あかない日記

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軍人 三浦 梧楼

2022-01-28 | 人物忌


   文京区小石川2丁目3番

 
1月28日は 陸軍軍人 政治家
三浦 梧楼(梧樓)(みうら ごろう)が亡くなった日

 

なぜここに 三浦梧楼の碑があるのか?

説明文には

「前文略~(三浦梧楼将軍は) 
嘗て本町会の設立にあたって
非常に力を貸して下さり、町会長に
推たいした事もあったと伝えられている。
大正15年(1926年)当地でなくなられたので、
ここに生前尽くされた将軍の偉德を偲んで
碑を建立した。 
昭和57年8月吉日 富坂二丁目町会 」

とあり 現・小石川2丁目が終焉の地であった。

 

三浦梧楼は 

日本の武士、陸軍軍人、政治家
最終階級は陸軍中将 
栄典は従一位勲一等子爵 号は観樹


1847(弘化3)年
 長州藩士の陪臣・五十部吉平の
 5男として生まれ

 長州藩の藩校・明倫館で学び
 その後、奇兵隊に入隊して
 第2次長州征伐や戊辰戦争に参加した。

1871(M4)年
 兵部省に出仕し、兵部少丞から陸軍大佐、
 陸軍少将と昇進し、
 東京鎮台司令長官となった。

1873(M6)年
 陸軍省第3局長となり、
 台湾出兵には反対している。

1876(M9)年 
 前原一誠が起こした
 萩の乱の際には、その鎮圧を担当

1877(M10)年
 西南戦争では30歳で
 別働第3旅団長に就任し、
 九州各地を転戦し、

 城山(鹿児島城)を陥落させた。
1878(M11)年
 陸軍中に昇進、西部監軍部長に。 

 長州勢では井上薫と伊藤博文が
 明治政府に入り、山縣有朋と
 三浦梧楼が軍部を担っていたが、

 薩摩藩・長州藩といった
 藩閥政治には反対したと言う。

 三浦梧楼は山縣有朋と奇兵隊時代から
 不仲であり、谷干城・鳥尾小弥太
 ・曾我祐準らとともに反主流派を
 形成した「月曜会」の中心人物として
 山縣有朋・大山巌らと対立した。

1881(M14)年
 開拓使官有物払下げ事件では、
 谷干城・鳥尾小弥太・曾我祐準と連名で

 議会開設及び憲法制定を訴える建白書を
 提出したため、翌年には
 陸軍士官学校長に左遷されている。

1885(M18)年
 陸軍卿・大山巌と共にヨーロッパの
 兵制を視察し、翌年に帰国

 そして、陸軍改革の意見書を提出したが、
 翌年には熊本鎮台司令長官に左遷されたため、

 就任を拒否してまもなく休職し、
1887(M21)年
 予備役に編入
 
 なお、1887(M21)年から
 1892(M25)年まで
 学習院の院長兼宮中顧問官を任官
1890(M23)年
 子爵による互選で貴族院議員に
 選出されたが、翌年には辞職
1895(M28)年
 日清戦争後の日韓関係が
 ギクシャクする中で、
 井上薫に代わって
 駐朝鮮特命全権公使に就任

 公使館付武官であり朝鮮政府軍部顧問の
 楠瀬幸彦中佐や、「漢城新報」社長の
 安達謙蔵らの協力を得る。
1895(M28)年
 閔妃暗殺を指揮したとされ(乙未事変)、
 事変後、関与したとされる他の日本人と
 ともに日本に召還され、広島にて投獄された。
 事件は一国の公使が在任国の宮廷にて、
 王族を殺害するという前例のない
 出来事であったが

1896(M29)年
 広島地裁や軍法会議の結果、
 証拠不十分として日本人関係者は
 全員無罪となり釈放された。

 その為、朝鮮では最初の反日武装闘争
 である義兵闘争が起こる要因となり、
 ロシアが朝鮮に介入する事となり、
 日露戦争に発展した。
1908(M41)年 後備役
1910(M43)年
 桂太郎首相の要請を受けて枢密顧問官に就任

 伊藤博文亡き後の大正期には
「藩閥打倒」を訴え、
 政界の黒幕としても活動。

 政党政治期の1916(T5)年と
 1924(T13)年の2度にわたって、
 対立する政党間の
党首会談を
 仲介するなど精力的に活動し
「護憲三派」結成にも貢献している。

 
1926(T15)年 死去81歳。

参考: ウキペディア

 



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