たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

【迷惑運転】X民「新宿区とか渋谷区とか外国人ばっか!もうLUUPとかモペットとか使わせるなよ」が話題

2024年11月24日 12時02分33秒 | 気になるニュースあれこれ

【迷惑運転】X民「新宿区とか渋谷区とか外国人ばっか!もうLUUPとかモペットとか使わせるなよ」が話題

 

【迷惑行為】渋谷でカート大暴走!外国人観光客の信号無視&スマホ撮影に苦情殺到! : ツイッター速報

新型コロナウイルス禍による入国規制が緩和されて以降、自身の運転で東京の名所を巡ることができる「公道レンタルカート」が外国人観光客に人気を博している。

今年上半期の訪日客は過去最多を記録。カートはインバウンド需要が見込める一方、交通ルールを十分に理解していない外国人の悪質運転による事故も発生している。

警視庁には昨年、100件以上の苦情が寄せられており、事業者に安全対策を求めている (略)」


 渋谷のスクランブル交差点、LUUPに中国人?が乗っている光景もみました。子供もわたしのように杖をたよりに歩いているので、危ないこと極まりないと思いました。

 こんなカートが公道を走るって道路交通法違反にはあたらないのでしょうか?警察は一般の警察車輛では警察官の身に危険が及ぶので取り締まれないのでしょうか、人的リソースをそこまで回すことができないのでしょうか。こんなカオスの中、路線バスを安全に運転してくれている運転士の方々ほんとにありがとうございますと思いました。

 

(640) 毎日お祭り騒ぎ?スマホで撮影しながら運転できるレンタルカート!渋谷ワンダーランド - YouTube

 

 豚肉を食べられないなら家から食べられるものを持参すればいい話。なぜ日本に生れて日本で育ってきている日本人の子供たちがイスラム教の子供たちに合わせなければならないのでしょうか。ここは日本です。

2024年11月18日日経新聞、

「ハラル認証」給食、保育園先行 地域で食の多様性模索 日経グローカル - 日本経済新聞

「イスラム教徒(ムスリム)の子どもにも、給食を提供する取り組みが始まっている。宗教上の理由から豚肉などを口にできず、学校に弁当を持参する児童らは増えている。イスラム教の戒律に沿いつつ、温かい給食を食べてもらおうと「ハラル認証」を取得した保育園がある。一方で、取り組みが思わぬ批判を招いた例もある。食を通して地域の多様性を高める先進事例を探る」


渋谷駅周辺、もう日本ではありません

2024年11月23日 23時49分50秒 | 日記

 2021年6月の東急文化村『古代エジプト展』以来の渋谷駅ハチ公口、徒歩10程のところで清史郎君のファンイベントがなんとか無事に往復することができました。帰りついて自分のための家事を終えようとするタイミングで股関節の軟骨すり減りが進行してきていると思われる左足がつりそうになりましたがまだ大丈夫。楽しいひとときを過ごすことができましたが、会場の往復の道のりは、SNSの投稿にあったとおり7割方外国人でした。もともとカオスではありますが岸田政権の3年間であまりにも変わってしまいました。特に安部さんがなくなってからの岸田政権のやりたい放題により、多様な人種であふれかえっている光景は、イギリスのロンドン、フランスのパリで危ないから女性一人では歩かない方がいいと言われた場所のようでした。駅近くの施設が外国人ウエルカムのイベントをやっていて、ガラ悪い感じの人だかり。日本語よりも外国語がきこえてきて、スクランブル交差点ではスマホで写真撮りながら歩く外国人多数。外国人がサーキットカーを走らせている光景をみました。英語喋ってましたがアメリカ国籍?イギリス国籍?こんな素行の悪い外国人たち、どういうビザで入国して日本でなにをしているのでしょうか。追い返すことはできないのでしょうか。警察は日本人を守らないのでしょうか。まだ日本ですがこのままでは遠からず危なくてまともな日本人が歩けなくなる日がくるのではないでしょうか。

 外国人優遇のおかしなニュースが次々と入ってきます。バイデン政権下のアメリカと同じ轍を踏んでいるようです。こんな日本にしてしまったのは岸田と自公政権。歯止めをかけるには過度な外国人受け入れに反対する国会議員を増やしていくしかありません。日本ほんとにヤバいと思います。バス・電車の中で幼児とお母さんが乗ってきてもいい大人たちが優先席にどっかり坐ってスマホいじりで気づかぬふり。なんかほんとに日本人にヤバいですよ。

 

 参政党は過度な移民政策に反対しています。

公約 | 第50回衆議院選挙-50th House of Representatives Election- 日本をなめるな!

11月23日勤労感謝の日、もともとは新嘗祭(にいなめさい)、五穀豊穣、新穀をお祝いし、一年の実りに感謝して天皇陛下が国家の安寧を神々に祈る日。戦後GHQによってかえられてしまったのだということをこの年まで生きながらえながら知りませんでした。おそらく多くの日本人が知らないでいるでしょう。戦後教育のたまもの。気づいた人から発信していくしかありません。

Xユーザーの原 日本さん: 「今宵22:00時 天皇陛下は、祈りを捧げられます 同じ時刻に祈る事をみなさんにお伝え下さい。 天皇陛下と共に祈るという事がどれだけ大きな力と成り國家國民を安泰に導くか、神々の心を動かせる時です。我々民も祈りましょう。 https://t.co/M5Mro1QFtn」 / X


『シェイクスピアの面白さ』より‐あとがき

2024年11月23日 16時03分50秒 | 本あれこれ

『シェイクスピアの面白さ』より_エリザベス朝劇場というのは

『シェイクスピアの面白さ』より_エリザベス朝劇場とは

『シェイクスピアの面白さ』より(1)

『シェイクスピアの面白さ』より(2)

『シェイクスピアの面白さ』より(3)

『シェイクスピアの面白さ』より(4)

「まる二年、ずいぶん長々と連載させていただいたが、ちょうど12月で限りもいいので、この辺でひとまず打ち切らせてもらうことにする。が、ふりかえってみると、ひどい逍遥遊(ベリパテテイツク)で、果して題名通りの意図が達せられたかどうかということになると、われながら心細い点もないではない。(略)ただ終りにあたって一言いっておきたいのは、いわゆるシェイクスピア学などというこちたいものからはひどく遠い通俗談であったかもしれぬが、わたしなりには、故池田首相ではないが、ウソや背伸びは一つも書かなかったということである。シェイクスピア学者などから見れば、あるいはまちがっていたり、古くさかったりする内容もあったかもしれぬが、少なくともわたしとしては、ほぼ45年間、別に誰から強いられるわけでもなく、他人は知らず、ただ面白いというだけでこの作者を愛読しつづけてきた。そのわたしなりの理解をお伝えしたかった‐言葉をかえていえば、少しでもたくさんの読者諸氏にシェイクスピアの楽しみを分け合っていただきたかったというにすぎないのである。

 もちろん、かくいえばとて、わたしのシェイクスピア理解が、絶対に正しい、絶対に無謀であるなどという自信はもうとうない。つい先日だが、ある放送曲のテレビ番組で「アメリカにみる日本文化」とか題した記録ものを、たまたまひねったチャンネルで見た。例によって、日本式庭園、キモノ、テンプラ、スキヤキ等々、その辺までは別にいうこともないが、つづいて禅の流行、英語俳句の試作ということになると、正直にいって、やはりこだわった。禅がまるで現代ノイローゼの治療法みたいになってみたり、英語単語を17並べることが俳句だということになると、やはり妙な気持になるのはやむをえないであろう。

(略)

 さて以上、ひどく筆者は日本人の、そして筆者自身のシェイクスピアということを強調したようであるが、これもまた妙に野郎自大のひとりよがりに取ってもらっては困る。あくまで日本人として読む、などということを大きな声で行ったが、それは決して原作、つまり英語の原文で読むシェイクスピアを軽んじて言った意味では決してない。むしろ逆に、いささかキザな言い方になるかもしれぬが、やはりシェイクスピアのほんとうの面白さは、翻訳ではとうてい移しきれぬ。原作を、しかも細かく、綿密に読むこと(もちろん、機会さえあれば、出来不出来は別として、舞台で見ることが大切であるのはいうまもでもないが)、でなければならぬと信じている。なるほどそれも、しょせん本国人並みにはまいらぬ外国人の英語力で読むより仕方がないのだが、それにしても、翻訳で読むよりは、はるかに生きたハツラツさが伝わってくることはたしかである。

 一種の翻訳不信論のようなことにもなったから、あえてこれも一言しておくが、筆者自身も何篇か拙訳を出し、現にいまも例のフォルスタフの出る「ヘンリー四世」第二部を手がけている最中である。あえて少々口幅ったいことをいわせてもらうならば、可能なかぎりの骨は折っているつもりだし、またそう拙劣なというほどの出来でもないつもりである。だが、さればとて筆者の英語力で理解できる範囲の原作の溌剌さ、面白さすら、どこまで移しえたかということになると、わたし自身が一番よく知っているが、まず5割か6割も出しえれば御の字である。もっと正直にいえば、もどかしいまでに情けないというのが実情であろう。原作の詩の美しさが移せぬとか、ダジャレ、言葉の遊びのおかしさが日本語にならぬとか、そんなぜいたくな望みをいっているのではない。もっともっと卑近な原作の味わいさえ、訳しながらほとんど絶望的になる。

 たとえば「ハムレット」の幕開きである。ホレーショと二人の歩哨とが、またしても例の亡霊が出たか出ないかを話し合っている個所、最初マーセラスが、「あのもの」「あいつ」this thingは今夜もまた現れたかと訊く。そしてそのあと言葉を続けて、ホレーショとの亡霊についての問答について報告するのだが、その中で「あのもの」がまず「あのおそろしい見もの」this dreaded sight になり、ついではじめて「あの亡霊」this apparition となる。時間にすればほんの3、4秒のことだが、この微妙な段取りは決して簡単に見のがしていいものではないはずである。いきなり「亡霊はまた出たか?」と底を割ってしまったのでは身もフタもない。「物」がまず「見もの」になり、さらに「亡霊」となっていくところに、おそらくシェイクスピアは、なんどもないようだが、巧みに観客の好奇心を釣りよせて、やがて芝居そのものへの観客の興味をしっかりつかんでしまおうとしたものに相違ない―それがどこまで意識的であったかは別問題として、つまり、すでに円熟期に達した作者の、あるいは無意識的技術であったかもしれないからである。

 それはさておき、下手な作者ならいきなりのっけから「亡霊は」とやったかもしれないし、事実シェイクスピアでも初期の習作程度の作品には、いくらでもそれ式の荒っぽさはある。また単に芝居の筋を知るだけなら、こんな苦心などなにも要るまいが、それでは演劇ではない。お話である。やはりシェイクスピアの微妙な面白さを味わうためには、こんな細かいところまで注意して味わう必要があろうと思うのだ。ところが、さてそれを自然な日本語でそのまま移すとなると、これは実に絶望的になる場合が多い。まさか「おそろしい見もの、光景」でははじまるまいし、それではただの説明になる。

 もう一つ、やはり「ハムレット」から引いておこう。通常は第三幕第一場というのに出る例の有名なTo be,or not to be ではじまる独白である。むかしからだいたい日本語では「生きるか、死ぬか」になっている。別にこれといったよい代案もないから、別に異論は出さないが、実は決してTo die,or not to die でもなければ、To live,or not to live でもないのである。たしかに独白のあとを読むと、彼が死、あるいは自殺について考えていることは事実だが、ここで彼が疑惑、不決断の巌頭に立たされている問題は、決して単純に生死だけの問題ではない。第一には亡霊そのものが果して真に父のそれか、それとも悪魔の見せるまやかしか、それもまだこの段階では決めかねている。しかもかりに真実亡父の霊であったとしたところで、復讐すべきか否かの問題もある。さらに愛するオフィーリアの行動にまで、このところ妙に疑いの影が射している。そのほか彼自身の中にある思索型の人間と行動型の人間との矛盾もすでに感じはじめている。いわばこの時点におけるハムレットの胸中に群がり起る問題は、死生のそれをも含めて、すべてがあれかこれかの疑い、不決断に彼をさいなもうとするものばかりである。そのあれかこれかに錯綜するすべての問題に直面した不決断の心象風景こそ、To be,or not to be であったのである。決して単に「生きるか、死ぬか」だけの問題ではない。

 さらにもう一つ見のがしてはならないのは、もともとこの独白は第三幕第一場になって、国王夫妻、ボローニアス等の間でのむしろ事務的なやりとりがまず何十行かある。そしてそこへすっとハムレットがひとり出て、いきなり開口のセリフがこの一行なのである。だが、開口一ばんとはいっても、これは決して演説冒頭の一句ではない。少なくともわたしたちは、この登場前、いわば舞台裏でのハムレットからまず想像の中においておかなければならない。つまり、いいかえれば講演者かなにかが登場して、やおら生死の哲学をぶちはじめるのではないのである。この登場以前に、すでに舞台裏でもあれかこれかの切羽つまった疑惑、不決断に思い悩んでいる彼の姿を少なくとも想像しなければならない。そのハムレットがすっと出る。そしてこの悲痛な心象風景がはじめて声になって観客の耳にとどく。それがこのTo be,or not to be なのである。それを考えると、これはあんんとしてもTo be,or not to beでなければならない。まことに謎のような表現だが、この象徴的一行こそ、やはりもっとも適切に、端的に、この時点におけるハムレットの心境を要約したものでなければならない。

 そんなわけで、実はこれを一時、「ある、あらぬ、それが問題だ」と日本語にした例もあるのである。が、現在ではまた通常「生きるか、死ぬか」にもどった。(略)筆者自身も、もし日本訳をするなら、やはり現在のところ「生きるか、死ぬか」にするつもりである。だが、断っておきたいのは、これは決して満足してするのではない。いわば仕方なしにそうするよりほかないのである。(略)

 つまりシェイクスピアの翻訳を手がけている場合、もっとも苦しむのは、いわゆる難句の解釈なおではない。実はこうした一見なんでもない部分について、実に情けない思いをするのである。

 さて、いささか脱線気味になったから、この辺で本道にもどすが、まことにキザな言い方ではあるが、なんといってもやはりシェイクスピアのたまらない面白さは、原作を、しかも綿密に(といっても、文法屋の綿密さではもちろんない)たどっていったときに、はじめて満喫できる。が、それはまあ万人には無理な注文として、しかし日本語訳でも近ごろはずいぶんよくなったとわたしは信じている。だから、それら日本訳でもよい。やはりとにかく綿密に、読者自身が演出家になり、それぞれ役柄の俳優になったつもりで味わっていただきたいのである。シェイクスピア劇の筋だけを知るなどというのは、宝の山にはいって素手でかえるにもひとしい。やはり、綿密に、いわゆる行間を読み分けていくようにさえすれば、おそらくこれほど永久に新しい「近代劇」はない。現在の世界にピチピチと生きているのである。

 いつか「オセロ」の一節を引いたり、「ヴェニスの商人」のシャイロックのセリフを関西弁で試訳してみて、その近代性の一端を紹介してみたつもりだが、もちろんそんな末梢的な問題ばかりではない。たとえば、「ヘンリー四世」、とくに第二部で見事に描かれているが、フォルスタフ一味が地方へ新兵の募集に行って、金持の子弟は賄賂をとって免除してやる。貧乏人はどしどし兵隊にする。賄賂のペンはねはする。ありもしない幽霊兵士のりすとぉつくって官金は横領する。当時の世相の一面の写実でもあったろうが、これを読みながら、最近日本でも問題になった大蔵省官吏の国有地馴れ合い払下げ事件などを考えていると、どうして4百年近くも昔の地球の裏側の世界を描いたものとは思えなくなってくる。とにかくいまの日本の新聞でも一方で読みながら、シェイクスピアを味わうなどというのも一興のはずだ。いかに彼が永久に新しく、永久にハツラツと生きているかがわかるはずである。」

(中野好夫著『シェイクスピアの面白さ』219‐228頁より)

 

 

 


最終章自分自身であること-②求められる社会と企業の変革

2024年11月23日 10時39分25秒 | 卒業論文

 先にも参照した『現代日本人の意識構造[第5版]』の調査結果によれば、73年と98年の25年間で日本人が理想とする家庭像は、夫は仕事、妻は家庭という「性役割分担」から夫も妻も家庭に目を向ける「家庭内協力」へと大きく転換している。73年調査では「性役割分担」を支持する人が最も多かったが、83年の調査以降急速に減少し、98年の調査では半減している。かわって、「家庭内協力型」は83年以降毎回増加し、98年の調査では多数派になった。[1] これは、高度経済成長期に定着した企業に取り込まれた家庭、企業にとって都合のよい性別役割分業に基づいた「男女共生システム」が「女性が働き続けること」「男性が家庭のことに協力すること」というコインの表と裏を支持する国民の意識変化、つまり時代にあわなくなってきていることを示している。家庭のあり方や男女の働き方について社会や企業が変革を迫られているのである。性という要因で個人の能力とは関係なく仕事と家庭に分けられてしまうのではなく、女性にとっても男性にとっても、家庭と社会の両方とのかかわりがもっと自由に選べ、性によって固定されない生き方やまたそういう生き方が可能な社会が求められている。

 これまで日本型企業社会は、会社以外の仕事の一切を主婦に割り当て、夫や父を地域から隔離することで企業に全てを集中させてきた。しかしこの結果、会社の論理はあまりにも肥大し、今や地域や家庭を食いつくし、自らの基盤を掘り崩しつつあるように見える。夫は賃労働に、妻は無償労働にと峻別するようになった結果、男女それそれがその分担をもち協力しながら暮らしていた時代に比べると、現代社会においては男性と女性がそれぞれの本性に基づいて協同し生活することができなくなってしまった。「会社人間」の夫と「内助の妻」の共生はさびしい。家庭をひたすら家計に還元したうえで、その経済合理性を追求するべく性別役割分担を維持することは、大きな「不合理」、人間的資源の「非効率」を招いている。もはやこの関係には終止符が打たれなければならない。[2] 企業は今、出世というひとつの価値観で造られたヒエラルキーに行き詰まりを覚えている。日本型企業社会は、従来のやり方にすがりつくことを辞めて、男女問わずに知恵を引き出せる仕組みへ向けて労務管理の一つ一つを再点検する時期だ。そのためには、異質な個人を個人として評価し活用していくことも必要だ。男性は、「男は家事や育児に向いていないからできない」のでなく、たとえ帰りたくても家庭に帰れない現在の仕組みを率直にみつめることだ。「男女共生システム」を「自分に有利」と錯覚し、支持している自分自身が自分の暮らしにくさを招いているのではないか、と立ち止まって考えてみてはどうだろうか。そして女性は、彼女たちの耳元で鳴り続けてきた「女性が無能で怠慢だから働けない」という呪文を断ち切り、「こんな仕組みでは女性は力を発揮できない」という事実を、先ず声を出してきちんと主張することだ。会社に適応しようと自分をねじまげて不幸になるのではなく、適応できない自分にいらだって、ただ会社に反発するのでもなく、自分がやりたいことのために仕組みそのものを変えていくことだ。虚構を前提に作り上げられた仕組みに無理やり合わせるのではなく、対外がそれぞれの実像を確認し、実像にあった本当に効率の良い組織をどう作っていくかを考える必要がある。[3] 企男性不在のもっとも明確なのは、育児においてである。女性が仕事を続ける場合、育児は大きな課題である。女性にのみ柔軟な働き方が求められる。子供の熱がでた、ケガをした、塾の迎えなど、仕事を辞める場合と同様、女性には女性の数だけ仕事を休む「理由」がある。そこに混迷を感じると遙洋子は述べている。どれも理由になり、どれも理由にならない。[4] 働く女性は働きながら出産する女性に対して、男性以上に批判的になってしまう。事態を変えるには、出産や病気などに対応できる人員の配置や職場の都合がすべてに優先する、という企業の倫理規範を洗いなおす根本的な作業が必要だ。従来、女性は職場での変更についての決定権や発言権をほとんど持たない。しかし、今後、少子・高齢化社会の労働の担い手となる女性からの情報をきちんと受け止め生かすことは不可欠だ。もっと下位職務の女性たちの発言権と決定権が高められなければならないだろう。また、仕事と家事・育児を両立できるようにしなければならないのは女性のみではない。男女ともになのだ。仕事と家庭の両立は今度働く女性の問題から男性も含めた働く人全てにとっての問題へと拡大するだろう。欧米では普通のことながら、日本でも男性サラリーマンがある契機で自らの家庭責任を痛感し、あるいは妻の就業権を尊重して、育児休業をとったり、過度の残業や遠隔地赴任を拒んだりするとしよう。そんな行為がいささかの不利益な処分もなく擁護されるような企業社会の風土を変えること、そうした職場の変革が求められる。[5]

 憲法13条の個人の尊厳と同14条の法の下の平等は、日本国憲法の人権保障の基本的原理である。13条は、全ての人が個人として尊重されることを謳っている。「人格の尊厳」あるいは「個人の尊厳」とも言われる。「生命、自由」に続いて「幸福追求に対する国民の権利」とあるが、これを「幸福追求権」といい、人格の担い手である個人が自らの幸福を追求する権利であり、自分の生き方を決める自己決定権を含む。この憲法13条は、憲法や法律の解釈基準になるとともに、憲法に明文の規程がない新しい人権を認める根拠になる規程である。近年13条を重視する考えが強まっているが、女性の労働権の確立にとって欠かすことのできない原理である。

 14条は、全ての人が性別により差別されないと定めている。かつては、男と女は特性や役割が異なるということを前提にした性別特性論や性別役割論に基づく「平等論」が根強く存在した。この立場からは、結婚している女性は夫に扶養されるのだから、男性より定年を早くしても差別ではないとされてきた。しかし、13条の個人の尊厳の原理に立てば夫の収入がどうであれ、妻である女性にも個人の権利としての労働権があり、また、出産機能を持つ女性の労働権は保証されなければならない。[6] パートタイマーや派遣労働、契約社員の収入は、女性が経済的に自立していくには遠い金額である。これら非正社員の不当な低賃金の是正と共に、「女性に適した仕事」の低賃金を是正させる方法として重要なのは、「同一価値労働同一賃金の原則」である。「同一価値労働同一賃金の原則」とは、同じ仕事についての同一労働同一賃金だけでなく、仕事が違ってもその価値が同じなら、女性と男性に同一賃金を支払わなければならないという考え方である。長い間、「女性に適した仕事」の賃金は低いのが当たり前とされてきたが、大切なのは仕事の価値を評価する時に、性による偏見をなくすことである。例えば人の世話をする仕事は機械を扱う仕事より価値が低いとか、手先を使う細かい仕事は力仕事より価値が低いというのは性による偏った評価である。こんな偏見をなくし、女性が担っている細かい仕事、単調な仕事、頻繁に作業を中断したり、他人の後片付けをする仕事などの価値を正当に評価し直していくことがポイントである。[7] 

 また、現行の「世帯主」である男性を中心とした経済制度や社会保障制度は女性が基幹労働者として働くことの足を引っ張るものであり、根本から見直しを迫られつつある。「103万円の壁」と言われる、ライフスタイルの変化にそぐわない働く女性に制裁的な日本の税体系は問題だ。女性たちが伝統的な「女の規範」に従って「それなりの男女共生」観を自らのものとして内面化しているうちは現行の仕組みは性差別と意識され糾弾されることを免れてきた。しかし、今、女性の短期勤続、定型的または補助的な仕事、そして低賃金という「三位一体」構造も「男女共生システム」もはっきりと揺らいでいる。「三位一体」を構成する要因のいくつかはすでに変貌を遂げ、仕組み全体の安定性を揺るがせている。一方、職場の仕事においても充実したい、一人でも生きてゆけるよう職業人として自立したいと願うようになった一定比率の女性たちは、これまでの世帯単位とは異なる「シングル単位」(伊田広行『21世紀労働論』青木書店、1998年)の男女共生をようやく求め始めている。[8] 社会保障制度や福利厚生を「世帯主」単位から「個人単位」へと見直すべき時が来ている。人間本位の立場から社会制度は改善されなければならない。その時、男女共同参加型の社会が実現し、社会全体の民主化をもたらす。大切なのは、先の憲法に謳われているように「個人の尊厳」、女性にも人間として男性と平等な「労働権」が人権の柱として存在するという認識である。21世紀が少子化社会、逆の言い方をすれば高齢化社会であることを考えれば、高齢化社会の労働サービスを提供する労働者としても、また高齢化社会を財政面から支える納税者としても「個人として」の女性の存在が経済に与えるインパクトは測り知れない大きさであると言えるだろう。女性も基幹労働者として位置づけられなければならない。こうした変革は、日本型企業社会の利潤創出の仕組みの一つを崩すことで、一時、産業社会にダメージを与えるかもしれない。しかし、長いスパンでこれを考えるとき、男女共同参加型社会の実現は、内では少子・高齢化社会を乗り切る知恵と活力を生み出し、外に向けては日本型企業社会の国際化に道を拓くであろう。

 社会全体の民主化のために、社会全体が女性の役割を定義し直すことを受け入れ、支持する体制にならなければ、これまでのステレオタイプ的な、固定された性による役割を打ち破ることはできない。男性が人間らしい生き方をするためにも、性役割の変化は必要である。男性が性役割に捉われると、出世しなければならないし、人に頼ってはいけないという圧力から相互で支えあう精神はそっちのけで人間的な感情も押し殺すようになってしまう。こうして男性の役割は社会的に豊かな人間関係を築く機会を男性から奪いとっているといってよい。男女はもともとお互いに支えあうべきである。双方が人間的な幅を広げ、お互いに連帯しあうようになれば男女の間を隔てる溝は埋められ、ずっと調和の取れた円満な関係を築くことができるだろう。しかし、双方が人間として自分の持てる能力をできるだけ伸ばすためには、成長期の子供たちに親が何を押し付けているか、その態度から見直していかなければならない。調和のとれた人間関係を築くのに必要な自立心と相互連帯の精神の両方を、女の子にも男の子にも育てていくことである。親たちがこれらの特質を、男の子にも女の子にも平等に身に付けさせようと努力するなら偏りのない、バランスのとれた大人に成長していくはずである。そして、自立心と他人の心や痛みを思いやる精神は両立することを教え、人を思いやる道を示していくことである。同時に本やテレビなど、マスコミに登場する人間像にも変化を求めなければならない。マスコミの影響力は大変強力なので、本や子供の番組を作る担当者は、男女の役割に関する固定観念を捨てて柔軟な男女観を描き出す義務がある。そのような人間像を幼いうちから目にしていけば、伝統的な男女の役割に束縛される必要などないことを子供たちは肌で学んでいくだろう。学校制度も男女の伝統的役割に深く根を下ろしている。教育の目的は個人の創造力や知的探究心を伸ばすことにあり、男女の性役割を基準として生徒の評価を下すことは断固としてやめなければならない。性役割をなくすことがそのまま男女の平等につながるわけではない。男性と女性には違いがあると考えることと、女性は男性より劣っていると考えることは全く別のことである。この両者の混同が社会的政治的なジェンダー差の根底にある。意識的にせよ無意識にせよ、この混同は、民主主義の世界で理想とされる原則とは真っ向からぶつかるものである。また、人類の半数を占める女性に十分な社会参加をさせる妨げとなってきたのである。[9]

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引用文献

[1] NHK放送文化研究所編『現代日本人の意識構造[第5版]』49-50頁、NHKブックス、2000年。

[2] 大沢真理『企業中心社会を超えて』123頁、時事通信社、1993年。

[3] 竹信三恵子『日本株式会社の女たち』200-201頁、朝日新聞社、1994年。

[4] 遙洋子『働く女は敵ばかり』19頁、朝日新聞社、2001年。

[5] 熊沢誠『女性労働と企業社会』201頁、岩波新書、2000年。

[6] 東京都産業労働局『働く女性と労働法 2003年』4頁、東京都産業労働局労働部労働課。

[7] 女たちの欧州調査団『なくそうパート/契約労働/派遣差別』54頁、2000年。

[8] 熊沢、前掲書、2-3頁。

[9] エスター・グリーングラス著、樋口恵子編訳『女と男はどうつくられる?』235-237頁、三笠書房、1985年。

 


スクランブル交差点を無事に渡れるだろうか

2024年11月23日 01時22分59秒 | 日記

 イベントで数年ぶりのハチ公口スクランブル交差点、西武の前を通るのは10数年ぶり、かつてなんどか通っているしイベント会場までの道のりも何度か歩いたことがあるはずなれど、にぎわう人々の7割がすでに外国人?自公政権がどんどん外国人を入れる政策をとっているからですが、おかしな外国人が急激に増えています。ハロウィンの夜には日本人がおらずマナーの悪い外国人であふれかえっていたとか。日比谷のスクランブル交差点を渡ることができていますが歩いている層が違うので、杖にたよる身で不安。まだいざとなれば急げるだけの力が残っていますが急に寒くなり右をかばい続けてきた左の股関節の痛みも強くなってきました。すわっていると燃えるように痺れてきたり。歩いてしばらくすると痛みが軽くなるのが変形性膝関節症。いずれ遠からず歩けなくなります。歩けなくなったら終りだと思います。いつ戦争が起きるかわからないし日本がどうなっていくのかわかりません。歩ける間だけ、生きている間だけ。スマホみながら歩く人が多くなったこともあり危険がいっぱい過ぎ。電車とバスの乗り降り含め、ほんとに危ないのです。不安神経症に打ち勝って事故にあうことなく、なんとか無事に辿り着かねばと思います。こんなきたないばあさんが参加して申し訳ないですが楽しいひとときが過ごせるようにと思います。


たまにはいいニュース

2024年11月22日 17時10分58秒 | 気になるニュースあれこれ

2024年11月21日共同通信、

給食に昆虫食 徳島の企業破産へ - Yahoo!ニュース

食用コオロギの生産や商品開発を手がける徳島市のベンチャー企業「グリラス」が徳島地裁に自己破産を申請したことが21日、代理人弁護士への取材で分かった。コオロギ食は栄養価が高く食料危機を解決すると期待される一方、消費者の忌避感が強く、資金繰りが悪化した。申請は7日付。代理人によると、負債総額は約1億5千万円。

 
 コオロギ食、最近めっきりきかなくなったと思ったらベンチャー企業倒産、なによりです。

海底ケーブル切断、中国船関与か バルト海、デンマークが監視

2024年11月22日 16時00分43秒 | 気になるニュースあれこれ

2024年11月21日共同通信、

海底ケーブル切断、中国船関与か バルト海、デンマークが監視(共同通信) - Yahoo!ニュース

「【ロンドン、北京共同】バルト海の2カ所で海底通信ケーブルが相次いで切断された問題で、デンマーク国防当局者は同国沖で中国の貨物船を監視していると明らかにした。ケーブルが切断された時間帯に付近を通過していたとされる。スウェーデン捜査当局も、中国船の関与の可能性を示唆した。英メディアが21日までに報じた。  損傷は、リトアニアとスウェーデンを結ぶケーブルで17日に、フィンランドとドイツを結ぶケーブルで18日に見つかった。欧州各国は「欧州の安全保障がハイブリッド戦争の脅威にさらされている」と非難し、破壊工作の疑いがあるとの見方を示していた。」

 

Xユーザーのbuveryさん: 「バルト海で連続で海底ケーブルを切ったと疑われている中国船、デンマーク海軍に乗り込まれて、拿捕された模様。 台湾戦争の時に、日米海底回線を切るというのはいかにも起こりそうな事態。」 / X

 

 トランプさんのアメリカ大統領就任式は1月20日とのこと。まだまだ世界がざわつきそうです。いろいろなことが起こりそうです。

 


選択的夫婦別姓のほんとの狙いは戸籍制度をなくすこと

2024年11月22日 12時27分38秒 | 気になるニュースあれこれ

自民党の高市早苗さん、

Xユーザーの以下略ちゃん™さん: 「選択的夫婦別姓のほんとの狙いは戸籍制度をなくすこと https://t.co/c5pogIOcMA」 / X

 

 お仲間の自民党議員が駅前で法務大臣就任のビラを配っていたので「選択的夫婦別姓はやめてください」とだけ伝えました。時間なかったですが後から、日本を守るはずの自民党が左翼化してどうするんですか、と言えばよかったと思いました。ことの重大さをあまりわかっていない様子でした。

法務省:鈴木法務大臣初登庁後記者会見の概要

 

2024年11月21日参政党赤坂ニュース、

どうなる?LGBT法案・選択的夫婦別姓!日本のメディアのあり方を問う!山口敬之【赤坂ニュース196】参政党

 

 

参政党は、選択的夫婦別姓に反対します。 | 参政党

「家族が同じ姓を名乗ることは、一体感や絆を育む重要な要素である。同じ姓を持つことで家族のつながりが生まれ、子供にとっても「自分はこの家族の一員である」というアイデンティティを持つ助けとなる。この安心感こそが、子供たちの健全な成長にとって重要であると考える。
 
令和3年の内閣府調査では、69.2%の国民が夫婦同姓を支持しており、この価値観は現在も多くの人々に受け入れられている。夫婦がいずれの姓を選べる現行制度のままでも、旧姓の使用が広がり、不便さは解消されつつある。
 
次世代が安心して育つことができる環境を守るためにも、現行制度を活かし、柔軟に対応することが重要である。戸籍制度は、人々のつながりを正確に記録し、社会の秩序と信頼を支える基盤であり、この観点からも現行制度を維持すべきである。」

 


男は男、女は女。そして男は女にはなれない

2024年11月21日 23時58分26秒 | 気になるニュースあれこれ

LGBTQ+差別に反対する小説家の声明

「私たち小説家にとって、作品が世の中に流通し人々に読まれることは、喜びであると同時に、大きな責任を伴うものでもあります。

  近年、LGBTQ+、とりわけトランスジェンダーの人々を標的にした差別言説が氾濫していることに、私たちは深く心を痛め、憂慮しています。読者のみなさまをはじめ、文芸・出版業界にも、LGBTQ+当事者の方がいることは言うまでもなく、我々にとって他人事ではありません。

 そこで私たちは、トランスジェンダーを含むLGBTQ+の人々に対する差別に反対し、連帯と支持を表明します。


 文学は、ときに差別や抑圧、排除といった人間の暗い一面を描くこともあります。しかし、すでに社会的に弱い立場に立たされている人々に対し、文学がその生の可能性を狭め、差別や抑圧、排除に加担することはあってはならないと、私たちは信じています。文学がLGBTQ+を含むすべての人に開かれたものになるよう、私たちは文芸業界、出版業界、及び同業者に理解と協力を求めます。


 私たちは差別に加担しない文学環境を望みます。

 

    2024年11月20日 トランスジェンダー追悼の日に

賛同者(敬称略、五十音順、計51名)

逢坂冬馬、朝井まかて、朝比奈あすか、安堂ホセ、池澤春菜、石田衣良、石原燃、市川沙央、一穂ミチ、いとうせいこう、岩川ありさ、王谷晶、大田ステファニー歓人、大前粟生、小山田浩子、角田光代、木村紅美、木村友祐、桐野夏生、倉田タカシ、グレゴリー・ケズナジャット、小林エリカ、近藤史恵、坂木司、坂崎かおる、桜庭一樹、篠田節子、高瀬隼子、高山羽根子、滝口悠生、津村記久子、中沢けい、西加奈子、似鳥鶏、東山彰良、深緑野分、藤井太洋、藤野可織、藤野千夜、古川真人、星野智幸、町田そのこ、町屋良平、松田青子、三浦しをん、山内マリコ(※)、山崎ナオコーラ、柚木麻子(※)、吉川トリコ、吉田恵里香、李琴峰(※)」

 

トランスジェンダー追悼の日 - Wikipedia

 

 

 LGBTはバイデン政権の多大なる負の遺産。昨今の流れは、むしろトランスジェンダーにより生物学的女性が安心して利用できるスペースが脅かされようとしています。ここに名前を連ねている女性の方々は、女性トイレに心は女を自認する女装したオッサンたちが入ってくるのOK、大歓迎ということでしょうか。アメリカ、欧州では女性スポーツに心は女を自認する生物的男性が入り込んできて、生来の力で勝てるはずのない生物的女性がボコボコにされています。生物的女性の安全が脅かされています。共産主義的思想による社会の秩序破壊です。普通の感覚をもった女性にとってLGBTなど害悪でしかなく、すでに子供たちにおかしな性教育がなされていることが心配でなりません。

 

 中沢けいさん、文学賞を受賞した「海を感じる時」を高校時代に繰り返し読みました。極左的思想をもっている方とわかり非常に残念です。

 

 トランプさんが大統領に再選されたアメリカは本来あるべき姿にもどりつつあるようです。

Xユーザーの島田洋一(Shimada Yoichi)さん: 「アメリカの好戦的な保守派女性下院議員マージョリー・テイラー・グリーンの案。 女性トイレを共和党用と民主党用に分け、自称トランスジェンダー(生物学的男性)には民主党用を使ってもらう。 LGBTイデオロギーを高唱する人間が責任とリスクを負えということ。」 / X

「アメリカの好戦的な保守派女性下院議員マージョリー・テイラー・グリーンの案。 女性トイレを共和党用と民主党用に分け、自称トランスジェンダー(生物学的男性)には民主党用を使ってもらう。 LGBTイデオロギーを高唱する人間が責任とリスクを負えということ。

XユーザーのRep. Marjorie Taylor Greene🇺🇸さん: 「Here’s my women’s bathroom proposal: Instead of making a trans bathroom, we should make a Republican women’s bathroom and a Democrat women’s bathroom, so all the Democrat women who agree with men using the women’s bathroom can share their bathroom with the mentally ill trans」 / X

Here’s my women’s bathroom proposal: Instead of making a trans bathroom, we should make a Republican women’s bathroom and a Democrat women’s bathroom, so all the Democrat women who agree with men using the women’s bathroom can share their bathroom with the mentally ill trans biological men that they support. But NO biological men, no matter what level of dress up they play, are allowed in the Republican women’s bathroom.」

 

Xユーザーのポリパラさん: 「最新情報: 🇺🇸🏳️‍⚧️ 米国下院議長マイク・ジョンソン氏は「男は男、女は女。そして男は女にはなれない」と発言。 あなたは同意しますか? BRICSNews https://t.co/gTYTKE7GjE」 / X

「米国下院議長マイク・ジョンソン氏は「男は男、女は女。そして男は女にはなれない」と発言。」

 

2024年11月21日TBSNEWSDIG、

“女性トイレの使用を認めず” アメリカ下院議長が声明発表 トランスジェンダー議員のトイレ問題 | TBS NEWS DIG

「アメリカ連邦議会でトランスジェンダーの議員に女性トイレの使用を認めるべきかどうかを巡って議論が起きていましたが、下院議長が使用を認めない方針を示しました。

アメリカ連邦議会では、トランスジェンダーを公言する民主党のサラ・マクブライド氏が来年1月から下院議員として活動するのを前に、議会内でトランスジェンダーが女性トイレを使うことを禁じる決議案が提出されました。

民主党は「いじめだ」と強く批判していますが、共和党のジョンソン下院議長は20日、議会内のトイレ・更衣室・ロッカールームの利用について、「生物学的な性別に基づく」との声明を出しました。

同時に、議員それぞれの部屋にトイレが設置されていることや、議会内には性別を問わないトイレが設置されていることも指摘しています。

これを受けて、マクブライド氏は「私はトイレについて戦うのではなく、家庭のコストを引き下げるために戦うのです。たとえ同意できなくてもジョンソン下院議長が示したルールには従います」とコメントしています。」

 

 

 


最終章自分自身であること-①多様な家族のあり方を求めて

2024年11月21日 15時00分57秒 | 卒業論文

 先ず、女性自身のジェンダーの内面化の現象の一つとして、結婚後、妻が夫の姓を名乗ることが通例となっていることに注目したい。現在法的には姓の選択は夫婦が対等に行うことができる。明治の民法制定時には、女性が夫の姓を名乗ることは、夫という個人のもつ姓ではなく、夫の属する「家」がもつ氏を継ぐという意味を持っていた。しかし、敗戦後、「家」制度は否定され、結婚後の姓の決定に際しては、夫と妻の権限は対等であり、両者の姓を選択する比率はほぼ一対一になるはずである。しかし、実際には、婚姻後妻が姓を夫の姓に変えるのが通例で、首都圏では97%、東海92%、関西98%となっている(リクルート・ゼクシィ事業部、1998年)。自由な恋愛が主で対等平等の関係を発展させる恋人同士の間にも男性優先の「家」文化の名残は強く残っている。一方、姓に関わる「家」意識においても、次第に変化が表れてきている。「夫婦別姓を望む人には許されるべきだと思う」という肯定派がほとんどである。しかし、実際に法律によって別姓が認められた場合、別姓にする意向のある人は17%程度にとどまっている、と坂西友秀は捉える。別姓にしない理由として、「結婚した証として」「家族の一体感のため」「子供のことを考えて」「同じ姓なのが当たり前だから」などがあるが、これらの理由には心理的な意味が強く含まれていると考えられる。「新しい姓のほうが好き」という女性も一割いる。こうした態度は法的な制度によって女性の内面に作り出されてきた一つの心理であり、不変とは考えられない。[1] 夫婦の名字についても一人一人が多様な生き方を選べるようにと、女性の側から強く求められている。夫婦別姓の容認の傾向は、第五章の最後に記した家族の「個人化」の現象のひとつとして捉えることができる。NHKの『現代日本人の意識構造[第5版]』によれば、夫の姓に統一しなければならないという考え方は徐々に後退し、反対に夫婦別姓でもよいという考え方がじわじわと増えている。男女別に見ると、特に女性では5年間に急増し、98年の調査では四割を超え男性を上回っている。夫婦の姓は必ずしも夫の姓でなくてもよいと考える女性が増えてきているのである。年代別では、1943年以降に生まれた人に「脱・夫の姓」を支持する人が増えている。1980年後半から夫婦別姓の導入を求める声が高まってきた。その理由としては、姓を変えることで自己喪失感を持ったりすることが考えられる。夫婦の名字をどのようにするかということは、実は姓と何か、個人とは何か、結婚とは何か、家族とは何かなどの根本的な問題と深く関わっている。夫婦別姓を容認する傾向は、「家族とは同姓でなければならない」という家族観の揺らぎであり、結婚したら女性が改姓するというこれまでの「常識」に対しての疑問の投げかけである。「夫婦別姓にすると家族の一体感が損なわれる」という意見があるが、家族の絆はなにから生まれるかという質問に、「苗字や戸籍が同じであること」「血がつながっていること」と答えた人は、前者は男女ともに1%、後者は男性12%、女性11%しかなく、一方「一緒に暮らすこと」は男性43%、女性38%、さらに「家族一人一人の努力」は男性34%、女性43%と、日常生活そのものによって、特に女性では同じ姓を名乗ることよりも一人一人の努力によって家族の絆は生まれると考えているのである(朝日新聞社「家族像」世論調査、1999年、全国の有権者)。[2] 第二章で、近代家族は女性の抑圧装置となったというフェミニズムの考え方に触れたが、女性にとって家族はこれまでのように自分を抑えて一体化するものではなくなってきている。個人を縛る従来の性役割に従う生き方や制度や社会に疑問を投げかけ、自分はどう生きていくのかを女性自身が問い始めている。「両性の平等」と「個の自立」という方向を目指しているのである。

 憲法24条の家族生活に関する事項においては、個人の尊厳と両性の平等を掲げているが、家族・男女関係の領域における日本人の意識の変化は、まさにこの文言を体言化してきたかに見える。『現代日本人の意識構造[第5版]』の調査を開始した73年と98年の結果から家族に関する意識変化をおさらいすると次のようになる。「愛情があれば婚前交渉は可」が「不可」を抑えて最大意見となった。「結婚はしなくてもよい」が6割近くに達した。「結婚しても、子供をもたなくてもよい」が増加している。先に記したように、「脱・夫の姓」が四割に達した。「女性は子供が生まれても職業を続けたほうがよい」が最大意見となった。「父親は仕事、母親は家庭」という「性役割分担」が二割に減少した。「夫の家事・育児の手伝いは当然」が8割を超えた。「子供に干渉しない父親」を求める傾向が増加。「女性に高学歴を」が多数派に、「老後は子供や孫と」が減り、「自分の趣味に生きる」が増えた。これらは全て、家族という私的集団の中でそれをさらに細分化する個的原理が強い主張を持ち始めたことを意味する。そして、そのことは一方で人々の新しい意識が既成の家族の規格ひいては既成の社会の規格にはもはや収まり切れなくなっているという切実な問題を招来させているのである。[3] したがって、これらの新しい意識を受容し適正化していく新しい家族や社会を確立させていくことが求められている。

 近年の生殖技術の発達が子供や家族という概念に与える影響を考えたうえで、私たちはどのような選択をしていくべきなのかということについて、長沖暁子は、子供のいない家族を含めて、多様な家族のあり方を認めていく方向で考えていくしかないのではないかと述べている。その上で選択するという状況を作っていかなければ、女性に対する子供を作れという圧力は減っていかないのである。少子化は子供を産めという圧力を産んでいる。医療自体も子供を作ることが善という方向にあり、社会から子供を作って欲しいという圧力がかかっている中で、個人が選択した場合、どう考えても子供を作る方向の後押しされていることになる。多様性を認める社会をつくっていくためには、当事者が語ること、言葉に耳を傾け、経験や知識を共有化することによって、価値観を広げていく、多様性ということを実感することが第一歩である。さまざまな立場の当事者が語ることから多様性を認める自然観・生殖観・生命観を実感する。その上で、どの選択肢を選んでも圧力がない社会、何を選んでも「等価」である社会がなければ自由な選択とはいえない。子供を産まない女は価値がないと思われている社会では、産まなければ存在証明にもならない。産んでも産まなくても、母親であってもなくても同じように認められる社会でなければ、アウトローでよいと居直らないかぎり、不利な選択はできないのである。そういう社会を作っていくためには女性たちがもっと政治的・経済的・社会的な力を付けていくことが必要だ。そして、男性たちには家事や子育てに積極的に参加し、性や生殖をもっと実感して、出産に関しても自分の問題として考えるような意識改革を期待したい。[4] 女性が性役割を超えて個人として自由な選択ができるようになるには、これまでの伝統的な家族形態だけに捉われない、多様な家族のあり方を認める社会への変革が望まれる。

 女性にとって家族は運命共同体ではなく、女性を取り巻く環境の一つになってきた。新たな家族の形態を確立することが必要とされている。しかし、昔ながらの男女の役割と伝統的な家族形態だけを頭に入れた教育が行われていては、男女それぞれが主体性を持てる、新しい家族関係を模索することは難しい。繰り返し見てきたように、女性は仕事をもつことによって家事労働と市場労働の二重負担に苦しむ。時には、妻が稼ぐことを疎ましく思い、自分の役割が侵されると感じる夫さえいるのである。離別、死別を問わず、単身の親の立場に立たされた時、今まで相手の役割だと思っていたことを自分がしなければならないのは、困難なことが多い。こういう時でも、男女の固定観念にあまり捉われていない人々は順応がより容易である。新たな家族形態によって、男女の役割は変わってきた。そうした現実に追いつくためには、行政面では保育所の充実は急務である。雇用の分野でも、企業内保育所や家族と共に過ごす時間を増やす制度の拡充が望まれる。今まであらゆる点で我々の社会は、変わり行く家族を受け入れる準備ができていなかった。社会の根底を揺さぶるような変化への対処の仕方などわからなかった。今や時代遅れの体制、政策をこれ以上続けても新たな家族形態、女性の生き方を受け入れるための何の解決にもならない。新しい家族生活の決まりを創り出そうとしている世代の能力を最大限に活用できるような社会政策を是非とも実現させなければならない。

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引用文献

[1] 坂西友秀「恋人たちがもつ現代的「家」意識」藤田達雄・土肥伊都子編『女と男のシャドウ・ワーク』29-30頁、ナカニシヤ出版、2000年。

[2] NHK放送文化研究所編『現代日本人の意識構造[第5版]』38-41頁、NHKブックス、2000年。

[3] NHK放送文化研究所編『現代日本人の意識構造[第5版]』213-214頁。

[4] 長沖暁子「家族の今をどう見るか」『三色旗655号』慶応義塾大学出版会、2002年10月。