前回の伊藤左千夫と蓼科山で
左千夫の「蓼科山歌」10首
について触れたので挙げてみた。
〇思ひこひ生の緒かけし蓼科に
上野老いのこもりを許せ山衹
(やまつみ)
〇朝露のわがこひ来れば
山祇のお花畑は雲垣もなく
〇久方の天の遥けく朗かに
山晴れたり花原の上に
〇秋草は千草が原と咲き盛り
山猶蒼し八重しばの山
〇信濃には八十の高山ありといへど
女の神山の蓼科われは
〇吾が庵をいづくにせんと
思いつつ見つつもとほる天の花原
〇空近く独りいほりにて秋の夜の
澄み極まれる虫の音に泣く
〇山深み世に遠けれや虫の音も
数多は鳴かず月はさせども
〇淋しさの極みに堪て天地に
寄する命をつくづくと思う
〇草の葉の露なるわれや群山を
我が見る山といほり居るかも
1909(己酉・明治42)年8月26日
伊藤左千夫と蓼科とのかかわりは
弟子の篠原志都児が
この地の出身で 伊藤左千夫や
平福百穂を蓼科親湯温泉へ
誘ったことが機となった。
左千夫はここ蓼科が気に入り
「蓼科山歌」10首を詠み
弟子の篠原志都児に与えた。
左千夫が亡くなる
4年前のことであった。
その後、左千夫を中心に
この地で歌会が
開催されるようになり
左千夫を通じて
島木赤彦 斎藤茂吉
土屋文明 高浜虚子
柳原白蓮 をはじめとした
多くの文人歌人達が
蓼科親湯温泉の歌や俳句を
詠んでいる。
1939(昭和14)年1月
太宰治は 井伏鱒二の紹介により
山梨で女学校の教師をしていた
石原美知子と見合いをし
結婚した。
その新婚旅行先が
ここ蓼科の温泉であった。
左千夫は 新婚旅行先まで
面戸を見ていたとは・・・
(参考:蓼科親湯温泉HP)
蓼科の白樺林
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