アンダンテのだんだんと日記

ごたごたした生活の中から、ひとつずつ「いいこと」を探して、だんだんと優雅な生活を目指す日記

見る・聞くという創造性

2015年06月25日 | ピアノ
ふつうに考えて「見る」という行為は受動的なものと思われているけれど、人間の目というものは、カメラのような「そのまんま写す」機能を持ったものではない。

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網膜に像が映るところまではまぁわりとカメラ的、といえるかもしれないけれど、その後段の処理がいろいろある。ごく大雑把にいって、意味のあるものを見ようとしている、見出そうとしていると思えばいい。

逆にいえば、「意味のあるもの」以外はほとんど意識に上らない。目に飛び込んでくる画像情報はそのままではむやみやたらと膨大なもので、視野のすみっこに映るゴミのひとつひとつまで「見て」いたらまったくもって、意味のあることをやる暇なんぞはなくなってしまうだろう。

たとえば、「顔」のようなものというのに対しては、人間は特に敏感なので、脳の中にもその専用の部位があるとか…「目」とか「顔」とかはチラッと見えただけでも注意を引くようになっているのだ。生活上の必要から考えれば当然だが。

そういう、「見出す」機能を機械にシミュレーションさせてみるとこんなことが:
Google、人工神経ネットワークが見た『夢』を公開

膨大な画像を機械に「見せて」、パターンを学習させる。学習の進んだ機械にとっては、ランダムノイズの中からでも意味のあるものを見出すことができるようになるわけだ。いってみれば、人間が枯れ尾花から幽霊を見出すことができるように。

しかし、画像ばかりから学習した機械と、見るだけでなくいろんな学び方をした人間とでは、考える「意味」のありかたというのが違うので、機械が見出した「動物もどき」はなかなかに人間の発想からは大きくはみ出した代物になっている。

とはいえ、もちろん人間同士であっても、これまでの人生の蓄積というのは人それぞれ違うものなので、「見出す」ものも人それぞれ違ってくる(ロールシャッハ・テスト?)

考えてみると、「聞く」という行為もまったく同じように、それぞれの人がそれまでの人生で「学習」したものを材料にして意味のあるものを見出そうとする創造的な営みであるということができる。決して、音声の物理的特性そのものをストックしているわけではない。

空耳というか、知っている言語に強力に引き込む力があるのは周知のとおりだけれど…

そういえば音楽というものも、そこから何を見出すかは、人によって違っていたり、でも大まかなところは似ていたりするもののはずである。

「大まかなところは似ている」ということが成り立たなくては、そもそも作曲家が「いい曲」を作るなんてことがなくなってしまうわけで。これはうれしい感じ、これは悲しい感じ、これは元気な感じ、これは終わる感じ、これは意外な感じ…と、いろんな共有できる「感じ」があるから曲というものが成り立つ、ということなのだと思う。

いったい、その「感じ」の共有ってどうやって生まれたものなんだろう?? と考えると、人が視覚刺激から「目」「顔」を見出す学習が成り立つということよりも、かなり不思議なことではないかという気がする。
#…話が大風呂敷すぎて、しまえなくなっちゃった(^^;;ので尻切れで終わります

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