だいぶ間が空きましたが、「幸せじょうずになりたいの」と「自己実現の病と、もうひとつの道」の続きです。
←おたから、子宝。
中村うさぎは、どんどん高額のブランド物を買い漁りながら、「幸せ」を探していたのだけれど、どんどんわけがわからなくなって、かえって「幸せ下手」を自認することになってしまう。そして、小倉千加子が言うところの「女の人にとって、いちばん安易でありながら、いちばん強力な自己実現」である妊娠・出産を経てなんだか満たされている(らしい)顔をしている人を見ると「悔しい」と。
しかし、実際に子どもを持った側の実感としていえば、子どもを産むこと・育てることが「自己実現」といわれてもまったくピンとこないわけで。むしろ真逆だろう、という気もするほど。
「自己実現」というものが、なりたい自分、あるべき生活というものを思い描いて、そこに向かって努力する、積み重ねていく、そしてその結果、自分の理想のあり方というものをつかみとればそれがゴール!? というようなものであるならば、それと子育てって似ても似つかない。
がんばろうが(がんばるまいが)ちっとも自分の思い描いたとおりにはならない、というのが子育て。
とりわけ、私の思い描いたものを木っ端微塵に、完膚なきまでに叩き壊してくれたのがまたろう(^^;;
私のブログを読んだ方の中で、私のことを、それぞれの子どもの個性をしっかり認めて尊重して育てている、親の思う型を押し付けようとしない、といって褒めてくださる(たいへん美しい誤解)方もいるけれど、実際のところ、私は子どもをぎっちりカタにはめようと意気込んでいた人なのである。
ただ、それがにっちもさっちもいかなくなって諦めるまでが早かった(-_-;; というだけのことで、しかもそれが早かったのは私ではなくまたろうの功績である。
もし、またろうを授からなかったら、あるいは、授かったとしても子どもの順番がはなひめ・こじろう・またろうの順だったとしたら、私の感慨も人生観もずいぶん違ったものになったのでは?
実際には、またろうが生まれ、そしてこじろう、はなひめと続いて、
「子どもは、親が思ったようにも、育てたようにも、育たない。」
ということがどうしようもなくハッキリして、
つまりは努力して幸せを目指すというような「自己実現モデル」とはあっさり袂を分かつことになり、
ただしその代わり、自分の段取りをはるかに超越したところで宝物のような時間に(ときどき)出会うようになった。
私にできることは、幸せ(自己の理想)を作り上げることではなくて、そのときどきに出会う人や出来事をあるがまま受け止めつつ、その中にある幸せを味わっていくことだった、ような気がする。
それと、またろうが教えてくれたことは、人と人とがかかわるということが根源的な喜びであるということ、それから、焦らないということ。もっとも、後者についてはまだあんまりうまく習得できないでいるんだけれど(^^;;
結局のところ、「自己実現の病」の破壊と創造。というようなことが鍵なのかなぁと思う。
あと、子育てと、「幸せじょうず」の関連で思い当たることは、身体感覚の回復ということ。
大人ばかりで暮らしていれば、わりとバーチャルというか泥臭いことから離れたところで用が済んでしまうんだけど、子どもが生まれると、ぐちゃぐちゃどろどろと家事が増え、突然リアルに引き戻される。身体感覚のそばで暮らしているときって、あんまり意味不明なところ(オウムとか)にはからめとられにくいと思うんですよね。
子育てに限らないとは思うけれど、とにかく何かのきっかけで自己実現ロードから離れるときに、幸せじょうずへの道が開けることがあるんじゃないだろうか。
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またろうのイラスト、好評です(^^)
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しかし、実際に子どもを持った側の実感としていえば、子どもを産むこと・育てることが「自己実現」といわれてもまったくピンとこないわけで。むしろ真逆だろう、という気もするほど。
「自己実現」というものが、なりたい自分、あるべき生活というものを思い描いて、そこに向かって努力する、積み重ねていく、そしてその結果、自分の理想のあり方というものをつかみとればそれがゴール!? というようなものであるならば、それと子育てって似ても似つかない。
がんばろうが(がんばるまいが)ちっとも自分の思い描いたとおりにはならない、というのが子育て。
とりわけ、私の思い描いたものを木っ端微塵に、完膚なきまでに叩き壊してくれたのがまたろう(^^;;
私のブログを読んだ方の中で、私のことを、それぞれの子どもの個性をしっかり認めて尊重して育てている、親の思う型を押し付けようとしない、といって褒めてくださる(たいへん美しい誤解)方もいるけれど、実際のところ、私は子どもをぎっちりカタにはめようと意気込んでいた人なのである。
ただ、それがにっちもさっちもいかなくなって諦めるまでが早かった(-_-;; というだけのことで、しかもそれが早かったのは私ではなくまたろうの功績である。
もし、またろうを授からなかったら、あるいは、授かったとしても子どもの順番がはなひめ・こじろう・またろうの順だったとしたら、私の感慨も人生観もずいぶん違ったものになったのでは?
実際には、またろうが生まれ、そしてこじろう、はなひめと続いて、
「子どもは、親が思ったようにも、育てたようにも、育たない。」
ということがどうしようもなくハッキリして、
つまりは努力して幸せを目指すというような「自己実現モデル」とはあっさり袂を分かつことになり、
ただしその代わり、自分の段取りをはるかに超越したところで宝物のような時間に(ときどき)出会うようになった。
私にできることは、幸せ(自己の理想)を作り上げることではなくて、そのときどきに出会う人や出来事をあるがまま受け止めつつ、その中にある幸せを味わっていくことだった、ような気がする。
それと、またろうが教えてくれたことは、人と人とがかかわるということが根源的な喜びであるということ、それから、焦らないということ。もっとも、後者についてはまだあんまりうまく習得できないでいるんだけれど(^^;;
結局のところ、「自己実現の病」の破壊と創造。というようなことが鍵なのかなぁと思う。
あと、子育てと、「幸せじょうず」の関連で思い当たることは、身体感覚の回復ということ。
大人ばかりで暮らしていれば、わりとバーチャルというか泥臭いことから離れたところで用が済んでしまうんだけど、子どもが生まれると、ぐちゃぐちゃどろどろと家事が増え、突然リアルに引き戻される。身体感覚のそばで暮らしているときって、あんまり意味不明なところ(オウムとか)にはからめとられにくいと思うんですよね。
子育てに限らないとは思うけれど、とにかく何かのきっかけで自己実現ロードから離れるときに、幸せじょうずへの道が開けることがあるんじゃないだろうか。
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