たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

2000年東宝初演『エリザベート』プログラムより‐エルマー役今拓哉さん

2024年07月07日 11時09分37秒 | ミュージカル・舞台・映画

「とにかく芝居が大好きでこの世界へ。大学在学中に劇団四季に入団。10年間在籍して『キャッツ』『日曜はダメよ!』『李香蘭』などのミュージカルや『ハムレット』『エクウス』といったストレート・プレイに出演していた。退団後の活躍はミュージカルが中心だ。これまで演じた役はどれも大切な思い出で、「生みの苦しみを味わっていますから、皆、自分の子供のようなものです」と話す。『カンパニー』や『』FAME」では真摯な舞台を見せ、ミュージカル・ショウ『THE GUEST SHOW』ではコメディ・センスも感じさせた。98年に初参加の『レ・ミゼラブル』でモンパルナスとフイを演じ、昨年はアンジョルラス。革命に身を投じていく若者たちのリーダーを雄々しく演じて観客を魅了し、感動を誘った。素敵な歌声の持ち主でもある。『エリザベート』で演じるのも革命家。ハンガリー貴族のエルマー・バチャーニーだ。役作りのポイントは秘密。稽古を重ねるなかでどんどん膨らんでいく作品の魅力もとても言い尽くせない。「新しい作品、そして新しい革命家の誕生をどうぞお楽しみに!」と爽やかに一言。だが、内に秘めている思いはどこまでも熱い。」

 

 

 


ヒルティ『眠られぬ夜のために(第一部)』より‐5月1日~5月31日

2024年07月07日 08時18分57秒 | 本あれこれ

「5月1日

 神はその子らのために、試練のかまどをあまりにも熱くされることは決してない。まったくその反対に、すでに決定されたものから、いつもいくらか軽減される。他の人間たちもまた、彼らがなすべき以上に、髪の毛ひと筋ほども多くの害を、神の子らに加えることは許されない。」

 

「5月2日

 宗教的素質をもつ人びとがごく普通におちいりやすい愚かさの一つは、神になにかを「与え」ようと思ったり、彼らの「徳」によって神の気に入ろうとすることである。元来、われわれは、真実あるがままの神を決して知りうるものではない。単に、真実の神から遠くかけはなれた、きわめて人間的な、神の観念を持つにすぎない。おまけにこの観念でさえ言葉では表わしえないか、わずかに不完全な比喩で表現しようと努めるよりほかない。しかし次のことだけは、われわれも確かに知ることができる、すなわち、神はわれわれの思考や直観にくらべて、はかありがたく「偉大な主」であって、われわれが神に与える名称や比喩的表現をもってしてはただ神の偉大さを引き下げるにすぎないこと、また、神の眼から見れば、人間たちの「徳」のどんな差異も、全くあるかないかのほんのちいさなものにちがいないということである。神が喜ばれるのは、おそらく、神へのひたすらな憧れと、神に向って手をさしのべることだけであろう。そして最も神の気にいらないのは、満ち足りた、富める、ひとりよがりな人間である。これはちょうど、子供たちについても、生まれつきひとなつっこいので可愛いと思われる子供もあれば、どんなに「お行儀がよく」ても親しみを覚えない子供がいるのと、だいたい似ているであろう。

マタイによる福音書21の31、23の13ー15、イザヤ書55の8・9」

 

「5月3日

 ある事柄が義務であるかぎり、それをなすべきかどうかを、もはや問うてはならない。これを問うことが、すでに裏切りの始まりである。そして、義務を‐最も明白な義務をさえ‐果すまいとする理由づけは、つねに「きいちごのように安価」である。

 その最もいとうべき理由としてすでにキリストがきびしくしりぞけたのは、「信心ぶった」理由である。

 ルカによる副申書11の52、マタイによる福音書15の3ー8。

 神が大きな義務をわれわれにはっきりわからせないのは、意味のないことではない。それを果す力を持っていない人たちには、それを疑うという恵みが与えられるのである。」

 

「5月5日

「よい計画でも破滅への道が敷かれている」という格言は、大体において確かに適切な言葉である。だが、それはなぜであろうか。それは、単に人間が移り気なためや、われわれを四方から取り巻く反対勢力のためばかりではなく、実にしばしばわれわれのよい計画そのものが実際上遂行できないものであり、われわれの力や時間や外的事情に適しないものだからでもある。

 神の「導き」においては、事情は全く異なる。この場合には、その人がなしえないこと、時期に合わないこと、あるいはそれをなす力がまだ与えられていないことは、なに一つ要求されない。

 あなたが神の導きに身をゆだねるならば、いろいろと「計画」を立てることをさし控えるがよい。あなたを前進させるすべてのものが、きわめて明白な要求、あるいは機会という形をとって、つぎつぎに、しかも正しい順序で、あなたを訪ねてくるのである。これを、イスラエルのある預言者はいみじくも、「愛のひもに導かれる」(ホセア書11の4)と呼んだ。すなわち、幼児が手引きひもで歩かせられるように、導かれるのである。これは、人間の計画よりもはるかにまさっている。

 ホセア書11の4、ルカによる福音書1の6・78・79、ヨハネによる福音書1の51、3の27」

 

「5月6日

 ともすれば心に疑いをよび起す最大の誘惑の一つは、世の中においても、われわれ自分の内でも、およそ善が悪ほど眼につきやすくないこと、悪の方がなんといってもすっとのさばっていることである。だから、人びとは全く正しい道にありながら、自分の内的進歩を半ば疑ったり、または神の正義の堂々たる歩みは、歴史の上からも自分の人生経験からも、眼の前に明らかでなければならないのに、なおもそれを疑うことになる。

 われわれはかなり長い間、自分が内的にいっこうに進歩しないように思われることがしばしばある。ところが、そういう場合に、いつの間にか自分が前とは全く別人になっているのに気づく日が突然やってくるものだ。エゼキエル書11の19、36の25ー27、エレミヤ書24の6・7。」

 

「5月7日

 人間の内的進歩も、もちろん全く段階的に行われるものであって、まれなあ天才的素質の人は別として、めざましく急速な進歩をとげることはない。むしろわれわれは、自分自身に対して辛抱づよくあることを学ばねばならない。自分のことばかり考えたり、知らず知らずのうちにあらゆる事を自分の快楽や満足の尺度ではかったりするのを、ごく自然に、特に努力せずとも断念できるようになり、むしろ自分をただ偉大な理念の召使と考えるようになったら、その人はすでに確実な頂きに達したといえる。聖書は、これを「神のしもべ」と呼んでいる。

イザヤ書49の1-6、50の4-9。」

 

「5月9日

 人生の途上でたびたび出会う最も不愉快なものの一つは、嫉妬である。これは、耐えしのぶよりほかはない。妬む人たちの心は、なかなかなだめられないからだ。しかし、われわれはたゆみない着実な活動によって、静かにこれに対抗することはできる。多分ゲーテから出たと思われる。いささかどぎつい諺が、このことをつぎのように言っている。

  ひとの妬みをうち砕きたければ

  バカなお洒落をやめたまえ

    (ゲーテ『おだやかな風刺詩』)

 しかしまた、われわれは自分の長所や所有物などをわざと見せびらかして、他人の嫉妬心を刺激しないように慎まなければならない。そういうことをすると、隣人の心を大いに傷つけるきっかけをつくり、ひいては「腹立ち」の呪いを受けることになる。とりわけ、女性はこの点で過ちをおかすことが多い。なぜなら、彼女たちは婚約者、良人、子供たち、装身具、楽しい家庭生活など、これらを全く持たない人たちの前で見せびらかしたがるからである。これは女性の性格の最もみにくい面の一つである。」

 

「5月11日

 すでにローマの哲学者ポエティウスは彼の有名な論文『哲学の慰め』(562年)のなかで、人間は神の生命にあずかることによってのみ真に幸福になりうる、と論じている。それ以来ほぼ千五百年を経たが、だれにおっても、この事情は全く変りがない。

 その点で、とくにありがたいことは、神は人間のように、欺かれないということである。だから、ただ形式的に神に近づいただけで暗い心に陽(ひ)の光を呼び入れることはできない。なおまた、宗教的熱狂や興奮によってもこの目的を達することはできない。神のそば近くにあることは、それらとはまるで別なことで、むしろ独特な、静かで、平和に満ちた感情である。

 出エジプト記34の6、列王記上19の12。」

 

「5月15日

 人との交わりにおいて、もっとも有害なものは、虚栄心である。だれでも、最も単純な人ですら、相手の虚栄心をかぎつける正確な本能を持っている。彼らは相手の虚栄心を認めない場合にのみ、よろこんで信服するのである。

 虚栄心はつねに見すかされる。その上、他の悪徳はまだしも讃美者を見出すのに、虚栄心ばかりはだれの気にもいらない。従って、虚栄心は決してその目的を達しえないのだから、悪徳のなかでも一番ばかばかしいものである。」

 

「5月16日

 人との交際において最も気持のよい、最も有効なものは、落着いた、いつも変わらぬ友愛である。ごく幼い子供でさえ、それどころか、あらゆる動物でさえ、そのような友愛には敏感であって、とくに、相手の親しみがたまさかの気紛れか、ただその場かりぎの動機から出たものか、それとも永続的な性質のものか、それすら見分けることができる。」

 

「5月18日

 大きな内的進歩がなされる前には、つねに絶望への誘惑が先立ち、大きな苦難が訪れる前には、非常な内的喜びと力の感じが与えられるものだ。つまり、神はこれによってわれわれをその苦難に堪えうるほどに強めようとされるのである。私はすばらしい成功をおさめる前ほど不幸だったことはなく、また最も困難な出来事に出会う前ほど、喜ばしい、力づよい気分にみたされたことはなかった。

 もしあなたが憂鬱であったり、不安であったり、そのほか不機嫌なときには、すぐ真面目な仕事にとりかかりなさい。もしそれができにくいならば、だれかに(福音書のいわゆる「隣人」に)小さな喜びを贈りなさい。これなら、いつでもできるはずだ。この方が、普通みんながするように、なにか享楽や気晴らしでもって、陰気な霊を追い払おうとするよりもはるかに有効である。そんなごまかしをしても、この霊はすぐにまた戻ってくるものであるから。

 他人の場合でも、仰々しい訓練や説得を加えるよりも、ちょっとした贈物でもしてやる方が、かえって陰気な霊をたやすく追い払うことができる。」

 

「5月19日

 「高い尊敬」を受けることは、しばしば自己改善の道の妨げとなる。」

 

「5月20日

 われわれの内部で本当に起ることは、すべて事実であって、われわれの単なる観念ではない。今まで存在しなかったものが、まさに生起するのである。このような出来事を導く道は、それが起るであろうという確信である。「あなたがたの信仰どおり、あなたがたの身に成るであろう」(マタイにりょう福音書9の29)。信じることの多い人は、多く与えられるであろう。

 すべての苦難は、それがのちに現実となった時よりも、その前に想像された時の方が、よほど困難に思われる。キリストでさえ、彼が祭司長やローマの法官の前に出た時よりも、いやおそらく十字架につけられた時よりも、捕えられる前にゲツセマネで祈った時の方が、多くの苦しみを感じたのである。もしキリストが尻ごみし、譲歩と屈服をする可能性があったとすれば、それはおそらくゲツセマネにおいて起ったであろう。」

 

「5月21日

 まことの聖心とは、神のみこころをつねに喜んで、気がるに、それどころか、さながら自明のことのように行い、また耐え忍ぶことである。その他の聖心はすべて本物ではない。

 信仰にとって都合の悪いことは(それとも、よいことかもしれないが)、最も力づよい信仰体験は全くひとに語ることができないこと、あるいは、それを語ったとしても、他人にはつまらないもの、信じがたいものと思われることである。」

 

「5月22日

 フリード・ニーチェが『漂白者とその影』のなかで、富者と無産者という人間の二つの階級は絶滅されねばならないといっている。これは、彼一流の奇矯な言い方であまりに過激な言葉ではあるが、しかし真にその目的に完全にかなった国家(今のところそれはまだ「理想国」にすぎない)にとっては、間違った考えではない。今日では、この二つの階級に生まれることは不幸だと、平静に主張してよろしい。これらの階級は、どちらも各個人の道徳的、精神的発達を妨げ、その結果、彼らは、社会全体にとっても、当然あるべき通りの有用な人間になっていないのである。それにもかかわらず、奇妙なことに、富者にとって富は桎梏(しっこく)であるからには当然それからのがれようと決心したり、あるいは彼らがみずからその富を管理しようと思えば、少なくとも自分の生存中に、せめてその富をなるべく正しく使用しようと決心できるはずなのに、そのような富者はほとんどいない。まさに富は、彼らをとりこにしておく力である。

 同胞教会讃美歌372番、374番。

 富と祝福とは全く異なった二つのものであって、祝福の宿らない富はあまり価値のないものである。祝福は、それを得ようと努めても手に入れることができない。それは一つの神秘的な力であり、賜物である。また、祝福は特にある個人に、その一つの特質のように、いたるところに付きしたがい、なお、その人に好意を示したり親切を施したりする人たちにまで、その力が及ぶものである。だから、賢明な者ならば、つねにそのような祝福ある人と関係を結ぼうと努め、反対に祝福の宿らぬ人をできるだけ避けようとするだろう。

 創世記27の27-29、民数記23の19-22、ヨブ記42の7ー9

、列王記下4の8ー10、マタイによる福音書10の13-15。」

 

「5月23日

 愛は、他のいかなるものにもまして、人を賢明にする。ただ愛のみがよく、人びとの本質と事物の実相とについての洞察を、また人びとを助けるための最も正しい道と手段とについての本当の透徹した洞察力を与えてくれる。

 だからわれわれは、あの事この事について、なにが最も賢い処置であるかを問うかわりに、なにが最も愛の深い仕方であるかを問う方が、たいていの場合、たしかに良策である。というのは、後者の方が前者よりもはるかに分り易いからである。なにが愛の深い仕方であるかについては、才分の乏しい者でも、自分を欺こうとしないかぎり、そうたやすく錯覚に陥ることはない。ところが、最も才能豊かな人でも、ただ賢さだけでは、将来のあらゆる出来事を正しく予見し、判断することはできない。」

 

「5月28日

 「魂の底にふれることなく、ただ良心をなだめるためにのみ存在する、外面的な、わざとらしい宗教を持つよりも、全く宗教など持たない方が、おそらくましであろう。」これはフランス革命時代の言葉であるが、これと同じ意味のことを、すでにキリストがこの上なく痛烈な言葉で語っている。マタイによる福音書21の31。

 単に外面的な信仰だけを抱いてすっかり自己満足をしている人たちは、今日でも、不信者よりもキリスト教の大きな障害である。実際、不信者のなかには、真理を渇望している人がきわめて多い。彼らはただ、かつて歴史的にこの(キリスト教の)真理がたしかに盛られていたその容器(いれもの・教会的形式)とか、その担い手たちを恐れて、これに近づきえないのである。

 それにもかかわらず、さらによく考えれば、上の言葉はすべて、ただ個人についてのみあてはまることだと、いわねばなるまい。概していえば、一般大衆にとっては、たとえ表面的なキリスト教の存在と実践であっても(実際、現在キリスト教はおしなべてそうであり、また過去千九百年の間たいていそうであった)、もしそれがなかったならその代りに現われたであろう他のものに比べれば、やはりまだしもましである。この点についても、フランス革命は一つの明らかな実例をのこしている。

 個々の人にとっては、力づよい内的革命が最上の方法である場合がきわめて多い。古い着物に新しい補布(つぎ)をあてても仕方がない。これに反して、社会全体として考えれば、過去との完全な断絶によってよりも、漸進的改革による方が、つねに事がはこびやすいであろう。キリスト自身もその当時、あのような断絶の避けがたいことを嘆いている。もっとも、この断絶がいつかは癒されるだろうという希望はすてなかったが。マタイによる福音書23の37‐39。

 この個人的革命か社会的革命かという一見明らかな二律背反と思われることも、次のような事実によって解消する。すなわち、実際には、社会全体がすぐさま改革されるわけではなく、各個人が、その時代に一般に認められている真理よりもすぐれた真理を、まず自分の内に明らかに感じ取り、それから、これを教えと実践とで個人的に表明することによって、つねに全体の改革が推進されるのである。

 イザヤ書46の11,49の1-3、エレミヤ書1の5‐10・17‐19、15の19‐21、マタイによる福音書12の18‐21。」

 

「5月31日

 われわれは喜びよりもかえって苦しみを愛し、ついには喜びを恐れることを学ぶような境地にまで達することができる。ここまでくれば、人生の最大の困難はすでに終ったのである。

 われわれが苦しみをただできるだけ早くとり除こうとしたり、あるいは全く受身に、ストア主義的にできるだけ無感覚な態度で、これを堪え忍ぼうとしたたりするのは、いずれにせよ、正しい態度ではない。むしろ苦悩を、種まきの時期として利用しなければならない。そうすれば祝福の穀物が実りうるのである。しかもこの種まきの時期は、一旦過ぎさると、そうたやすく、同じ形で戻ってくるものではない。

 神の最大の恵みの一つは、ある大きな善い仕事の勝利がほぼ戦いとられたときに、はじめてその仕事の主な困難さが認められるということである。さもなければ、戦いをはじめる勇気を、だれも持ちえないであろう。」

 

(ヒルティ著 平間平作・大和邦太郎訳『眠られぬ夜のために(第一部)』岩波文

庫、141~167頁より)

 

 

 


母が亡くなった翌年-2013年5月

2024年07月06日 11時53分00秒 | 祈り

「2013年5月12日(日)

朝方冷えるし、毎日10時間ぐらい働いているしでへばっている。あんまり眠れていない。肝心のセミナーで眠気がきてしまって・・・。でも勉強になった。私がPSWの研修に行って感じた違和感の正体-当事者の声がちゃんと届いていない、きこえていない、っていうことなのかな。せまい世界の中だけでやっていて、広い世界に目が向いていない。横のつながりに視線が届いていない。

私の個人史を社会に還元していくためにブログを始めようと思う。母と妹のことがなければ出会うことのなかった数々の出会い。2人が教えてくれたことを発信していこうと思う。

私のすごい所は目をそらさないで一生懸命向き合おうとしてきたこと、そういう真面目人間に育ててくれたんだよ、お母ちゃん。今日は母の日。心を病むことの深さを教えてくれました。今は感謝です。憎んだ分だけ今は感謝です。

今日のフォーウィンズのシンポジウムでようやくW先生とまたお話もできて気持ちが整理できてきた。断捨離しながら新しく踏み出していこうと思う。」

 

「2013年5月18日(土)

 昨日はようやく国立西洋美術館のラファエロ展へ。(久しぶりの有給休暇)、今日はアンセミナー22章。それぞれに心豊かな時間を過ごせるが連日の上京はきつい。疲れがきてるなあ。

ブログのタイトルをなかなか決められないでいる。色々ともう出尽くしている感があるし、考え過ぎてしまっている。重いことを書こうとしているがタイトルは自分自身も重くならないような入りやすいものがいい。著作権のこともあるし、個人情報保護法のこともあるし、守秘義務もあるし、なにかと注意しなければならないことが多くて難しい。ぼちぼちいこう。

さっき思いついた「青空と緑の風の中で思うこと」、ウーン、ダメかなあ・・・。「青空を見上げて思うこと」「青空パレット」、ウーン、どうだろう。いざとなると決まらない。最初のページは赤毛のアン最終章からの引用。松本先生の了承をいただかなければ。

W先生が励ましてくださった。個人史を還元していこう。私は母を憎んだ。ちゃんと憎むこと、それも大事なことだとおっしゃった。憎んだ時間があるから今がある。心を病むことの深さを教えられた。結果的にそれは母との最後の出会いとなった。私がこうして今自分の足でちゃんと立っていること、それはお母さんがそういうふうに育ててくれたからだよ。伝えたい今はもうこの世にはいない。天に向かって伝えたいと思う。」

 

「2013年5月25日(土)

ようやくブログを立ち上げた。書き切るまでは死ねない、って大げさかな。布団に入る時よく眠れないとつらいけどこのまま目がさめなくてもこわいな、なんて考えてしまうこの頃。

毎日9時間ぐらい働いて5時間ちょっとの睡眠でよくもっているよなあ。少し前まで布団に入るのが2時の生活。もうありえないような。1時ぐらいには布団に入るようにしている。それでも朝5時ぐらいに必ず目がさめる。眠りの時間帯をずらすしかないか、なかなか難しいなあ。

発信の引き出しはたくさんある。あとは自分にどこまでそのエネルギーがあるかにかかっていると思う。発信しなければならない。その役割が自分にはあると思う。」

 

「2013年5月26日(月)

新演出版『レ・ミゼラブル』を観た。すごかった。完成度の高い、熱い舞台だった。役者さんたちが自分の役を愛していることが伝わってくる舞台だったあ。映像技術とよりわかりやすくなった展開で、より真っ直ぐにせつなく、それぞれの生き方が伝わってきて、涙、涙・・・。

フォンテーヌの夢やぶれて、エポニーヌの伝わらぬ思い、バルジャンの司教に救われて新たに生き直していこうとする場面、マリウスの無事を神に祈る場面、闘いに敗れて散っていった革命家と学生たちがマリウスの前に現れて灯りをともしやがて去っていくカフェソングの場面、バルジャンが天に召されていこうとしている、エポニーヌとフォンテーヌが迎えにきてフォンテーヌはわが子コゼットが美しく成長して愛するマリウスと寄り添う姿を見守っている、愛してやまなかった我が子の幸せになっていくその様子をちゃんと見届けているのだ。バルジャンの手紙を読むマリウスとコゼット、二人を先に逝った人々が民衆の歌と共に包み込む。その構図と光の入り方、歌、素晴らしかった。清史郎君のガブローシュ、元気いっぱいで歌は上手だし可愛かった。グランデールとの親子のような、仲間のような心の通い合いもほほえましかった。最後は討たれてしまう。その場面はシンプルになったが余韻は強く残る。バルジャン、フォンテーヌ、エポニーヌ、アンジョラス、学生たち、彼らの思いはマリウスとコゼットに受け継がれ、明日への希望となっていく。希望がなければこんなに長く続く舞台にはならなかっただろう。25年前に観た時は意味がわかっていなかった。よりわかりやすくなって、熱くなって、アンサンブルの完成度も高くて、ここまで創り上げるのは大変な作業だっただろう。よくできている。すごいなあ。演出は変わっても、底に流れる歌の力は変わらない。エリザベートもそうだが、日本語へののせ方もうまい。もう一回観たくなってしまう。キャストの変更などゴタゴタしたけれど、全てをふき飛ばす完成度の高さだった。キャストのみなさんが無事に千穐楽まで完走されることを祈りたいと思います。」

 


【小林製薬】紅麹問題から感じる違和感!5人死亡のうち1人はサプリ摂取していなかった!厚労省はワクチンとの対応が違いすぎる!

2024年07月05日 17時19分35秒 | 気になるニュースあれこれ

2024年7月3日則武謙太郎さん、

【小林製薬】紅麹問題から感じる違和感!5人死亡のうち1人はサプリ摂取していなかった!厚労省は〇〇〇〇との対応が違いすぎる!【心理カウンセラー則武謙太郎】 (youtube.com)

 

7月1日予防接種健康被害救済制度により、4名があらたに死亡認定され、コロナワクチン接種後の死亡認定は合計672名となったそうです。国をあげての異常な小林製薬叩きはコロナワクチンによる健康被害を隠すためのスケープゴートでしょうか。

Xユーザーの藤江@日本人、謎の大量死※コロナでは説明できないさん: 「最新情報 本日(7/1)厚生労働省公表 予防接種健康被害救済制度 ・新型コロナワクチン 25件認定(うち死亡4名認定) ・新型コロナワクチン以外 6件認定(死亡なし) 紅麹サプリと違って、なぜこちらは報道されないのでしょうか?新型コロナワクチンによる空前絶後の健康被害が起きています。 https://t.co/IESUfUJIYL」 / X


第五章岐路に立たされる女性-①女性のテーマは「自分さがし」

2024年07月05日 11時54分13秒 | 卒業論文

   日本型企業社会の中で、新卒の男性はこれまで「就職」ではなく、会社組織に「就社」してきた。[i] 就職するに際し、十分な知識も準備もないまま、そして就職したあとどういう仕事をするのかもよくわからないまま、ともかくどこかの会社に入ればよかった。会社に入れば、ローテーションによって異動を繰り返し、様々な業務を経験しながら管理職に向かっていく。こうした会社本位主義的なシステムは崩壊しつつあるが、これまでは、男性であれば、係長になって、課長になって、ここら辺の地位まであがりたい、こういう仕事をしたいと出世の各段階で先を読むことができた。男性には仕事が自己実現のようなところがある。[ii]

   男性に対して、昇進・昇格の道が閉ざされてきた女性の場合、先のプログラムを作ることはなかなか困難である。考えられるとしても、だいたいは結婚までのプログラムである。筆者自身、高校卒業後、銀行に入行した時(1981年)、数年したら当然結婚退職するものだと思っていた。23・4歳は当時の適齢期であった。結婚が女の花道であり、他の、見本となるような生き方をしている「普通の」女性が身近にはいなかった。1970年代から80年代にかけて20代を過ごした松永真理は、こう述懐している。視界のなかには、多数の「ああはなりたくない」サンプルか、立派すぎて「ああはなれない」少数のサンプルのどちらか一方だった。自分の望む「ふつうのいいもの」は、ひとつもなかった、と。[iii] ここでは、筆者が均等法施行前に就職した世代であることから、プレ均等法世代を念頭におきながら、女性が人生80年のライフサイクルを描くことが困難であることを考察したい。

 日本型企業社会は、女性には持てる能力を社会ではなく、家庭のなかで発揮するよう期待してきた。そのように育てられ、均等法施行前に就職した世代の女性は、特に昔ながらの社会的通念、「女は子供を産んで一人前」「家事・子育ては女の仕事」が潜在化しており、自分の将来を一般主婦にしかおくことができなかった。そして、一般主婦として描くことができるプログラムはだいたい次のようなものである。学校を卒業後は、とりあえずどこかの一般企業に入り、OLをする。仕事は9時から5時まで。責任はないからラクといえばラクである。アフターファイブは、お茶にお華、英会話に通ってもっぱら自分を磨く。靴はいつもピカピカにブラシをかけ、爪には毎日マニキュアを施し、24歳でほどよく婚約、25歳で結婚。27歳で第一子、30歳で第二子を産み終えると、35歳からは第二の人生をスタートさせる。よく聞かれたのは、「結婚したら行けなくなるから今のうちに外国へ行っておく」「結婚したら遊べなくなるから今のうちにいっぱい遊んでおく」といった言葉である。女性の人生は結婚相手次第という「あなた任せのプログラム」は、結婚する人によってどんな人生を送るかわからない、結婚しても子供が何人できるかわからないし、どれくらいの収入があって、どういう家に住んで、といった不確定要素がいっぱいで、人生80年のライフサイクルで、プログラムを描くことなどできなかったのである。

 しかし、先述したように80年代を境に女性の生き方は変わってきた。今や女性の前には、様々な選択の道が用意されている。教育も、結婚年齢も、仕事も自分で選ぶことができるのである。仕事一筋の男性と違っていろいろな生き方の選択肢があるためにかえって、生き方について悩む率が高い。今の女性にとって、大きな悩みや不安があるわけではないけれど何か物足りない、何か打ち込めるものを探したいという、「自分さがし」は大きな関心事となっている。女性誌には、女性の生き方に関するテーマがたびたび取り上げられる。例えば、「あなたが選ぶ生き方-わたし行きの切符を探せ!」[iv]、「恋、仕事、人生・・・そうだ!自分リセットして出直そう」[v]、「転職、別れ、結婚、出産・・・人生は迷いと選択の繰り返し-決断して始める新しい私」[vi]等、このままではいけない、自分は何がしたいのか、何ができるのか、自分らしい何かを見つけなければいけない。これらのテーマは、「自分さがし」へと女性を誘う。留学、転職、キャリア・アップ等のキーワードは、今の自分には足りないものがあると感じさせ、否が応でもそれまでの過去を全部捨ててリセットしなければいけないかのように女性を惑わせる。

 ここで、 松原惇子の『クロワッサン症候群』の記述に沿って、80年代の女性の生き方の変化と女性誌の影響について触れたい。1970年代から80年代にかけて「女性雑誌の時代」と呼ばれるほど日本では女性雑誌が隆盛した。70年代はじめに若い女性向けのファッション雑誌が次々と登場し、続いて70年代後半には、「大人の女」向けの雑誌が続々と創刊され、「自立」「キャリア・ウーマン」といった流行語を生んでいった。「大人の女」向けの雑誌が推進したのは、職業をも視野に入れた「ライフスタイルの自由な選択」とでもいうべきもので、カラフルなグラビアと「素敵」「新しい」「おしゃれ」などのコピーを伴いつつ、多様な女性の生き方を読者に紹介したのである。60年代にアメリカで始まったウーマンリブ運動が70年代の後半に日本でも定着しつつあった。日本の女性に自立ブームが起こった。この流れを大衆規模に拡大したのが女性誌である。女性誌は一斉に叫びだした。自立している女こそ、素敵な女なのよ、女よ!もっと自由に!結婚という枠にとらわれずに生きようよ!知的な女は飛ぶのを怖がってはいけないわ!それまで女性が社会的にスポットライトを浴びた時代はなかった。雑誌が提案した「女性の新しい生き方」、「結婚以外の生き方」に当時の迷う若い女性たちは飛びつき、松原が「クロワッサン症候群」と名づけた中途半端な独身女性を生み出した。

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引用文献

[i] 奥村宏「揺らぐ日本型就職システム」内橋克人・奥村宏・佐高信『就職・就社の構造』34頁、岩波書店、1994年。

[ii] 鴨下一郎『女性がストレスとつきあう本』180頁、大和書房、1996年。b

[iii] 松永真理『なぜ仕事するの?』5頁、角川文庫、2000年(原著は1994年刊)。

[iv] 『OZマガジン1999年SPRING号あなたが選ぶ生き方』、スターツ出版、1999年。

[v] 『コスモポリタン2001年11月号』、集英社、2001年。

[vi] 『日経ウーマン 2003年3月号』日経ホーム出版社、2003年。

 


第五章岐路に立たされる女性

2024年07月04日 17時25分49秒 | 卒業論文

 今や女性の生き方の選択肢は大きく広がった。86年の均等法施行が節目であると考えられる。それまでにも、働く女性はたくさんいた。しかし、働いているといっても大半の女性は結婚までの腰かけで企業に就職したにすぎず、女性たちの真の目的は「永久就職」つまり、「家庭におさまる」ことであった。それまで、女性の幸せといえば、親の決めた相手と結婚するか、会社で知り合った男性と結婚し寿退社するか、というような社会通念が一般的であった。それが、一挙に崩れていったのである。

『Yomiuri Weekly』2003年6月15日号に、40歳前後を迎えた均等法第一世代を取材した記事が掲載されている。その記事は、均等法施行から17年間の流れを次のように振り返っている。「女性の幸せは結婚にある」との社会通念が崩れた。バブルと円高がこの流れを加速させた。企業は女性を雇用する余力がつき、新規事業には女性が有力な戦力になった。一方で、円高のおかげで女性の海外旅行や海外留学のブームが到来。女性の行動範囲や視野が広がっていき、海外勤務を希望する女性も急増した。企業も海外に女性をどんどん送り出していった。仕事や経済力を手に入れた女性は多様な生き方も手に入れた。DINKS、バツイチ、シングルマザー、ダブル不倫、子連れ再婚、海外放浪、海外就職、子育て後の再就職・・・などなど、新しいキーワードが次々と出現していった。[i]  

第三章で見たように均等法は、即座に性別役割分業の消滅をもたらすようなものではなかった、片手落ちの法律であったが、女性の社会進出を促進したことにはちがいない。社会進出を促進したばかりでなく、女性の生き方をも大きく変えるものだったといえるだろう。しかし、選択肢が広がった分だけストレスを抱え込む機会も増えた。このままでいいのだろうか、本当の幸せってなに?と常に自問自答し続けている。第四章で記したように、OLを取り巻く環境は厳しさを増している。「ちょっとしたプライドを捨てればOLっていい職業」[ii]ではなくなってきている。先行きが不透明な今、働き方も生き方も自己責任が問われ、主体的な選択が求められる時代になったのである。コインに裏表があるように、好景気には高収入と働き過ぎが、景気低迷には時間と少ないお金があり、多様化には選ぶ自由と自己責任が、幸せには手に入れる努力と楽しみが伴う。

 こうした流れの中で女性初の何かになったというニュースになるような特別な人ではない、テレビや雑誌に紹介されるようなキャリア組ではない、「普通の」OLをしている女性にとっての真の自立、「自分さがし」と生活をしなければならないこととのバランス、さらには幸福感について触れていきたいと思う。

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引用文献

[i] 『Yomiuri Weekly 2003年6月15日号』15頁、読売新聞社、2003年。

[ii]  松原惇子『OL定年物語』15頁、PHP研究所、1994年。

 


都民の皆さま、とにかく投票にいってほしい

2024年07月04日 11時05分11秒 | 気になるニュースあれこれ

 都民の皆さま、選択肢のない地獄のような選挙でもとにかく投票にいってください。8年前、小池さん62歳、ハチマキ巻いて自民党批判していたはずなのに権力を手にしたらかわってしまいました。国政も都政も腐りすぎ。こんなことがまた4年間続いていいはずありません。

 

(14) 🔈緊急トークライブ「ここが変だよ東京都政」(2024年6月28日) - YouTube

 

「東京都は土地をすごい勢いで三井不動産に差し出している」 小池都政の「三井ファースト」に疑問の声(全文) | デイリー新潮 (dailyshincho.jp)

 

XユーザーのタロスRさん: 「東京都の皆さん 知事を選ぶときはしっかりと考えて選びましょうね 石川県民のワイの周りではみんな後悔しています 能登半島地震を経験して知事選の大切さを改めて実感しました」 / X

 

 


『モネ連作の情景』上野の森美術館-ヴェンティミーリアの眺め

2024年07月04日 00時09分30秒 | 美術館めぐり

『モネ連作の情景』上野の森美術館-睡蓮の池

 

クロード・モネ

《ヴェンティミーリアの眺め》

1884年、ボルディゲラ

グラスゴー・ライフ・ミュージアム(グラスゴー市議会委託)

 

(画像は『モネ連作の情景』公式ツィッターより)


三好春樹『関係障害論』より-オムツ体験をしてみると

2024年07月03日 16時42分56秒 | 本あれこれ

三好春樹『関係障害論』より‐「オムツになってしまったKさん」

「これが、どうしてかというのは、大変不思議だったのです。学校で習った解剖生理学では説明がつかないのです。だって、神経系統は障害を受けてないのに、感覚がなくなるのですよ。ですから、老人のオムツの原因とされる神経因性膀胱障害、神経が原因で膀胱障害を起こしているという言い方は全く当てはまらないです。神経因性ということはないわけです。神経は少しは鈍くなっているでしょう。だけど尿意はなくなっていません。

 尿に切迫感があって、これが何かという識別能力が落ちているということはもちろんあるでしょう。だから間違ったということはあるけれども、その程度のことであって、完全に感覚がなくなってしまったり、まして皮膚感覚がなくなってしまったということは考えられません。

 一時、老人介護の世界でオムツ体験というのが流行ったことがあります。自分でオムツを当てて、有機のある人はおしっこを出してみるということをやります。勇気のない方は塩水か何かでもいいのです。

 私も宿直の夜やりました。当時は紙おむつなどはありませんから、布おむつでした。布オムツをいっぱいもってきまして、それを付けてオムツカバーをビシッとはめて絶対洩れないようにして、老人と同じようにベッドの上に寝て出してみようと思いました。出ませんね。あれをすっと出せる人は、ちょっと常識のない人です。よっぽどルーズなしつけを受けた人ですね。

 ぼくたちは、お漏らしはだめよ、トイレに行っておしっこしなさいという教育を受けているじゃないですか。それを打ち破らなければいけないわけですから、すごく勇気がいります。心理的にも大変なことだけど、漏れるのではないかとか、シーツやマットを汚して不潔にしてはいけないという感覚がものすごくありますから、出なかったです。

 それで、男だから立ってやってみようとしましたが、これも絶対漏れるはずはないのに、ツーツーと腿の内側あたりから漏れそうでやっぱりダメでした。それでどうしたかというと、オツムを付けたままトイレにしゃがんで、それでやっと出しました。そして、しばらくこのまま仕事をしてみようと、夜勤の寮母さんに付き合ってナースコールに出ていったり、廊下をウロウロしてみました。」

 

(三好春樹『関係障害論』1997年4月7日初版第1刷発行、2001年5月1日初版第6刷発行、㈱雲母書房、37-39頁より)

 

 

 

 

 

 

 


舞台『未来少年コナン』-2024年6月15日

2024年07月03日 00時00分28秒 | ミュージカル・舞台・映画

舞台『未来少年コナン』-2024年6月1日

 加藤清史郎君主演『未来少年コナン』、6月30日梅田芸術劇場シアタードラマシティにて無事大千穐楽を迎えました。全28公演、役者さんたちの体の負担を考えると長くはやれません。怪我も事故も病気もなく完走できたことに心から安堵しています。役者さんたちの身体と演奏家のみなさまによる効果音&音楽を通して届けられるメッセージ。デジタルが進み生の感覚がどんどん希薄になってきている今こそ求められる作品で生の舞台でしか味わうことのできない世界観。原作は1978年に世に送り出されたものですが今のために書かれたものかと思うような内容。残念ながら日本はこの頃よりもさらに悪くなっているし、今現在悪化の速度は急速に増しています。一人でも多くの大人に観てほしいと思いました。チケット代が安くはなく売れ行きが厳しい状況でしたが東京の千穐楽は立見席も完売となり、大阪4公演満席だったようで感無量。

 ジャンバルジャン𠮷原光夫さんがこの作品を、清史郎君をほめまくってくれています。超人的なコナンをどうやって舞台化するんだバカヤローと思っていたら素晴らしかった、イケメン青年に成長してガブローシュのときの清史郎君はもういないと。成河さんのことも、そして門脇麦さんがどう素晴らしいかということも。なるほど。

ミュージカル?「未来少年コナン」の魅力よ… | 吉原光夫「吉原光夫の夜間飛行」/ Voicy - 音声プラットフォーム

 

『ニュージーズ』で共演したゆうみちゃん(咲妃みゆさん)も観劇して清史郎君の楽屋前写真をインスタストーリーにあげてくれていました。コナンの心根がまさに清史郎君そのものとほめてくれていました。自分のことのように嬉しいかぎり。ゆん(古川雄大さん)はインスタに、素晴らしいです、とだけ。ゆんらしくてそれもまた嬉し。

 わたしは東京芸術劇場の前楽をなんとか無事に観劇することができました。2階ベンチシート、足腰と両隣との関係はきびしい席でした。3日ほどかなり体がこたえていましたが舞台全体をみながら作品世界を感じることができてよかったです。プロローグでダンサーたちの身体をとおして地球に地殻の大変動が起きたことを表現、テーブルが割れたのは人類が滅亡したということ、エピローグのダイス船長とモンスリーの結婚式でそのテーブルが再びくっついて白いテーブルクロスがかけられて大団円、ということなのだとわかりました。二週間の間に身体表現の力が清史郎君も成河さんもぐっとあがり、コナンがラナを回すところと背負うところが長くなっていました。

 東京公演の終盤、ロビーにアニメ原画をスキャンしたものが展示されました。舞台化されたコナンとジムシーが出会う場面、コナンがラナを抱いて飛び降りて地上に着地するとぎくっと足腰固まってしまう場面など、アニメに忠実に再現されたことがよくわかりました。

原画、美しいですね。貴重な日本文化。守られていかなければなりません。

Xユーザーの叶 精二(Seiji Kanoh)さん: 「本日 東京公演千秋楽の舞台『#未来少年コナン』。 https://t.co/iKwqwIWSni パンフレットにテレビシリーズの解説を寄稿させて頂きました。先日の公演観覧後、ロビー展示用に「第3話 はじめての仲間」「第6話 ダイスの反逆」の https://t.co/31B1yLMT4f」 / X

 

相変わらず池袋駅内を迷子になりながらも早めに着くことができたので劇場となりのカフェへ。コラボメニューの飲み物とサンドイッチを頼むつもりで入りましたがサンドイッチと小さいスープがセットになっていて1,200円。諦めました。お店の人から変に見えていたかもしれませんがコラボメニューは写真のみ。生ハムサンドイッチはおいしく、店内は広めで一人用の席もあり店員さんは素顔。わたしには十分すぎる贅沢でした。

地殻の大変動が起こったエピローグから清史郎君コナンがサメをやっつける水中シーン。海を表現する幕は海外から取り寄せたシルクとのこと。ワイヤーでつられ、ダンサーさんたちに助けられながらの清史郎君の動きが2階席から全体をみると頭のてっぺんから足の指先まで流れるように美しく綺麗な場合。サメ役のダンサーさんの動きも綺麗でした。やっつけたサメを背負って登場する清史郎君、足の指先までコナンそのものです。

清史郎君コナンと成河さんジムシーの出会い。幕が上がるとジムシーはさかさまでスタンバイ。ルキーニの時にはわからなかった驚愕の身体能力。清史郎君と親子ほど年齢差があることを全く感じさせない軽やかさはジムシーそのもの。足がくるくると回るところをダンサーさん二人に小道具を持たせることで表現、二人の身体能力の高さでアニメどおりに本当にくるくると駆けているようにみえました。熱帯植物がゴムで作られているのかな。いい動きでした。トカゲ役のダンサーさんがノリノリ、2週間はこんなに踊っていましたっけ?全てが絶妙にバランスとれていて、笑いをさそいながらも二人の友情のあったかさに心があつくなる場面。さらに素晴らしい仕上りになっていました。

清史郎君コナンと優佳ちゃんラナの息が合っていたのもよかったです。トップスターとトップ娘役みたい。大人たちに対してきれいな瞳で前を見つめる子ども二人、二人の瞳がキラキラと輝いていないと作品世界が根底から崩れてしまうのでいいキャスティングだっと思います。ひたむきな感じがよくでていて心あらわれるような思いがでした。鳥の話し声がわかるラナ。歌声も澄んでいて素敵でした。クライマックスの緯度の数字、長いですが並びを台本どおりに覚えているのだとしたらすごすぎます。

出会いの場面でなぜかタンゴを踊る宮尾俊太郎さんダイス船長とモンスリー門脇麦さん。リフトさすがです。ダイス船長は一手に笑いをひきうけていて、緊張感が続く作品のなかで気持ちをほぐしてくれました。酔いどれガンボート、楽しい場面でした。

門脇麦さん、ものすごく歌がうまいわけではないですが、コナンと出会ったことで子どものころ津波におそわれた過去を思い出していく過程をとても丁寧に描かれていました。またみたいと思わせる素敵な女優さん。

レプカ今井朋彦さん、存在感と説得力が半端ない。歌もありましたがものすごく上手いというわけではないのに作品の流れのなかでこの歌声でしかないと思わせる説得力。

おじいとラオ博士を演じ分けた椎名桔平さん、日本がまだ上向きだった時代のトレンディ俳優。ほぼほぼ同世代。渋く素敵なイケオジになっていました。映像を使った長い長い説明台詞の場面、物語るような語りが素敵でした。

砂漠をさまようコナンとラナ。砂漠を布をまとったダンサーさんたちの動きと生の効果音によって表現しているところがすごいです。舞台上はシンプル。ダンサーさんたちの上をかけあげる清史郎君コナンが落ちるのではないかと若干ひやひやしながらみました。インバルさんの演出にもっともうなった場面。