2018年5月7日(月)雨 18.6℃~12.2℃
「戊辰の悲劇繰り返さない 鼎談(ていだん)」
講演に続き、松平保久さん、東京会津会会長柳沢秀夫さん、作家の中村彰彦さん3人の鼎談。
松平さんは「先人は会津人としての生きざまを守った。末裔として歴史に誇りを持てると強く感じる」と述べた。百五十年の節目に西軍(新政府軍)側の地を訪れたことに触れ、「歴史認識の違いを埋めつつ、後世にどう伝えるか考える機会機会になった」と振り返った。
柳沢さんは会津藩の精神の根底は「愚直」だと指摘した上で、「生きざまを通そうとしてやらなくていい戦争をやることになったのではないか。戦いを避け、平和を保つために通じるものが歴史にはあるはずだ」と語った。
中村さんは百五十年前の様々なエピソードに触れ、「会津藩を知れば、江戸時代全般の歴史を学べる。会津からは奥行きや味わいを感じる」と語った。
3人の話から歴史はややもすると勝者(東軍)側から語られ作られることが多いが、敗者(東軍)側からもみなければ何が正しいのかわからない。
話題になったことからもっともっと知りたいことがたくさんあった。

〇本当に会津は賊軍? 薩長土肥や公家は官軍?
〇鶴ヶ城は落城でなく開城である。
〇京都御所を長州が攻めた蛤御門の変は禁門の変
〇世良修蔵暗殺事件
〇秋月悌次郎の外交手腕と活躍、北越潜行の詩、
〇敗戦後の移転先は猪苗代でなくなぜ斗南藩だったのか
〇山川大蔵、山川健次郎、柴五郎、大山咲子等の活躍
この他 まだまだあったのですがメモを取っていなかったので思い出すまま書いてみました。
これ等の疑問を少し解決してくれるブログが宮城県の「のり坊」異人列伝に”鶴ヶ城の開城”があったのでお借りしました。
『 会津地方を支配する城としての落城は、伊達政宗に攻められた芦名氏時代の黒川城の落城が最初にして最後で、以後、政宗は仙台に去り、蒲生氏郷が城下町を形成し鶴ヶ城の原型を築いた。以後、会津には落城はない、とするのが会津人の気持ちである。
したがって、戊辰のいわゆる会津戦争に於ける敗北も、城に敵兵の乱入を許したのでも、城主・城兵の敗走・自害の上の落城とはわけが違い、武装恭順という武門の名誉を貫いた上での開城だというのである。...
刀折れ矢尽きての落城と、名誉ある開城は大きな違いである。殊に会津藩主従の選択には、戊辰戦争そのものへの懐疑と批判があった。もともと勤皇と佐幕という色分け自体が、会津藩にとっては納得出来なかったし、現代でもその間違いが意図的かどうか踏襲されているところに、黙視できないものがある。勤皇とは、天皇に忠義を尽くすことである。薩摩や長州が勤皇で、会津が佐幕であり、即ち賊軍とする論法はまやかしだった。錦旗を一夜で作って掲げたから、薩長が官軍になり、その旗には発砲出来ないから敗北したために賊軍にされてしまった会津藩。
...だが、本来会津藩には、天皇に刃向かうなどという気はさらさらない。むしろ、儒教精神と武士道精神により、天朝への尊崇が厚く、余りにも純粋な勤皇だったゆえに、奸寧邪悪の薩長と藤原時代を夢見る反幕公卿にしてやられたのである。
何度も固辞したが、福井藩主で政治総裁たる越前春嶽などから懇願・哀願されて京都守護職を引きうけた松平肥後守容保だったが、京へ赴任して、思いがけなく、孝明天皇の親任を得た。 後略 』
「戊辰の悲劇繰り返さない 鼎談(ていだん)」
講演に続き、松平保久さん、東京会津会会長柳沢秀夫さん、作家の中村彰彦さん3人の鼎談。
松平さんは「先人は会津人としての生きざまを守った。末裔として歴史に誇りを持てると強く感じる」と述べた。百五十年の節目に西軍(新政府軍)側の地を訪れたことに触れ、「歴史認識の違いを埋めつつ、後世にどう伝えるか考える機会機会になった」と振り返った。
柳沢さんは会津藩の精神の根底は「愚直」だと指摘した上で、「生きざまを通そうとしてやらなくていい戦争をやることになったのではないか。戦いを避け、平和を保つために通じるものが歴史にはあるはずだ」と語った。
中村さんは百五十年前の様々なエピソードに触れ、「会津藩を知れば、江戸時代全般の歴史を学べる。会津からは奥行きや味わいを感じる」と語った。
3人の話から歴史はややもすると勝者(東軍)側から語られ作られることが多いが、敗者(東軍)側からもみなければ何が正しいのかわからない。
話題になったことからもっともっと知りたいことがたくさんあった。

〇本当に会津は賊軍? 薩長土肥や公家は官軍?
〇鶴ヶ城は落城でなく開城である。
〇京都御所を長州が攻めた蛤御門の変は禁門の変
〇世良修蔵暗殺事件
〇秋月悌次郎の外交手腕と活躍、北越潜行の詩、
〇敗戦後の移転先は猪苗代でなくなぜ斗南藩だったのか
〇山川大蔵、山川健次郎、柴五郎、大山咲子等の活躍
この他 まだまだあったのですがメモを取っていなかったので思い出すまま書いてみました。
これ等の疑問を少し解決してくれるブログが宮城県の「のり坊」異人列伝に”鶴ヶ城の開城”があったのでお借りしました。
『 会津地方を支配する城としての落城は、伊達政宗に攻められた芦名氏時代の黒川城の落城が最初にして最後で、以後、政宗は仙台に去り、蒲生氏郷が城下町を形成し鶴ヶ城の原型を築いた。以後、会津には落城はない、とするのが会津人の気持ちである。
したがって、戊辰のいわゆる会津戦争に於ける敗北も、城に敵兵の乱入を許したのでも、城主・城兵の敗走・自害の上の落城とはわけが違い、武装恭順という武門の名誉を貫いた上での開城だというのである。...
刀折れ矢尽きての落城と、名誉ある開城は大きな違いである。殊に会津藩主従の選択には、戊辰戦争そのものへの懐疑と批判があった。もともと勤皇と佐幕という色分け自体が、会津藩にとっては納得出来なかったし、現代でもその間違いが意図的かどうか踏襲されているところに、黙視できないものがある。勤皇とは、天皇に忠義を尽くすことである。薩摩や長州が勤皇で、会津が佐幕であり、即ち賊軍とする論法はまやかしだった。錦旗を一夜で作って掲げたから、薩長が官軍になり、その旗には発砲出来ないから敗北したために賊軍にされてしまった会津藩。
...だが、本来会津藩には、天皇に刃向かうなどという気はさらさらない。むしろ、儒教精神と武士道精神により、天朝への尊崇が厚く、余りにも純粋な勤皇だったゆえに、奸寧邪悪の薩長と藤原時代を夢見る反幕公卿にしてやられたのである。
何度も固辞したが、福井藩主で政治総裁たる越前春嶽などから懇願・哀願されて京都守護職を引きうけた松平肥後守容保だったが、京へ赴任して、思いがけなく、孝明天皇の親任を得た。 後略 』