たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

月組『ALL for One』より_「俺たちは負けない」

2020年03月25日 22時45分51秒 | 宝塚
 昨夜も眠れず4時間半の睡眠。夜というよりは朝方目がさめてお手洗いに行った後体が冷え過ぎてもう眠ることができないまま起床時間となってしまいました。3月下旬、こんなに寒かったのか、自転車に乗っている時風の冷たさがしみてしみて、家の中も寒くって寒くって、心身共に冷え切っています。お弁当あっためている間台所にいる数分がきびしいので冷たいまま食べたりしたからよけい冷えてしまうのは当たり前。明日の朝無事に出勤できたら残り1日の有給休暇を申請して金曜日に休もうとしていますが家で具合悪くなって30日と31日出勤できないかもなあとか不安になったりもしています。一日一日、慣れない地域、慣れない暮らし、慣れない業務。怒りと不満に満ちたいやーないやーな言葉ばっかりきこえてきて、どれもこれもきたなくしかきこえなくなってしまっていて、もはや〇〇弁に拒絶反応しかなく、幾重にもきびしいです。4月上旬、東京宝塚劇場の星組公演のチケット友の会で当選したので日比谷遠征を機にまたスパに泊まって部屋を借りられるのかとか以前の就労場所とかたずね歩いてみようかと思っていたのですが気持ち折れまくり。なんのために自分は生きているのかわからなくて、自分は今ここで何しているのかわからなくて、なぜここにいるのかわからなくてただただ涙。

 心の支えである宝塚の舞台、宙組の外箱二つも3月は中止になってしまいました。複雑な気持ちもあったのですがこのままでは花組の大劇場公演、一度も幕を開けることができないまま千穐楽が来てしまうのかもしれないと思うとさすがに辛くなってきました。劇団はそこも見越して、何がなんでも3月22日の雪組大千穐楽だけは、観客を入れることができなくてもスカイステージ放送という独自のシステムを使って死守しようとしたのかもしれません。わたしはみることができませんでしたが観客入れて昼夜共に上演できてほんとによかった。この先どうなっていくのか、ほんとに不安。笑顔をつくる努力をおこたらないために・・・。

「俺たちは負けない

作詞:小池修一郎 作曲:太田健

 ダルタニアン

  俺たちは 負けないぞ

  どんな強い力にも

  俺たちの 自由を奪う

  どんな厚い壁にも

  愛する人と 結ばれる為なら

  見えない翼広げ

  翔ぼう
 
  夜の闇を超え

  朝日を浴びて

  君を救い出そう」


  



月組『I AM FROM AUSTRIA』_美園さくらちゃんのこと

2020年03月24日 22時26分55秒 | 宝塚
 本日行われた美園さくらちゃんの退団記者会見の記事を電車の中で読みながら、たまきち(珠城りょうさん)からプレゼントされたというイヤリングをつけたさくらちゃんの満開の笑顔があまりにも幸せそうで、まさかの涙がでてきてしまいました。さくらちゃんにとってエマという役は命がけで生きたかけがえのない役で、たまきちジョージはかけがえのない相手役で、最後までそばにいたい、一人にはさせたくなかったのだ、そんな思いが伝わってきて涙なりました。
 
 ハリウッド女優として成功をおさめたエマ・カーター。月城かなとさん演じるマネージャーのリチャードとサングラス姿でウィーンのホテルに登場したときからかっこよかった。どの衣装も筋肉がきれいについた美脚が映えてお似合いでした。腰の位置が高いのでパンツスタイルも映えました。フィナーレのデュエットダンスでせり上がってきたとき、折れるのではないかと心配になるぐらい細いウエストとそった背中の鍛え抜かれた美しさに、たぶんとてつもない努力を重ねてきたであろうこと、その努力に裏打ちされた自信と自立感を感じました。たまきちとのリフト、位置が高かったし長かった。回すたまきちも回っているさくらちゃんのポージングとドレスさばきもすごく美しいリフトでした。命がけでふたりが魅せてくれたデュエットダンス、リフトばっかりではないですが、どちらかといえば無理してリフトしなくてもと思う方なのですが、たまきちとさくらちゃんのリフトは沁みました。

 『雨に唄えば』をライブビューイングでみたとき、さくらちゃん、次のトップ娘役候補なのかな、好みがたぶん別れるんだろうなと思いました。トップ娘役になったばかりのときなにかの映像でこの話し方?って正直思ったことがあったのですが『無限夢想』『クルンテープ』をみたとき面白いのびしろがあるかなと思いました。『I AM FROM AUSTRIA』で期待をはるかに上回るのびしろを魅せてくれて、トップ娘役が自信に満ちあふれて生き生きとしている姿は爽快でした。今オンデマンド配信でみている『赤と黒』のインタビューでは話し方もすっかり変わっていて成長を感じました。それだけに退団は残念ですがたまきちの隣で一緒に卒業したいという思いを大切に受け止めて自分が観劇できるかどうかは別として、満開のさくらの花を咲かせて卒業していってほしいなと思います。一年先、今のようなまさかの疫病による中止などなくたまきちと共に一回一回無事に公演できるように祈っています。

 エマが操縦するヘリコプターでジョージとふたりオーストリアの山々を見下ろすシーンのこと、ホテルの冷凍庫に閉じ込められたシーンのことなどなど語りたいところですが平日なので残念ながらここまでかな。

「退団者のいる宝塚歌劇の千秋楽公演の重みがどれほど代えがたいものかは、この世界を愛する人々が共通に持っている認識で、そこには深い祈りと願い以外の、邪なものは何もないのだとだけは言っておきたい。今はただ、命か文化かという究極の議論をせずに済む、誰もが笑ってそれぞれの大切なものを享受できる日が、一日も早く訪れることを祈り、願うのみだ。」
http://enbu.co.jp/takarazuka/onceuponatimeinamerica2020/
得られなかった理想の人生への憧憬 宝塚雪組『ONCE UPON A TIME IN AMERICA』




 11月11日宝塚大劇場ライブビューイング、12月14日東京宝塚劇場、どちらも夢のごとし。無事に観劇できたことに心から感謝。


一週間後の夜には終わっている

2020年03月24日 18時55分22秒 | 日記
 二日連続3時間余りの睡眠で迎えた朝、一週間後の17時30分には終わるのだと気づきました。夕方人事異動の情報に仕事そっちのけで盛り上がっているのはどうなのよと思いながら、自分は与えられた役割を粛々とこなすのみだと言い聞かせました。今日も電話に緊張しました。最後の最後まで気を抜くことはできません。あと、一週間、あと。その先の予定全くわからずで書き込める予定がないので今年の手帳をまだ購入していないことを今は考えない。伝統的な風土っぽい感じですが最初の頃あからさまに悪口言われているのが聞こえてきた陰湿はところはもういい。怒りと不満の巣窟、きたない言葉がとびかうところはもういい。ここだではないことわかっているけどもういい。マケテくれなかったら飛び降りて死んでやるとかおどしてきたり、オマエよばわりされて、バカだと言われたりするところはもういい。地域独特の地名も読みこなせないし、拒絶反応しかもうない。他の地域でも同じことがあるのかもしれないけどもういい。あと一週間・・・。

 昨夜また冷え切った家の中で寒さに震えながら、帰ってこなければよかったとボロボロボロボロ、とめどなく涙が流れてしまいました。プチうち状態だと自分で思います。都心で一人暮らしをしていた時よりも孤独。車社会に疲れてしまいました。テーボーに疲れてしまいました。眠れないのは年齢と、歩くことがすっかり少なくなってしまった生活、休日と夜お弁当ばっかり食べているので野菜不足でバイオリズムがくずれてしまっているからかな、たぶん。眠剤ないと眠れなくなる毎日を全く想定できなかった帰省。マックでさえ入るとじっと見られる田舎生活に順応できず。一人で安心してパソコン立ち上げて自分のペースで過ごせるところがないのに順応できず。車の運転が向かない自分の居場所ではなさすぎ。宝塚大劇場に日帰り遠征できるということだけが心の支え。グチはいい加減にして美園さくらちゃんのことを少し書けるといいな。

宙組『エルハポン-イスパニアのサムライ』じわる

2020年03月23日 19時51分19秒 | 宝塚
 大野先生のマニアックな博識と宙組との融合があとからあとからじわる『エルハポン』。11月30日に宝塚大劇場、1月4日に東京宝塚劇場で観劇したことも2月16日に千穐楽のライブビューイングを見届けたことも全ては夢のごとし。まだ影響なくってほんとによかったです。

(公演プログラムより 作・演出 大野拓史

「実物を拝見したことありませんが、パリのある博物館には「不殺剣」という棒手裏剣に似た日本の武器が所蔵されているそうです。夢現願流という剣術の流儀に用いられた武器で、それをフランス軍は模倣して生産し、第一次世界大戦では飛行機から敵軍に投下して、大いに成果を上げたと言われています。

 夢想願流といえば、江戸時代に仙台藩などで用いられていたものの、明治時代み失伝してしまった、実態のよくわからない謎の流儀。その様な流儀の特殊な武器が、なぜヨーロッパの博物館にあるのか。初めて、「不殺剣」の話を聞いた時、夢想願流が海を渡る様々な可能性を、想像しては胸躍らせた事を覚えています。密命を帯びて潜入した侍か、はたまた逃亡の果てに辿り着いた流れ者か・・・。

 実際には、仙台出身の奥女中が護身用の武器として徳川家に伝えた「不殺剣」を、明治時代に留学した紀州徳川家の御曹司が持参し、それがフランスに残されたものであるようですが、一度抱いてしまった想像、いや妄想は消しようがありません。どうにか形にして見てみたくなり、いつも複数提出する企画案の中に、密かにしのばせておいたものが今回の物語です。」

(『歌劇』2019年11号の対談より)

「芹香;あと、治道が使うという夢想願流が気になっていて。

 真風;夢想願流・・・使うんですか?

 大野;使います。夢想願流は伊達藩では割と多かった流儀ですが、本物がもう残っていなくて。面白い剣なのですが、そのものを見せるだけでなく、それによって生まれる人の繋がりもあればいいかなと。夢想願流自体は当然誰も見たことはないので(笑)、俺こそが夢想願流と思うところでやってください」。

 座付き作家の想像力の翼の広がり、すごいですね。細かい設定をしながら、この想像の余地を生徒に委ねた自由度がいいなあと思います。それぞれが自分で考えて工夫して楽しんでいた舞台。その雰囲気が客席に伝わってきたからより楽しかったのかな。真風さんの殺陣の所作はいずれも美しくてすきのないかっこよさでしたがいちばんかっこよかったのがエリアスの剣を素手で受けて返すところだったというオチもまた楽し。治道の怖れを知らぬさまに、及び腰になって退散し、エピソードではアレハンドロに握手求めていたエリアス、ただのひねくれものではなく筋がとおっていたいい奴でした。治道とエリアス、アレハンドロ、カタリナは何語で会話しているのかしら、ほんとに意思疎通ができたのかしらとか観劇しながら心の中でツッコミを入れつつ、そんな現実的なことをとおりこえた妄想とリアルが融合した、なんともじわる世界観。

 美園さくらちゃんがたまきちと同時退団、潤花ちゃんの異動で遠からず宙組も動いていこうとしています。一回一回、一期一会の出会い。今は別箱がそれぞれ無事に上演されることを祈っています。

 

これからどこへむかっていけばいいのだろう

2020年03月23日 19時26分51秒 | 日記
 連休明け、まだまだごっかん。長い一日がまたなんとか過ぎました。有給休暇を使えるならあと5回の出勤でおわるはず、ここまできても慣れない地域での合わない仕事、怒りと不満と憎しみだらけの環境に、なぜ自分はこんなところへ誘われてしまったのだろうという思いがなんどもよぎります。お隣同士、あんなに仲良くお喋りしているのに、ニコニコニコニコ、ニコニコニコニコしているのにいないとき悪口をいう陰湿さに今日も背筋がこおる思い。ストレスの吐き出しまくりの言葉のきたなさも相変わらずであともうほんとに数えるほどですが一日も早く逃げ出したいです。そっか次はこういう電話がはいるのかっていうタイミング、一年もいないのにあれもこれも理解して頭に入るなんて無理なので突然きかれても頭回らずでドキドキしました。なんとか怒られずにすみました。午後わけわかんない人から怒られましたけどね、口ごもっていてどっからどういう書類が届いてなにを何を知りたいのかさっぱりわからなかったのでききかえしたらいきなり怒られました。オマエデハわからない、わかる奴にかわれ!とこの地域ばりばりの方言で言われたのが汚くしか聞こえなくて吐きそうになっている自分がいました。職員にかわってもらおうとすると都合よくそろって手があいていないと言われ、オロオロ、オロオロ。役職者にかわってもらおうにもすぐには手があいていないとのこと。なんども書け直してきて、そのたびに怒鳴られて最終的には役職者が対応。全く他の問い合わせ先の内容だったようですがなんでもとにかく電話して怒鳴ればなんとかなると思っているらしいところがなんともかんとも。不特定多数相手の電話はほんとに苦手、苦痛でしかない、一分一秒が長い電話当番。明日も含めてあとまだ3回もあります。無事に3月31日を迎えたとしてもその先、自分にはなにがあるのでしょうね。どこへ歩いていけばいいのでしょうね。このまま郷里にいても、利便性の高い生活から不便な生活への切り替えは年齢が高くなってきた身には今さら過酷すぎたとわかっただけでなにも希望がない。このまま家にいてはもうどこへもいけない。逃げ場所もない。また無職、無収入になって家にいたら電気とガスと水道使ってしまうだけなのでいるわけにはいかないのですが一度手放してしまった、駅に近いところで部屋を借りるというハードルがあまりにも高すぎて超えることなど到底無理としか思えずです。わずか一か月半ぐらいの間に気がつけばコロナに世界中がおおわれしまってどうなっていくのでしょうね。どうすればいいのでしょうね。

 昨日雪組の舞台が無事に千穐楽を迎えることができたようで安堵しましたが、指揮の西野先生、3月は5日しか働いていないとなげきのつぶやき。そりゃそうですよ、子供小さいし生活あるのですから。東宝も宝塚も生演奏、場面転換のとき幕をおろした舞台でスタッフさんたちがセットを移動させている音がきこえてきます。時にはハプニングもある生の舞台の醍醐味を味わうことができますが、役者さんたちが稽古期間はお給料でないようにオケメンバーやスタッフさんたちだって舞台の幕があがらないとお給料でないですよね、たぶん。ジェンヌさんたちはどうかな、下級生のうちは阪急の社員で固定給に守られているそうですが上級生になっていくと契約ベースですよね、やはり中止になった分お給料は減ってしまうのでは?と人のことを心配している場合ではないのですが気になります。日本どころか世界は破綻してしまいそうなこの頃、どうなっていくのでしょうね。みんな不安ですよね。

 明日はまた気温がさがるようです。まだ過酷な朝があるのかと思うとそれだけで気持ちうしひしがれ。考えるとつらいばっかりのことは今は考えないようにして明日を生き延びる。なにかをなせるわけではない。誰かの役にたっているわけでもない。また無職になればなんら生産性のあることをやれない奴に逆戻り。なんために生きているのかわからないですが、自分が明日いなくなっても困る人はいないのですが、宝塚の舞台も東宝の舞台もまだまだみていたい。清史郎君が帝国劇場に戻ってくるのを見届けるまで死ぬわけにはいかないのですよ。だから明日もなんとか無事にと思います。

 明日に残せるものなどなにもないこの身。死なないために1,500円で一か月間見放題のオンデマンド配信プランに昨日申し込みました。スカピンとかミーマイとか、ダラダラとなんどでもみたい。3月31日までこれを糧に生き延びていく。家にWIFIあるから可能なことなわけでこれぐらい許されてくださいな・・・。

ミュージカル・コメディ『キス・ミー・ケイト』より_古い話でごめんなさい

2020年03月22日 16時57分54秒 | ミュージカル・舞台・映画
(公演プログラムより)

「本日はボルチモアのフォード劇場へお越しくださり、ありがとうございます。
少々うんちく話にお付き合いください。

ミュージカル・コメディ『キス・ミー・ケイト』、その劇中劇であり、作品のアイディアの源となった『じゃじゃ馬ならし』はウィリアム・シェイクスピアの若き日の作品です。1594年ごろに書かれたとされています。今でもシェイクスピアのお芝居は大人気なのですが、実はこの『じゃじゃ馬ならし』に関しては上演の機会が減っているのです。

じゃじゃ馬娘カタリーナの財産目当てで結婚し、「じゃじゃ馬ならし」を賭けの対象にする主役ペトルーチオは、とにかく強引。夫への服従を教え込もうと、ロボの背から泥道に突き落とし、食べ物にケチをつけて食事の機会を奪い、わめき倒して安眠をも妨害します。膨大なセリフの掛け合い、エネルギッシュな演技はシェイクスピアの醍醐味であり、とても魅力的です。しかし、今日の視点で見ると、DV(ドメスティック・ヴァイオレンス)夫の物語、女性蔑視ではないかと非難の矢が飛んできます。

原典『じゃじゃ馬ならし』の結末のシーンでカタリーナは貞淑な妻に変身を遂げるのですが、その亭主関白礼賛ぶりが唐突に思えるのです。カタリーナの勝気な性格は結婚によって消えてしまったのでしょうか。
劇作家バーナード・ショウもこの結末に不満だったようで、そのあめに1912年に戯曲『ピグマリオン』(ミュージカル『マイ・フェア・レディ』の原作)を書いたという説もあります。『マイ・フェア・レディ』のイライザは自分から言葉のなまりを直すためにヒギンズ教授を訪ねます。教育されて美しいレディに成長するだけではなく、治世も磨かれてゆきます。

さて、1948年、夫婦合作の脚本作家スピワック夫妻により、『じゃじゃ馬ならし』はミュージカル・コメディ『キス・ミー・ケイト』として新たな生命を吹き込まれます。離婚して1年のもと夫婦の俳優が演じる『劇中劇じゃじゃ馬ならし』という設定です。主役兼演出家兼プロデューサーのフレッドが小さな楽屋で我慢しているのに、リリーは劇場で一番快適な楽屋を提供されている。ケンカ、後悔、和解、いい雰囲気、ちょっとのことでまたケンカ・・・男と女は、本音と建て前の繰り返し。一筋縄ではいかぬ力関係のねじれと、シェイクスピア劇にはよくある「早とちり・単なる人違い」から引き起こる事件が舞台上と舞台裏、小気味よく同時進行で進んでいきます。もちろん、結末のシーンもシェイクスピアの原典を少しアレンジしてあります。
随所にショウ・ビジネス賛歌を盛り込んだコール・ポーターの作詞・作曲も素晴らしく、大ヒット。1949年のトニー賞「最優秀ミュージカル作品賞」が新たに設けられ、『キス・ミー・ケイト』は栄えある第1回目の栄誉を受け、ブロードウェイ・ミュージカル史に残る名作となりました。1966年東京宝塚劇場にて日本初演。フレッド(ペトルーチオ)役は宝田明、リリー(カタリーナ)役は江利チエミという配役でした。

元をたどればシェイクスピアにさかのぼる、ミュージカルの超古典ともいえる『キス・ミー・ケイト』。古さを感じさせないのは、ショウ・ビジネスの世界を描いているからではないでしょうか。芝居つくりは昔も今も究極のハンドメイド。そしてこれから先も「ショウ・マスト・ゴウ・オン」の精神は永遠に引き継がれていくことでしょう。」

2018年7月7日(日)、池袋芸術劇場プレイハウスにて観劇しました。
いっちゃんのファンクラブ先行予約でかなりの前方席でした。





小林一三翁、全ての舞台をお守りください。


月組『BADDY』より_テーマソング

2020年03月22日 12時58分02秒 | 宝塚
作詞:上田久美子

「BADDY BADDY BADDY
 ハッハッハッ
 BADDY BADDY BADDY
 ははははは!
 BADDY BADDY BADDY
 I,m cool・・・
 BADDY BADDY BADDY
 I,m hot・・・
 BADDY BADDY BADDY
  I,m free・・・
 邪魔だ どけ!
 誰も俺を止められない 悪逆非道
 Don,t stop me,I am BAD!
 I,m BADDY!
 天国なんて行きたくない 
 天国なんて
 ばあさんたちの行く場所さ
 冗談じゃねえ
 BADDY BADDY BADDY
 堕ちてやるぜ 地獄
 BADDY BADDY BADDY
 宇宙一 悪党
 Be Free!


 Sweet-heart Sweet-heart Sweet-heart
 ふふふふ・・・
 Sweet-heart Sweet-heart Sweet-heart
 アハハハハハ!
 Sweet-heart Sweet-heart Sweet-heart
  I,m Sweet
 Sweet-heart Sweet-heart Sweet-heart
 邪魔よ どいて!
 誰も僕を止められない 放蕩無頼 
 Don,t stop-me, I am Sweet!
I,m Sweet  
 天国なんて行きたくない
 天国なんて
 天国なんてダサすぎるの
 Be Free!


BADDY BADDY BADDY
BADDY BADDY BADDY

邪魔だ どけ!
 誰も俺を止められない 悪逆非道
 Don,t stop me,I am BAD!
I,m BADDY!

天国なんて行きたくない
  天国なんて
  じいさんたちのたまり場だろ
  BADDY BADDY BADDY
 ヤツは月から来た
 BADDY BADDY BADDY
 危険な男
  BADDY BADDY BADDY
  逃してはならない
 BADDY BADDY BADDY
  宇宙一 悪党」

ウエクミ先生の歌詞、愉快、痛快。たまきちの退団公演がウエクミ先生の脚本・演出は、自分が観劇できるかどうかは別として期待しかないです。







 日比谷の空は晴れているでしょうか。ライブビューイング中止となり気が抜けてしまっています。スカイステージ放送をみることはできませんが、千穐楽が無事に終わることを遠くの空から祈っています。退団者が最後無事に大階段を降りてお別れできますように・・・。

 1月に宝塚大劇場で観劇した時にはまさかこんなことになるとは思ってもみませんでした。大千穐楽のライブビューイングでもう一回ストーリーを追いながら嚙みしめることができるものと思っていませんでした。明日のことはわからないですね。これから観劇するときは今まで以上に一回一回を、観劇できることに感謝しながら大切にみようと思います。


『シェイクスピアの面白さ』より_エリザベス朝劇場というのは

2020年03月21日 13時33分29秒 | 本あれこれ

「エリザベス朝劇場というのは、一つの舞台といっても、機能的には三つの舞台を一つに組み合わせたものと考えてよい。これが大きな特殊性であった。三つの舞台というのは、第一がまず外舞台(other stage)。これは(平面図でもわかるように)不釣り合いなほどいわゆる大きくいわゆる平土間の中はどまで突き出ている。観客はある程度三方から舞台をかこんで見るような形になる。

 外舞台には大きな柱が二本あり、これが一種の屋根を支えている。この屋根は普通「天」(heavens)と呼ばれていた。またこの外舞台には、中央あたりに「せり出し」の穴が切られていて、例の「ハムレット」の父の亡霊などは、ここからせり上がってきたものと考えられる。

 さて次は「内舞台」(inner stage)。これは外舞台の奥につづいていた小舞台で、その間は、これまた(挿図)でわかるように、左右に開閉できる幕で仕切られていた。ここは寝室だの、洞窟だの、居間だのと、そんな場面のときに用いられた。最後は「二階舞台」(upper stage)。これはちょうど内舞台の真上にあたっており、(平面図ではよくわからないが、内部想像図の方では、はっきり存在が見えるはず。これは文字通り二階の寝室になったり、バルコニーになったり、また城壁の上、小山の頂き、等々といった高い場面のときに使用される。」

「一つの舞台が、実は三つの舞台の組合せから成っていたことは、以上の通りであるが、問題は、それら構成的舞台を実際にはどんな風に使ったか、ということになる。まず第一に言えることは、構成舞台であったために、場面の転換が非常にスムースに、しかも幕間時間を要せずに行えたということであろう。たとえばお馴染みの「ハムレット」に例をとってみる。冒頭の亡霊出現の場面は、おそらく外舞台だけ、内舞台との間の幕は閉まったままだったろう。第二場はガラリと宮廷内の広間のようなところに変わるが、これは前場の終わりでホレーシォ等が退場してしまうと、そこで幕を開いて内舞台を出す。すると、内外両舞台を合せた全体が広間ということになり、宮廷内の場面が進行する。前場の進行中に、閉まった内舞台に玉座を象徴する椅子を二つほど出しておけば、あとは幕を開くだけで、すぐに第二場になるというわけ。

 つづいて第三場は、オフィーリア、レアティーズなどが登場して、ボローニアス一家の家庭風景だが、別に特定の部屋という限定らしいものはセリフに現れないので、おそらく第二場が終わって全員退場すると、ふたたび幕が閉まって、外舞台で演じられたのではなかろうか。屋外、屋内をとわず、特に限定されない場面は、外舞台で演じることになっていたらしい。そこで次の第四場、第五場とつづく場面、ハムレットが夜の見張りに加わり、父の亡霊に会って、これを追い、ついにその死の秘密をあかされるところだが、おそらく最初、第四場の「胸壁の上」というのは、一転して二階舞台を使ったのではないかと思われる。そこで「憑かれたもののように」亡霊を追って退場ということになるが、次に亡霊とともに登場する第五場は、明らかに外舞台でなければならぬ。ここで亡霊がいくどか地下から呼びかけるのを見ても、これはセリ出し穴から消えて、奈落からの声となっていることにまちがいない。

 もちろん、こうした場面変換の詳細はすべて、当時の舞台慣習から推しての推定であり、したがって部分的には別の見解をとる研究者もあるが、大綱においてはまずまちがいない。そして筆者が示したかったことも、つまりは上に述べたように、事実上には三つの舞台の組合せであったればこそ、場面の転換、劇の進行がきわめてスムースに流れて、幕間時間などによる感情のリズムの中断、停滞をうまく免れることができた、ということを言いたかったからである。

 今日、流布本でシェイクスピアを読まれる一般の読者は、きっと彼の劇が、悲劇、喜劇、史劇をとわず、非常に多くの場面(シーン)から成り立っていることに気づかれるにちがいない。たいていが20場前後、むしろそれを越えるものの方が多い。もっともひどいのは「アントニーとクレオパトラ」であり、これは実に38場に及んでいる。したがって、極端な場合は、一幕わずかに十行前後というのさえおびただしくある。シェイクスピア当時の劇場では、一つの芝居の演了時間がほぼ二時間あまりであったらしいことは、前にもどこかで述べたように思うが、こんなに多数の場面を、どうしてそんな短時間で演じおえることができたか。秘密はこの舞台構造にあったのである。背景、装置が簡単な上に、三つの舞台の組合せによる、このスムースで迅速な場面転換があったればこそ、そんなことも可能だったのである。」















「3.11石巻復興祈念ゼミ合宿」報告書からの引用(11)

2020年03月20日 21時11分34秒 | 東日本大震災
「「死」ということについて

 教育学専攻Sさん

 震災から二年半がたち、世間でもあの地震や津波は「過去」のものとなりつつある。当時自分は家のなかであの地震を体験し、テレビのニュースで津波の様子を見ていた。停電が起こったことや携帯電話がつながらなくなったことも、耳にの凍るCMしか放送しなくなったあの状況も、正直ひとつの「大イベント」でしかあり得ず、記憶は薄くなってきた。簡単に言えば他人事、切実に「自分じゃなくて良かった」と思った。同情しなかったわけではない。ただ本当の痛み悲しみは当事者にしか分からず、それにも関わらず下手な同情をしてしまうことは、被災者にとって失礼なことだ、偽善だと思った。テレビで「絆」だとか、みんなで助け合いましょうとかいうのが、正直大嫌いである。だからボランティアに行くことも考えたが、自分がそうすることをせき止める物があり、結局何もしなかった。極端な話、地震の被害に遭うのも、津波で流されてしまうのも、(原発に限っては人災だが)原発によって生活を脅かされるのも、そこに住んでいたのが悪いのだと主張する人がいてもおかしくないと思った。日本に住む以上天災を免れることはできない。それは歴史が証明している。ただそんな自分はこのままでいいのだろうかという不安もあった。周りの人間、社会はみんなで手を取り合いましょうと言っていることに、不快感を感じる自分や他人事に感じてしまう自分には、もしかしたら大きな欠陥があるのではないかとまで思ってもいた。

 そんな中で夏休みの合宿で石巻に行くという話が持ち上がった。自分は是非行きたかった。ボランティアがしたいとかそんな大それた物ではなく、ただ知りたいと、被災者の人々は何を思っているのか感じたいと望んだからだ。そこの人々は災害を肌で感じ、「死」を感じたにもかかわらず、そして日本に住む以上必ずまたやってくると知りながら、何故「ここ」に残っているのか知りたかった。おそらくその土地で生きてきて、その土地が好きだからだという答えが返ってくるのであろう。しかしそのことを生の声で聞いてみたかったのだ。

 合宿初日、まずは津波が住宅街を直撃した場所へ行った。そこは広大な住宅街だったが一面見通せるくらい、ほとんどのものが流されてしまっていた。その後、リアス式の海岸沿いを小一時間ほどバスに乗りながら海をしばなく眺めていた。当初自分は被災地に行ったら、おそらくひどくつらい気持ちになるんだろうなと思っていたが、実際そうではなかった。こんなことを言ったら亡くなった方に失礼かもしれないが、石巻の広大な山や自然そして巨大な海を見たとき、なんて美しいのだろう、そう思ってしまった。もちろん家々を飲み込んだ海は非常に怖く、「死にたくない」と感じさせるものがあった。しかしそれ以上に、この海に囲まれて生きていることはとても素敵なことだと強く感じたのだ。畏怖の念とはまさにこのことであると実感した。

 二日目に、今回石巻を案内してくださったAさんに、海に連れて行ってもらった。普段海を仕事にしていて、震災を体験し、津波で親戚を一人亡くしている方だった。船を出してくださり。石巻の海で泳がせてくれた。その夜にはAさんに質問する機会が設けられた。そこで自分は当初からしようと決めていた質問をした。「何故ここに残るのか」と。そして石巻の海を見て、肌で感じ体験した率直な感想をAさんに伝えた。その質問に対してAさんは、「生きる術だから」と答えてくれた。「今日何故泳いでもらったかというと、被災のもとをつくったのも海、今日たのしかったそこも同じ海、海がないと生きていけない」「津波が悪いと言えば悪いのだけど、悪いのは自分たち、津波は今だけあったのではなく昔からあった。それをいかさなかった我々が悪い。」そうAさんは言った。

 このとき、自分はなんて馬鹿なことを聞いてしまったのだろうかと恥ずかしくなった。Aさんは東京の大学生のためにわざわざ時間を割いてまで自分の土地を案内してくれて、生の震災を教えてくれ、石巻の海を肌で体験させてくれた。それだけでAさんが石巻で生きているのだという根拠として十分であった。身近な人を亡くし、自分も被災者である人の口から「悪いのは自分たち」だというようなことをまさか聞けるとは思ってもみなかった。自分のアイデンティティはその国、その土地の歴史、伝統文化と連続しているのだ。そういう認識は以前からあった。しかし本当にそれを体現している方を目の前にして、その認識は甘かったのだと痛感させられた。

 またAさんは、何故このような大学生の企画を手伝ってくれたのかという理由に、「命」の大切さを知ってほしいのだと言っていた。海の美しさと怖さを知っている人から、聞かされた言葉には、今までテレビから聞かされていたものから感じられた偽善のようなものは、当たり前だが感じられなかった。実際Aさんは「絆」という言葉を嫌いだと言っていた。そしてこれらの言葉を聞いて、自分は石巻に来る前の悩みが晴れたような気がした。自分は津波があったとき、素直に「自分じゃなくて良かった」と思った。テレビのニュースで津波を見たときも、「死にたくない」と思った。それで良かったのだと。Aさんの言葉通り、「命」の大切さを知るのは少し自分にとっては難しいかもしれない。やはり命は存在しているからこそ認識でき、命が「存在している」を改めて感じるのは難しい。しかし、「死」を感じることはできるのではないか。「命」の存在を感じることは難しいけれど、「命」が失われていくこと=「死」を感じることは誰にでもできる。「本当に自分じゃなくて良かった」と他人事になったとしてもいい。純粋に「死にたくない」と思うこと、それはAさんの望んでいたことと共通しているのではないのだろうか。

「人生は一回きりだから大切に生きなさい」などとよく言われる。しかし本当に大切に生きられる人間は、たった一つの「命」を感じられる人間ではなく、たった一つの「死」を感じられる人間ではないか。ほんとうに大切な、一度きりの「死」を感じられる人間になりたいなと、それが石巻に行って自分が一番強く感じられたことである。

 最終日に、大川小学校というところへ行った。108名の児童の内、74人が命を落とした。そこにはその近辺でなくなった方々の名前や年齢が刻まれた石碑があった。自分はその石碑を観ながら、自然と自分と同い年くらいの年齢をさがしてしまった。「この人たちのぶんまで・・・」などという素晴らしいことを思うことはできなかった。ただその名前を見て、ただ純粋に「死」を感じ、涙を流しそうになった。自然とそう行動し、そう感じていた。」

(慶応義塾大学文学部 3.11石巻復興祈念ゼミ合宿報告書より)




ゆずってくれない?わたしはゆずる

2020年03月20日 15時07分44秒 | 日記
 紅ゆずるさんが大阪府の春の全国交通安全運動の広報啓発モデルに起用されました。芸名をダジャレにしたキャッチコピー、大阪府警さんいいところに目をつけました。元タカラジェンヌだと知らない人がみたらこのために芸名をつけたと勘違いしてしまいそうなはまりぐあい。個性的なお洋服も奇抜な衣装も、なんでもござれの紅さん、婦人警官の制服もよくお似合いです。さすがの着こなし力。美しいです。紅さんの、マネキンよりも長い腕と美しく大きな手を生かしたポスター。大阪府だけといわず全国区でと思います。郷里近郊にもぜひこのポスター貼りだしてほしいなあ。

 昨日の朝駅までいく道のりでたぶん野良猫が交通事故にあってしまったのは夜になると真っ暗でなんにもみえない一帯、横断歩道は一応あるもののゆるやかなカーブと上り坂で車がとばしてきても直前まで気づきにくいのに信号ないし、渡る人は数えるほどもいないので高速道路みたいにガンガンとばしているのでほんとにあぶない。昨年の春ごろたまたまいた警察官にせめて押しボタン式信号つけてほしいと言ってみましたがなにもかわらず、よくここまで無事にきたなあと思います。ぞっとします、ほんとに。なんかね飛ばすことでストレス発散しているんだろうなと感じます。交通事故をうむのは人の心。いちばんこわいのは人の心。

「ゆずりあいの心で安全運転」。お互いに少しずつゆずりあったらもう少しやさしい社会にならないですかね。怒りと不満と憎しみとかもういい・・・。