会津の重ちゃん日記

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戊辰150年 その3

2018-05-08 09:28:11 | Weblog
2018年5月13日(日)曇・雨 18.3℃~11.3℃
「西郷隆盛はどんな人物? 」

 NHKの大河ドラマ西田敏行主演「1990年 翔ぶが如く「西郷隆盛」や鈴木亮平主演の「西郷どん」を視聴すると、薩摩藩の中で紆余曲折しながら頭角を現し、幕末から明治への激動で活躍した重要な人物である。また、上野公園の犬を連れた銅像をみると温厚な人物にみえる。


 
『幕末ガイド』によると
薩摩藩内では下級武士であったが、稀代の名君・島津斉彬に見いだされ、強い影響を受ける。斉彬の亡き後、藩の実権を握った島津久光とは折り合わず、2度の島流しにあうなど、順風満帆な出世ではけしてなかった。小松帯刀や大久保利通の尽力により藩政に復帰した後は、緊迫する日本の政情の中で、禁門の変、長州征伐、薩長同盟、王政復古、戊辰戦争、江戸城無血開城など主要な局面でことごとく活躍。大久保利通とともに、政局を主導する。明治維新後は、いったん薩摩に帰郷、隠遁生活を送るが、新政府側の強い要請により参議として政界に復帰。また陸軍大将および近衛都督を兼務することで、日本の軍隊の最高責任者となる。明治6年の征韓論では、盟友であった大久保利通との政戦に敗れ下野。ふたたび鹿児島に戻り、教育に力を注ぐ(私学校)。私学校生徒の暴動に端を発した西南戦争(明治10年)では、指導者として担ぎ上げられるが、敗北。自刃する』
 西郷隆盛は幕末の偉人として評されている。



 別な面から西郷隆盛の動きをみてみると、
 禁門の変では御所を襲った長州藩(朝敵)を、蛤ご門では会津藩と共に打ち破った。
 それが、孝明天皇36歳の急な崩御(暗殺説あり)により、政局が動いた。
 松平慶喜将軍の大政奉還、薩摩藩が長州藩と手を結び、西郷隆盛は武力によって幕府軍を倒そうと考えた。
 そのため、自身の息のかかった志士たちに命じて江戸で強盗や放火などの挑発行為を行わせ、旧幕府軍を挑発し、旧幕府軍が薩摩を攻撃するように仕向けた。現代から見てもあまり綺麗な方法ではない。
 
 これらの行為に激怒した旧幕府軍は、江戸の薩摩藩邸を襲撃した。
 西郷の思惑通り、旧幕府側が先に薩摩藩へ戦争をけしかけたという既成事実を取れたため、その後は新政府軍と旧幕府軍による戊辰戦争へ発展していった。結果的に新政府軍が政権を取ったため今もクローズアップされることはあまりない。戊辰戦争はテロ行為といえるのではないか。

 
江戸城では慶喜から後始末を命じられた勝海舟や、薩摩出身の篤姫、皇室出身の和宮親子内親王(かずのみやちかこないしんのう)などが新政府軍との折衝に当たった。これに西郷隆盛が応じたことにより、江戸城は血を流すことなく新政府軍へ明け渡された。
 これは、荒れ果てた京都から遷都するには好都合となった。それまで考えて江戸で大きな戦いはしなかったのだろうか。上野の山では小競り合いがあったが・・・。