮文庫、338-341頁より)