あかない日記

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無教会主義者 内村鑑三

2021-03-23 | 人物忌

NHK「100分de名著」から

 

3月23日は 
  キリスト教思想家 無教会主義者

 内村 鑑三 が亡くなった日

内村鑑三は

1861(万延2)年 
 高崎藩士・内村宜之の長男として
 江戸小石川に生まれる。

 鑑三の名は 三度自己を鑑みるという
 意味で父が名付けたと言われる。
1874(M7)年
 東京外国語学校(のち東京大学予備門)に入学。

1877(M10) 年
 札幌農学校第2期生として入学許可。

 東京外国語学校から札幌農学校にかけて
 新渡戸稲造  宮部金吾と同級になり
 終生の友となる。

1878(明治11) 年
 メソヂスト監督教会宣教師
 メリマン・C・ハリスより受洗。

 卒業後  開拓使御用係、
 農商務省農務局水産課に勤める。
1884(M17)
 役所を辞職し  米国に私費留学する。

 フィラデルフィア郊外の
 障害児養護学校に勤務し
 弱者への心を学ぶ。

 その後ペンシルベニア大学で
 医学と生物学を学ぶ

1885(M18) 年
 新島襄の勧めでマサチュセッツ州
 アマースト大学3年に編入、
 伝道者になる道を選ぶ。

 続いて神学校に入学するも
 神学教育に失望し退学
1888(M21) 年
 帰国後 第一高等中学校在職中

1891(M24)
 教育勅語奉読式で
 「不敬事件」を起こし職を辞す。

 この頃から 執筆活動を開始し
 ・「基督信徒の慰め」(1893)
 ・「求安録」(1893)
 ・「余は如何にして基督信徒となりし乎」
  (1895・後の「代表的日本人」)
 などを著わす。

1897(M30)年
 「万朝報」の記者になり

 幸徳秋水、堺利彦らとともに
 社会評論家としても世間で
 名が知られるようになる。

1898(M31)年
 「東京独立雑誌」を創刊

1900(M33)年
 個人雑誌「聖書之研究」を創刊

1901(M34)年
 「万朝報」が結成した
  「理想団」には幹部として参加し

 足尾鉱毒事件では
    鉱毒反対運動にかかわるなど

 社会運動家 としても活躍する。
 また「無教会」を創刊し
    無教会主義を創唱。

 生涯  平信徒として聖書の研究と
    執筆活動をつづけた。

1903(M36)年
 日露戦争を機に「非戦論」を展開し

 幸徳秋水  堺利彦らとともに
 「万朝報」を退社。

 内村の社会的活動は
 この時期をピークとして
 徐々に影を潜める。

1918(T7)年
 キリスト再臨信仰に基づく
    再臨運動を開始。

1930(S5)年3月28日
 心臓病で死去。 69歳

 

 

 著書「代表的日本人」で取り上げた5人 (NHK「100分de名著」から)

 

 

 



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