「まる二年、ずいぶん長々と連載させていただいたが、ちょうど12月で限りもいいので、この辺でひとまず打ち切らせてもらうことにする。が、ふりかえってみると、ひどい逍遥遊(ベリパテテイツク)で、果して題名通りの意図が達せられたかどうかということになると、われながら心細い点もないではない。(略)ただ終りにあたって一言いっておきたいのは、いわゆるシェイクスピア学などというこちたいものからはひどく遠い通俗談であったかもしれぬが、わたしなりには、故池田首相ではないが、ウソや背伸びは一つも書かなかったということである。シェイクスピア学者などから見れば、あるいはまちがっていたり、古くさかったりする内容もあったかもしれぬが、少なくともわたしとしては、ほぼ45年間、別に誰から強いられるわけでもなく、他人は知らず、ただ面白いというだけでこの作者を愛読しつづけてきた。そのわたしなりの理解をお伝えしたかった‐言葉をかえていえば、少しでもたくさんの読者諸氏にシェイクスピアの楽しみを分け合っていただきたかったというにすぎないのである。
もちろん、かくいえばとて、わたしのシェイクスピア理解が、絶対に正しい、絶対に無謀であるなどという自信はもうとうない。つい先日だが、ある放送曲のテレビ番組で「アメリカにみる日本文化」とか題した記録ものを、たまたまひねったチャンネルで見た。例によって、日本式庭園、キモノ、テンプラ、スキヤキ等々、その辺までは別にいうこともないが、つづいて禅の流行、英語俳句の試作ということになると、正直にいって、やはりこだわった。禅がまるで現代ノイローゼの治療法みたいになってみたり、英語単語を17並べることが俳句だということになると、やはり妙な気持になるのはやむをえないであろう。
(略)
さて以上、ひどく筆者は日本人の、そして筆者自身のシェイクスピアということを強調したようであるが、これもまた妙に野郎自大のひとりよがりに取ってもらっては困る。あくまで日本人として読む、などということを大きな声で行ったが、それは決して原作、つまり英語の原文で読むシェイクスピアを軽んじて言った意味では決してない。むしろ逆に、いささかキザな言い方になるかもしれぬが、やはりシェイクスピアのほんとうの面白さは、翻訳ではとうてい移しきれぬ。原作を、しかも細かく、綿密に読むこと(もちろん、機会さえあれば、出来不出来は別として、舞台で見ることが大切であるのはいうまもでもないが)、でなければならぬと信じている。なるほどそれも、しょせん本国人並みにはまいらぬ外国人の英語力で読むより仕方がないのだが、それにしても、翻訳で読むよりは、はるかに生きたハツラツさが伝わってくることはたしかである。
一種の翻訳不信論のようなことにもなったから、あえてこれも一言しておくが、筆者自身も何篇か拙訳を出し、現にいまも例のフォルスタフの出る「ヘンリー四世」第二部を手がけている最中である。あえて少々口幅ったいことをいわせてもらうならば、可能なかぎりの骨は折っているつもりだし、またそう拙劣なというほどの出来でもないつもりである。だが、さればとて筆者の英語力で理解できる範囲の原作の溌剌さ、面白さすら、どこまで移しえたかということになると、わたし自身が一番よく知っているが、まず5割か6割も出しえれば御の字である。もっと正直にいえば、もどかしいまでに情けないというのが実情であろう。原作の詩の美しさが移せぬとか、ダジャレ、言葉の遊びのおかしさが日本語にならぬとか、そんなぜいたくな望みをいっているのではない。もっともっと卑近な原作の味わいさえ、訳しながらほとんど絶望的になる。
たとえば「ハムレット」の幕開きである。ホレーショと二人の歩哨とが、またしても例の亡霊が出たか出ないかを話し合っている個所、最初マーセラスが、「あのもの」「あいつ」this thingは今夜もまた現れたかと訊く。そしてそのあと言葉を続けて、ホレーショとの亡霊についての問答について報告するのだが、その中で「あのもの」がまず「あのおそろしい見もの」this dreaded sight になり、ついではじめて「あの亡霊」this apparition となる。時間にすればほんの3、4秒のことだが、この微妙な段取りは決して簡単に見のがしていいものではないはずである。いきなり「亡霊はまた出たか?」と底を割ってしまったのでは身もフタもない。「物」がまず「見もの」になり、さらに「亡霊」となっていくところに、おそらくシェイクスピアは、なんどもないようだが、巧みに観客の好奇心を釣りよせて、やがて芝居そのものへの観客の興味をしっかりつかんでしまおうとしたものに相違ない―それがどこまで意識的であったかは別問題として、つまり、すでに円熟期に達した作者の、あるいは無意識的技術であったかもしれないからである。
それはさておき、下手な作者ならいきなりのっけから「亡霊は」とやったかもしれないし、事実シェイクスピアでも初期の習作程度の作品には、いくらでもそれ式の荒っぽさはある。また単に芝居の筋を知るだけなら、こんな苦心などなにも要るまいが、それでは演劇ではない。お話である。やはりシェイクスピアの微妙な面白さを味わうためには、こんな細かいところまで注意して味わう必要があろうと思うのだ。ところが、さてそれを自然な日本語でそのまま移すとなると、これは実に絶望的になる場合が多い。まさか「おそろしい見もの、光景」でははじまるまいし、それではただの説明になる。
もう一つ、やはり「ハムレット」から引いておこう。通常は第三幕第一場というのに出る例の有名なTo be,or not to be ではじまる独白である。むかしからだいたい日本語では「生きるか、死ぬか」になっている。別にこれといったよい代案もないから、別に異論は出さないが、実は決してTo die,or not to die でもなければ、To live,or not to live でもないのである。たしかに独白のあとを読むと、彼が死、あるいは自殺について考えていることは事実だが、ここで彼が疑惑、不決断の巌頭に立たされている問題は、決して単純に生死だけの問題ではない。第一には亡霊そのものが果して真に父のそれか、それとも悪魔の見せるまやかしか、それもまだこの段階では決めかねている。しかもかりに真実亡父の霊であったとしたところで、復讐すべきか否かの問題もある。さらに愛するオフィーリアの行動にまで、このところ妙に疑いの影が射している。そのほか彼自身の中にある思索型の人間と行動型の人間との矛盾もすでに感じはじめている。いわばこの時点におけるハムレットの胸中に群がり起る問題は、死生のそれをも含めて、すべてがあれかこれかの疑い、不決断に彼をさいなもうとするものばかりである。そのあれかこれかに錯綜するすべての問題に直面した不決断の心象風景こそ、To be,or not to be であったのである。決して単に「生きるか、死ぬか」だけの問題ではない。
さらにもう一つ見のがしてはならないのは、もともとこの独白は第三幕第一場になって、国王夫妻、ボローニアス等の間でのむしろ事務的なやりとりがまず何十行かある。そしてそこへすっとハムレットがひとり出て、いきなり開口のセリフがこの一行なのである。だが、開口一ばんとはいっても、これは決して演説冒頭の一句ではない。少なくともわたしたちは、この登場前、いわば舞台裏でのハムレットからまず想像の中においておかなければならない。つまり、いいかえれば講演者かなにかが登場して、やおら生死の哲学をぶちはじめるのではないのである。この登場以前に、すでに舞台裏でもあれかこれかの切羽つまった疑惑、不決断に思い悩んでいる彼の姿を少なくとも想像しなければならない。そのハムレットがすっと出る。そしてこの悲痛な心象風景がはじめて声になって観客の耳にとどく。それがこのTo be,or not to be なのである。それを考えると、これはあんんとしてもTo be,or not to beでなければならない。まことに謎のような表現だが、この象徴的一行こそ、やはりもっとも適切に、端的に、この時点におけるハムレットの心境を要約したものでなければならない。
そんなわけで、実はこれを一時、「ある、あらぬ、それが問題だ」と日本語にした例もあるのである。が、現在ではまた通常「生きるか、死ぬか」にもどった。(略)筆者自身も、もし日本訳をするなら、やはり現在のところ「生きるか、死ぬか」にするつもりである。だが、断っておきたいのは、これは決して満足してするのではない。いわば仕方なしにそうするよりほかないのである。(略)
つまりシェイクスピアの翻訳を手がけている場合、もっとも苦しむのは、いわゆる難句の解釈なおではない。実はこうした一見なんでもない部分について、実に情けない思いをするのである。
さて、いささか脱線気味になったから、この辺で本道にもどすが、まことにキザな言い方ではあるが、なんといってもやはりシェイクスピアのたまらない面白さは、原作を、しかも綿密に(といっても、文法屋の綿密さではもちろんない)たどっていったときに、はじめて満喫できる。が、それはまあ万人には無理な注文として、しかし日本語訳でも近ごろはずいぶんよくなったとわたしは信じている。だから、それら日本訳でもよい。やはりとにかく綿密に、読者自身が演出家になり、それぞれ役柄の俳優になったつもりで味わっていただきたいのである。シェイクスピア劇の筋だけを知るなどというのは、宝の山にはいって素手でかえるにもひとしい。やはり、綿密に、いわゆる行間を読み分けていくようにさえすれば、おそらくこれほど永久に新しい「近代劇」はない。現在の世界にピチピチと生きているのである。
いつか「オセロ」の一節を引いたり、「ヴェニスの商人」のシャイロックのセリフを関西弁で試訳してみて、その近代性の一端を紹介してみたつもりだが、もちろんそんな末梢的な問題ばかりではない。たとえば、「ヘンリー四世」、とくに第二部で見事に描かれているが、フォルスタフ一味が地方へ新兵の募集に行って、金持の子弟は賄賂をとって免除してやる。貧乏人はどしどし兵隊にする。賄賂のペンはねはする。ありもしない幽霊兵士のりすとぉつくって官金は横領する。当時の世相の一面の写実でもあったろうが、これを読みながら、最近日本でも問題になった大蔵省官吏の国有地馴れ合い払下げ事件などを考えていると、どうして4百年近くも昔の地球の裏側の世界を描いたものとは思えなくなってくる。とにかくいまの日本の新聞でも一方で読みながら、シェイクスピアを味わうなどというのも一興のはずだ。いかに彼が永久に新しく、永久にハツラツと生きているかがわかるはずである。」
(中野好夫著『シェイクスピアの面白さ』219‐228頁より)