豊坂(文京区目白台)
6月10日は 詩人 歌人 随筆家の
大町桂月 がなくなった日
大町桂月(1869・M2-1925・T14)は
高知市 元土佐藩士 大町通の三男として生まれる。
名は芳衛。
1896(M29)年 東京帝国大学国文科卒業
1899(M32)年 島根県で中学教師として奉職
1900(M33) 年 博文館に入社
1906(M39)年 退社
1913(T2)年 出版された「人の運」は
処世訓集としてベストセラーとなる。
和漢混在の独特な美文の紀行文は広く読まれた。
終生酒と旅を愛し、酒仙とも山水開眼の士とも称され。
晩年は遠く朝鮮 旧満州まで足を延ばしている。
写真 豊坂の説明板には
「坂の名は、坂下に豊川稲荷社が
あるところから名づけられた。
江戸期この一帯は、大岡主膳正の下屋敷で、
明治になって開発された坂である。
坂を下ると神田川にかかる豊橋があり、
坂を上ると日本女子大学前に出る。
目白台に住んだ大町桂月は
『東京遊行記』に明治末期このあたりの路上風景を、
次のように述べている。
「目白台に上れば、女子大学校程近し。
さきに早稲田大学の辺りを通りける時、
路上の行人はほとんど皆男の学生なりしが、
ここでは海老茶袴をつけたる
女学生ぞろぞろ来るをみるにつけ、云々」
(以下略)」
*「東京遊行記」(1906・M39刊行)
雅号・桂月は地元 月の名所桂浜から。
浜には碑が置かれ
「見よや見よ
みな月のみのかつら浜
海のおもよりいづる月かげ」
の歌が刻まれている。
仏ヶ浦
桂月は 青森県の十和田湖と奥入瀬を愛し
晩年 同地の蔦温泉に居住したが
1925(T14)年 胃潰瘍のため温泉旅館で死去。
享年57
1922(T11)年 佐井村の仏ヶ浦を訪れ
「神のわざ鬼の手づくり
佛宇陀人の世
ならぬ処なりけり」と詠う。
その歌碑が仏ヶ浦極楽浜に置かれている。
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