アンダンテのだんだんと日記

ごたごたした生活の中から、ひとつずつ「いいこと」を探して、だんだんと優雅な生活を目指す日記

進学校とピアニスト

2013年07月12日 | ピアノ
今日び、ピアノがうまい人は山のようにいるので、素人として、さて誰のコンサートのチケットを買ってわざわざ足を運ぶのかということになると…

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必ずしも「いちばんうまい(?)」と思う人のコンサートに行くわけではない。「うまい」というのがわかったようなわからないような、結局わからない表現であることを考えれば、この場合「いちばん好きな」というのが正しいのかと思うが、いずれにせよ、現実問題そんなにどれもこれも「聞き比べて」どれが好きかなんて判定しようがない。

だから、たまたま自分の手にひっかかる「取っ手」のあるピアニストのコンサートを聞き、気に入ればリピーターになる。そんなもんじゃないだろうか。

「取っ手」は人により様々だろうけれど、たとえばわかりやすいのでいえば、「ロンティボー一位とったイケメン」(若き日の清水和音)とか、あるいは「数奇な運命をたどった」(フジコヘミング)とか。あるいは「知り合いからチケットをもらった(押し付けられた?)」とかいう場合もあるかも。

そういうことを考えると、ピアニストとしてやっていくための条件というのは、ピアノが「うまい」のは当然として、それプラス、何か「取っ手」になるもの…ほかの人と違う、この人でなければというサムシングがないといけないということになるだろう。

「若葉会会報(筑駒同窓会誌)」の中に森下唯さんの記事があり、タイトルは「マージナル・マン(*)のピアニスト」となっている。マージナル・マンというボキャブラリーは私の中にはなかったのでぐぐってみると、「文化の異なる複数の集団に属し、そのいずれにも完全には所属することができず、それぞれの集団の境界にいる人」となっている。それはちょっと「はみだしもの」的な寂しい雰囲気を持つと同時に、創造が生まれるポジションという意味合いもあるのだろうか。その複数の集団として何を指しているのかは、記事の中で明示されているわけではないけれど、たとえば筑駒と芸大。

単に芸大を優秀な成績で卒業したからといってすんなりピアニストとして稼げるというほど世の中うまくできていないけれど、「将来設計なしに…辺鄙な場所をうろうろして」いるうちに、「アルカン」と「ピアニート」という活動の二本柱を得て、なんとかやっていけるかなというふうに思えてきたところ、らしい。

私は彼のCDを買ったけれど、それはやはりCDにショパンやベートーベンしか入ってなければおそらくそこには行き着かなかっただろう。聞いてみればピアニート公爵のショパンノク18とかかなり好みだけれど、それでも「取っ手」がなければたどり着かない。

「アルカン」は大学時代にほれ込んで、院でも研究テーマにしたものだそうだ。ピアニート公爵としての活動は「筑駒文化祭の縁日班的なノリを引きずった活動」ということで、結局その二つの世界を併せ持っているから生まれる魅力というか、要するに言葉と思考能力と教養と人脈と、ピアノの技術と音楽の力。その境界面で発電ができるということだと思う。

私がakira先生のコンサートに行くのも、小さなピアノサークルでうまくもない生徒の公開レッスンをやってくださったという「取っ手」があり、そこで語りとピアノ演奏の両方の魅力にすっかり「やられた」からなのだから、これまた進学校卒ピアニストというところが効いている。

まぁ、最初からピアニストになろうとしてツッコマや栄光にいく人もいないだろうけれど…

最終的に選ぶ進路と別の「柱」を持っているというのは、財産だ。ということは、一般的にいえると思う。

(*)…この言葉を知ったのは、筑駒の中学時代、国語の授業で、だそうだ。

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コメント (8)
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