センテンドレのなかで一番高いところにある教会が
プレーバーニア教会であり
通称「丘の上のカトリック教会」と呼ばれる。
セルビア正教教会ばかりしかないような
センテンドレの街の中では
唯一残っているカトリック教会である。
しかし 夕暮れ近く 丘の上とはいえ うす暗くなり
教会脇には 痛ましいイエス様のお姿を見て
少々寒気を感じ 早々に丘を下る。
センテンドレのなかで一番高いところにある教会が
プレーバーニア教会であり
通称「丘の上のカトリック教会」と呼ばれる。
セルビア正教教会ばかりしかないような
センテンドレの街の中では
唯一残っているカトリック教会である。
しかし 夕暮れ近く 丘の上とはいえ うす暗くなり
教会脇には 痛ましいイエス様のお姿を見て
少々寒気を感じ 早々に丘を下る。
セントドレの路地
街の住居は 1階または2階建で
家の壁は鮮やかな色が使われている。
屋根瓦の色は茶色系である。
お土産店が建ち並ぶ通りを歩き
軽井沢の町を思わせたが
本通りから横丁に入ると石畳の路地は
人一人ぐらいが通れる幅で
入り組んでいてまるで迷路のようだ。
また石畳の路地を歩いていて
”フェルメールの小路”ではないが
遠い昔の こんな狭い路地で
遊んでいたことを思い出した。
。
5本の道が集まる町の中心地の中央広場に建つ
セルビア正教のブラゴヴェシュテンスカ教会
この町のメイン・イメージにもなっている。
1754年に建築家アンドラーシュ・マイエルホファーによって
セルビア正教会として建てられた。
ハンガリー人は主にカトリックだが
15世紀にオスマン・トルコの攻勢から逃げてきた
セルビア人が この地に定住し
セルビア人はオーソドックス(正教)派であることから
この町の教会はオーソドックス教会が多く
セルビア系の文化・宗教が色濃い町になっている。
ブダペストから北へ20km ドナウ川の西岸
ドナウベントで一番の観光地「センテンドレ」へ。
「センテンドレ」という名前は 11世紀に12使徒の一人
聖アンドリュー(ハンガリー語でセント・エンドレ)に
捧げる教会が建てられたことに由来している。
旧市街は、18・19世紀の雰囲気を漂わせており
また多くの芸術家に愛されアーティストの町にもなっていて
民芸品店 アンティーク店 ハンガリー刺繍の店などが
軒を並べている。
車窓からヴィシェグラード要塞を望む
エステルギムを後に ドナウ川に添ってバスが行く
ドナウ川が直角に曲がっている様子が
見える町 ヴィシェグラードを通る。
車窓からは標高315mの山の上に
13世紀に築かれた要塞が見える。
ヴィシェグラードとは”高い城”という意味で
町のシンボルになっている。
15世紀に ここを訪れたローマ教皇の使者が
「地上の楽園」と手紙にしたためたヴィシェグラードには
部屋数350室、3階建て、赤大理石の噴水に彩られた
ルネサンス時代の王様マーチャーシュ王(1458-1490)の
大宮殿があったそうで 13世紀に築かれた5層の
シャラモンの塔には建設当時の泉や彫像が残されている。
塔は 造営当初の完全な形で現在も残しており
中欧で最大のロマネスク様式の居住用の塔で
今でも 中庭で中世の戦闘ショーが開かれているそうだ。
マーリア・ヴァレーリア橋を望む 手前の建物はキリスト教博物館
大聖堂の裏(ハンガリー側)から見えるドナウ川には
全長500mの「マーリア・ヴァレーリア橋」が架り
対岸には スロヴァキアのシュトロヴォの町が望める。
マーリア・ヴァレーリア(エリザベート皇后の4男の名)橋は
第二次世界大戦中の1944年に ドイツ軍が撤退するにあたり
この橋を爆破して消滅させてしまった。
その後 戦争の悲惨さを忘れないため長い間 残骸のままであったが
冷戦時代も終わり 1995年架橋100周年に際し
川をはさむ両国からEUに対し 架橋の請願がなされて
2001年 復旧完成している。
かつては 対岸に渡るにはパスポートが必要だったが
現在は 「平和の架け橋」として
自由に往来できるようになっている。
今まさに ロンドンオリンピックでは
日本アスリートの”栄光への架け橋”が
いくつか架けられようとしているが・・・!
大司教バコーツ・タマーシュのため
1506年創建されたバロック様式の礼拝堂。
ルネサンス期の建築物としてはイタリアを除く
全ヨーロッパのなかで最古のもの。
中央の額に入っているのはマリア様の像で
銀色の洋服を着ているが この銀の洋服は
両側の額の中に納められている人の
躯体の一部や臓器を模った銀細工を溶かして作ったもので
以前は病気の平癒のお礼として躯体の一部や
臓器を模った銀細工を寄進していたという。
トルコの占領時代は バコーツ礼拝堂を高く評価し
モスクとして130年間使用されて破壊は免れている。
宗教的な理由 (イスラム教は偶像崇拝を禁止) から
礼拝堂の聖人像の顔が破壊されているが
一番上の女性の像は例外で、
それは母親の象徴であるマリア様の像と言われている。
1673年にトルコ人が追放されたあと
1822年からエステルゴム大聖堂の再建が計画され
残されたバコーツ礼拝堂を新たに大聖堂に
組み入れることになったと。
聖堂内 祭壇正面に飾られた
イタリアの画家グレゴレッティの作といわれる
“聖母被昇天”は 一枚のキャンバスに描かれたものとしては
世界最大級(縦13.5m×横6.0m)のもの。
また 世界中で王冠をかぶったマリア像(絵画含む)は
ハンガリーのみに許されているとのこと。
* 被昇天の "被" はイエスキリストによって
マリア様が天国へ引き上げられることを意味している。
聖堂内は十字架の形になっており
カトリック教会の基本的な造りとのこと。
また 向こう正面の2階に パイプオルガンがある。
小高い丘の上に建つエステルゴムの大聖堂
「エステルゴム大聖堂」は
キリスト教を国教と定めた初代ハンガリー国王
イシュトヴァーンによって11世紀に建立された。
その功績により国王は 1000年にローマ法王から
王冠を贈られ戴冠している。
それ以来、エステルゴムがハンガリー・カトリックの
総本山となっており この教会には
世界に155人しかいない枢機卿がおり
また ローマ法王 ヨハネパウロ2世もここに訪れている。
大聖堂は幅48m 長さ118m 高さ72mの
ハンガリ-最大の教会で 直径33.5mのド-ムを持っており
規模は、バチカン、ロンドンのセントポール寺院に次ぐ
ヨーロッパ第3位という。
後方にエステルゴムの大聖堂が見える
昼食後 ブダペストから約50km北西に位置する
「エステルゴム」に向かう。
この街は ハンガリーのなかでも最も歴史のある街の1つで
その起源は ローマ帝国の時代にまでさかのぼり
都市名は ゲルマン語の“オステルリングム” に由来している。
1000年頃 神聖ローマ皇帝オットー三世の同意のもと
ローマ教皇のシルウェステル二世からこの地の大聖堂で戴冠され
イシュトヴァーン一世が正式にハンガリー王となった。
歴代のアールバート朝アの王は この都市を王国支配の拠点とした。
現在は コマーロム・エステルゴム県の首都で約3万人が暮らしている。
来る途中 日本の自動車会社スズキの工場もあったが
エステルゴムに1990年進出している。
午前中の見学を終え 昼食は ドナウ川に架かる自由橋に近い
なかなか落ち着いた雰囲気のレストランへ
ハンガリーというと定番メニューは「グヤーシュ」 これは昨夜頂いたが
同じくパプリカが効いた「ハラースレー」は
鯉やナマズなどのブツ切りが入った魚のスープ
昼食は これを頂くことに。
ドナウ川で獲れた淡水魚を材料にしていて
長野・佐久で頂いたことのある ”鯉こく”を思い出した。
しかし 川魚なのにパプリカが効いているので臭みはない。
ハンガリーの代表的なビール”Dreher”とともに完食だった。
ロンドンオリンピックも 9日目になる。
メタル獲得も 現在 金2 銀8 銅11 とメタル獲得21個で5位に。
女性群(9個)や若手の活躍で順調だが
ここ東京・千代田区にある私立大学では
在学生や卒業生の出場を 盛んにピーアールしているが・・・・
チェコの車「シコダ」(中欧旅行・58回)に続き 車 第二弾
ブダペスト市内で見かけた
東ドイツVEBザクセンリンク社が生産していた「トラバント」という車だ。
昔のトヨタの“パブリカ”に似た車だが
生産中止後十数年を経過して 燃費が悪い 排気ガスを撒き散らすと
いわれながら まだ街で見かけるとは。
東ドイツの体制を物語る歴史的なモニュメントとも言える車でもある。
共産主義体制が崩れるとき 東側の人々が
続々とトラバントに乗って国境検問所を通過するシーンが
ニュースで流されたことがあったが。
「トラバント」とは「衛星」「仲間」「随伴者」などを意味する語。
1957年に打ち上げに成功した 当時友好国であったソ連の史上初の
人工衛星「スプートニク1号」を賞賛して命名されたそうだ。
「ゲッレールト温泉」はブダペストのブダ側
自由橋のたもと ゲッレールトの丘の麓に建っている。
この温泉は ダヌビウス・ホテル・ゲッレールト
(1918年建築・アールヌーヴォー様式の豪華なホテル)内にあり
ホテル宿泊客なら自由に入れるほか
外来客も所定の料金で入浴することができる。
館内は 大理石の柱に支えられた高いドーム天井になっていて
窓はステンドグラスがはめられ
アーチ状のガラス天井になっている。
今回の旅行で 温泉に入ることも楽しみの一つで
水着は持参してはいたが 残念ながら
入浴ならずで 外観のみであった。