あかない日記

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9代目市川團十郎

2020-09-14 | 人物忌

9代目市川團十郎像 「暫」 (台東区浅草寺)



9月13日は

9代目市川團十郎が亡くなった日。

九代目 市川團十郞 は
明治時代に活躍した歌舞伎役者。

1838(天保9)年に江戸に生まれる。

7代目市川団十郎の5男で
本名は堀越秀(ひでし)。

生後まもなく
6代目河原崎権之助の養子となる。

1852(嘉永5)年
  初代河原崎権十郎を襲名

1854(安政1)年
   兄の8代目団十郎が自殺

1861-62(文久2-3)年
 「勧進帳」「助六」初演

1868(明治元)年
   養父の権之助が強盗に刺殺される。

1869(明治2)年
   7代目河原崎権之助を襲名

1873(明治6)年
   河原崎三升を名乗る。

1874(明治7)年
   河原崎座を芝新堀町に 
   新築開場を機に市川家に復帰して

   9代目市川団十郎を襲名。
1876(明治9)年
 12代目守田勘彌に
   招かれて新富座に出演。

1877(明治10)年以降
 「活歴物」に注力

1887(明治20)年
 天覧歌舞伎開催

1889(明治22)年
 歌舞伎座が開場

 5代目尾上菊五郎 
   初代市川左団次とともに「団菊左」で
  明治歌舞伎の黄金時代を築く。

1897(明治30)年
 養子に迎えていた5代目市川新蔵が急死

1903(明治36)年9月13日
 急性肺浸潤に尿毒症を併発して死去。
   享年64.

9代目は
演劇改良運動に意欲を燃やし
史実を忠実に舞台にあげようとする
「活歴」を創始するなど様々な活動した。

その数多い功績から
「劇聖」(げきせい)と謳われ

また歌舞伎の世界で単に
「九代目」というと、
通常はこの九代目 市川團十郎のことをさす。

父7代目団十郎の
「歌舞伎十八番」制定の遺志を継いで
活歴物 松羽目物のなかから
「紅葉狩」「鏡獅子」など
得意芸を集めた「新歌舞伎十八番」を
選定している。


活躍した舞台跡が 
東京・中央区と港区にある。


説明文には

「新富座跡
所在地 中央区新富2丁目6番1号
新富座は万治3年(1660)
木挽町五丁目(現在の銀座6丁目、
昭和通り西側)に創建された
「森田座」を引き継ぐ
歌舞伎の劇場でした。

森田座は代々森田勘弥(かんや)が座元で、
天保14年(1843)浅草猿若町
(現在の台東区浅草)に移り、
安政5年(1858)に「守田座」と改めました。
明治5年(1872)には、
守田座12代勘弥が新富町に移転進出し、
同8年(1875)に「新富座」と改称しました。

新富座は市川団十郎・尾上菊五郎
・市川左団次などの名優を集めて
積極的な興行を行いました。
劇場は近代的な様式を取り入れた
大規模な建物で
「東京第一の劇場」と称され、
周辺には歌舞伎関係者が多く居住し、
一帯は芝居町となっていました。

明治22年(1889)に歌舞伎座が開場するまで
芝居興行の中心的存在でしたが、
大正12年(1923)の
関東大震災で焼失しました。

明治期の錦絵には海鼠壁(なまこかべ)の
上に絵看板を並べた大劇場の様子が見え、
往時の繁栄ぶりがうかがえます。

平成16年3月
  中央区教育委員会 」

 
港区芝2丁目

説明文には

「河原崎座跡地
(7代目河原崎権之助が
現在地に開場した
河原崎座において、

明治7年7月9代目市川團十郎を襲名す。
河原崎座は、その後新堀座等に
改称したが、

明治18年11月に廃座となる。」

 

 



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