あかない日記

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儒学者 藤田東湖

2021-03-28 | 人物忌

「藤田東湖護母致命の処」(後楽1-3-40・東京都指定旧跡)

 

NHK大河ドラマ「青天を衝け」第5話
(2021/03/14)が放送され

徳川斉昭の側近・藤田東湖が 
江戸の地震で亡くなった場面があった。

 

江戸地震は
安政2年10月2日(1855年11月11日)に
発生した安政の大地震であり 

その地の説明文には

「 幕末の儒学者 藤田東湖(1806-55)は
水戸藩士で 藩主徳川斉昭の信任も、
きわめてあつかった。

弘化元年(1844)藩政改革に尽力したが、
遂にそれが幕府の疑惑をまねき、
斉昭は謹慎に、東湖は蟄居の身となった。

後に許され、斉昭は藩政に復帰し、
東湖は江戸詰を命ぜられ、
小石川の水戸上屋敷に住み、
側用人になった。

安政2年(1855)の大地震がおこり、
藩邸が倒壊した。

東湖は母を助けて外に出たが、
母がその時、火鉢の火が危ないと、
再び屋内に引きかえした。

東湖は母を救い出そうと
家にもどった時鴨居が落ちてきた。

東湖は老母を下に囲い、肩で鴨居を支え、
かろうじて母を庭に出した。

しかし、東湖は力つき、
その下敷きとなって圧死した。

その場所は白山通りで、
そこに記念碑があったが、
拡幅工事のため道の中になってしまった。

そこでこの碑は、
後楽園庭園内に移された。 


文京区教育委員会 平成11年3月  」

 

*なお 母を助けた話は諸説あるようで
 NHKのシーンでは母の話には触れていない。

*また母親・梅子は
 1867(慶応3)年に87歳で亡くなっている。

 

藤田東湖は

1806(文化3)年
 水戸城下の水戸学者藤田幽谷の
 次男として生まれる。名は彪  東湖は号

1827(文政10)年 
 家督を相続し 進物番200石となる。
 その後は 水戸学藤田派の後継として
 才を発揮し彰考館編集や
 彰考館総裁代役などを歴任する。

 また  当時対立していた立原派との
 和解に尽力するなど水戸学の大成者となる。

1829(文政12)年
 水戸藩主継嗣問題では
 徳川斉昭(1800-1860)派に与し

 同年の斉昭襲封後は 郡奉行
1831(天保元)年
 江戸通事御用役、御用調役と昇進

1840(天保11)年
 側用人として藩政改革にあたるなど
 藩主・斉昭の絶大な信用を得る。

1844(弘化元)年 
 斉昭が隠居謹慎処分を
 受けると共に失脚し 禄を剥奪される。

1846(弘化3)年 
 斉昭が謹慎解除されるとそれまでの
 責めを受け江戸屋敷に幽閉
 翌年 謹慎処分となる。

1850(嘉永3)年
 水戸に戻ることを許され、

1852(嘉永5)年 処分を解かれている。
1853(嘉永6)年 
 ペリーが浦賀に来航し、
 斉昭が海防参与として幕政に参画。

 東湖も江戸藩邸に召し出され、
 幕府海岸防禦御用掛として再び斉昭を補佐する。

1854(安政元)年
 側用人に復帰

1855(安政2)年
 大地震により圧死 享年50

 

追:1853年のペリー来航に際し
 東湖は 
松代の三山の一人
 山寺常山 と対応策を画策している。
 山寺常山については 当ブログ
 信州紀行松代町9(2016/7/26)触れている。

 

   (参考:ウィキペディア ほか)



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