必死にビザを書き続けた執務机
ビザとリストが置かれている、
入館して まず ビデオ「葦のようにしなやかに」を見る。
このビデオは 杉原千畝の故郷
岐阜県八百津町有志が制作したものだった。
内容は千畝の生い立ちから
1900年1月1日八百津町で生まれ
早稲田大学在学中の1919年に
外務省の試験に合格し 外交官となった。
その赴任先 リトアニア共和国領事代理時代の
1940年7月18日早朝、
この日本領事館前に突然人垣ができた。
(Abs朝日「昭和偉人伝」から)
当時 ナチスは欧州全土からユダヤ人を迫害しており
ポーランドからリトアニアに逃れたユダヤ人が生きる道は、
唯一シベリア鉄道を使って日本を経由して
海外・米大陸などに向かうしかなかった。
そのため “日本の通過ビザ” の発給を求めてきた人々だった。
そこで 日本政府の指図に背きながらも
何とか彼らの命を救いたいと思う
人道的な気持ちから独断でビザを発給する。
それは領事館を退去するまでの約1カ月間
ビザを書き続け 2,193人ものビザを発給した。
これによって実際に第三国に逃れた
ユダヤ人は約6000人を超えるという。
ビデオ見た後 館内の資料展示物を見て回る。
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