中村不折旧宅(書道博物館・台東区根岸2-10)
6月6日は 洋画家 書道家
中村不折が亡くなった日
中村の旧宅跡が現在
台東区根岸に
「台東区立書道博物館
・中村不折記念館」としてある。
説明文には
「 中村不折は、明治・大正
・昭和初期の洋画家で書家であり、
慶應2年(1866)7月10日
江戸八丁堀に生まれた。
幼名を鈼太郎という。
少年年時代を長野で過し
明治20年(1887)上京し、浅井忠や
小山正太郎鈼に師事し、
明治美術会に出品するほか、
「小日本」新聞の挿絵なども担当していた。
明治34年(1901)から4年間
フランスに留学し、
ラファエル・コランやジャン
=ポール・ローランスの教えを受けた。
帰国後は、
太平洋画会や帝国美術院の
会員として展覧会活動を行う一方、
太平洋美術学校校長として
後進の育成にも力を入れ、
多くの逸材を育て
美術教育にも貢献した。
書道界では、書家としての活動の他に
書道博物館の創設者としても知られている。
昭和11年(1936)11月3日に
開館した書道博物館は、
中国と日本の書道史研究上重要な
コレクションを有する専門博物館で、
重要文化財12点、重要美術品5点を含む
1万6千点が収蔵されている。
昭和20年(1945)4月の空襲で
中村邸の居宅と蔵は焼失してしまったが、
博物館とその収蔵資料および
不折の胸像や石燈籠などは焼失を免れた。
不折は大正2年(1913)から
亡くなるまえまでの30年間、
この根岸の地に住んだ。
昭和18年(1943)6月6日
78歳で死去、多磨霊園に葬られた。
平成13年3月31日設置
東京都教育委員会 」
中村不折は
1866(慶応2)年
江戸・京橋八丁堀
(現:中央区湊)に生まれる。
1870 (M3) 年
明治維新の混乱を避け
父の郷里の長野県高遠(現・伊那市)へ
幼少より絵を好む。
1885(M17)年
北原安定に漢籍、
真壁雲卿に南画、白鳥拙庵に書を学ぶ。
西高遠学校授業生(代用教員)となる。
1887 (M20) 年
教師時代3年間の貯蓄を持って上京
高橋是清の館に住み込みながら
画塾「不同舎」に入門。
小山正太郞に師事し絵を学んだ。
1890 (M23) 年
第2回明治美術会展覧会に
水彩画3点を出品
1891 (M24) 年
油彩画を始め、現存する最初の
作例「自画像」を制作
1893(M26)年
第5回明治美術会展覧会に
「憐れむべし自宅の写生」ほか出品
1894 (M27) 年
正岡子規に出会う
日本新聞社の新聞「日本」の記者となり
新聞「小日本」の挿絵を担当
「小日本」126号に俳句が掲載され
初めて「不折」の名を使用
1895(M28)年
正岡子規とともに日清戦争に従軍し
中国に渡り 書に興味を持つ。
1896(M29)年
堀場いとと結婚
日本新聞社に入社し挿絵を担当
1899(M32)年
第10回明治美術展覧会に
「淡煙」「紅葉村」を出品
1900 (M33) 年
「紅葉村」が
パリ万国博覧会で褒賞を受賞
1901(M34)年
4年間フランス留学
1908(M41)年
“不折流”のデビュー作「龍眠帖」は
書道界に一大センセーションを巻き起す。
1913 (T2) 年
下谷区中根岸31番地に画室を新築
1936(S11)年
書道博物館開館
1943 (S18) 年
6月6日 死去 享年78
「龍眠帖」(ウェブサイトから)
*「龍眠帖」は
療養中リハビリの
一環として書かれたもの。
その詩は 蘇轍が龍眠山の二十の場景を
それぞれ五言絶句で詠み
計二十首からなる。
河東碧梧桐に勧められ
出版し売れきれとなるなど
当時の書道界の大きな話題となった。
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