アンダンテのだんだんと日記

ごたごたした生活の中から、ひとつずつ「いいこと」を探して、だんだんと優雅な生活を目指す日記

「個」からアンサンブルへ

2014年04月19日 | ピアノ
先日、平日休みを取って優雅にゆっくり図書館に寄ったので(^^) めずらしくDVDを借りてみた。

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「小澤征爾 ~西洋音楽と格闘した半世紀~」

その中で、指揮者の役割って何ですか? という話があって
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楽団員が100人いたとして、それぞれの人は音楽のバックグラウンドが違って、考えも違うから、「こう弾きたい」はみんな違う。
それでは音楽にならないので、指揮者が出てきて、まぁ7割とかの人が「それでいこう」と思ってくれれば
当日の演奏は便宜上、指揮者の決めた方針で演奏する、ということ
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とかいってた。

7割!? んで、残りの人は、「しゃあねぇなぁ、今日のところは」みたいな? それでいいんですかね。

半分以上の人が、意見違ってて、「しゃあねぇなぁ」じゃ、やっぱ困るんだって。
でも、100%の人の意見が一致するというのも、不健全で、それは音楽じゃない、と小澤さんはいいます。

それぞれの人が、人間性というか、それぞれ「個」の魅力を持っていることが音楽の要だから。

指揮者が指揮をするにも、「はーい、こうやります」といって、それにただ従わせる、ってのではあまりよくない。
カラヤン先生は「invite」と表現してたそうだけれども、
それぞれの人があらかじめ自分で勉強したり、練習したりして、「こう弾きたい」というのを持ってきていたら、
それを感じ取った上で、「この演奏はこうしようとしてる」というのを示して、inviteする。

個々の演奏者が、あぁそれいいねそうしよう、とinviteに応じてくれてね、
アンサンブルとして合ってくる。
指揮者の元で。

でも、そこでは、指揮者がひとりで考えた音楽とは、微妙に違った結果になっているんですね。
inviteした側もなんらかの影響を受けているんです。コミュニケーションというか。

inviteするっていうのは、いっしょに呼吸してもらうことだとも言ってました。

おっ、ここで「呼吸」。こないだ思ったことと同じ♪

歌は、息吸わないと歌えないし、管楽器もそうだけど、バイオリンなら呼吸と関係なく弾けちゃう。でも、そういう楽器の人も含めて、自然に一緒に呼吸してもらえるようにinviteするのがいい指揮者。言葉尽くして、やたら説明してなきゃいけないのはよくないしるし。

そうそう、そうなんですよ。

私はオケで弾いたことがないから、指揮者不在の少人数アンサンブルについての話だけど。
うまく「呼吸」を合わせて何度か弾いてみるだげでもね、どんどん演奏が変わって、「音楽」になってくることがあります。友人同士のアンサンブルであれば、言葉であれこれ音楽解釈を説明することもあんまりないわけで(っつか、できませんが)、言葉ナシ、音楽だけです。それが、ちゃんとアンサンブルになっていく過程って、ほんと楽しいですよね。

それと、小澤さんがいってたこと:
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西洋音楽には非常に規則がたくさんある。
ちょっとリズム、音の高さ、とか違っててもNG
きっちりそのとおりにやらないといけない楽譜のインフォメーションがたくさんあって、そのとおりやるだけでたいへん。
小さいころからずっとその訓練をしていて、
それができると「できた」気がしちゃう。

けど、お客さんにとって大事なのはそこじゃない。

音楽を解釈した「人間」が出てこないといけない。「個」がいちばん大事。
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小澤さんがいってるのは、プロの音楽家の話が前提なので、小さいころからものすごい長時間の訓練を重ねてきて、いわゆる「楽譜に忠実に」「音楽的に弾く」ということはクリアできた場合に、その先に必要なものが「個」だということですね。

一方、超レイトスターターなアマチュアの立場からいうと、「小さいころからものすごい長時間の訓練を重ねてきて」がないので、技術的な完成というのがナイわけなんだけど、それで、「個」もなければほんとに意味なし(^^;; で、もちろん何かいいたいことがあるというのは大前提…なんだろうね。ま、うまい子どもより、たいがい人生経験はてんこもりなんだからなんかしらあるよね。あるけど、それと演奏というところが結びついていないこと、演奏技術が未熟なことがあいまって、なんだかわけのわかんない演奏になるわけだけどさ…

なんかアンサンブルで、意外にうまく合った瞬間は、いつもよりちょっと、「自分と演奏表現が結びついた」感触があって、これがアンサンブルの醍醐味(のひとつ)だと思うの。ソロの演奏をするときにも、すこーしずつ、その経験が生きてくると思うんですよね。

それにしても、その演奏技術ももうちょっとだけどうにかしろよって話だけど。


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DVDを見る暇がない人のために(?)本にしたものもあった
「小澤征爾 指揮者を語る (100年インタビュー) (単行本)」

けど、小澤さんが生で「語る」(アクション込み-笑)ところがないとわかりにくいかもしれない、という気はする。
ここのブックレビューにある「Edgeworth-Kuiper Belt」さんの感想、ほぼかぶるんだけど、
インタビュアーがさっぱりわかんない人で、なんかずれてるのがもったいないのよね。


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いよいよ最終学年

2014年04月18日 | 高専生活
気が付いたら、またろうもこじろうも最終学年(o_o) ←気が付くのちと遅い

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いや~ついこないだ、またろう&こじろうのダブル受験でブログを書き始めたような気がするのに、早い早い。

小学校の六年間はあんなに長いのに、どうして受験終了後の六年間は「あっ」ちゅう間なのか…

それにしても、三歳差だから高校受験と中学受験が重なったのはいいとして、せっかく片方は六年間、片方は五年間の(はずの)高専なのに、また最終学年が重なってるってのはどうよ。

…え?? それが嫌ならまた留年しましょうかって? それだけはご勘弁ください。

またろうもこじろうも、二月あたりにピークがくる一般大学受験組とは違って、ずいぶん手前にクライマックスが訪れるので、今はまさに正念場、のはず。

しかし。はなひめは、高三の先輩とかが怖いくらいエンジンかかって、寸暇を惜しんで勉強してるのに比べて「お兄ちゃんも受験するんでしょ?? こんなにのんびりしてていいの??」と違和感ありありらしいが、そして母も強く同意するのだが、まぁまじめな(しかも女子校の)進学校と比べてもしかたがない。ひとはひと、自分は自分ってね。

またろうとこじろうとどっちが気になるといったら、そりゃもう圧倒的にまたろう。

またろうは、進学か就職か、とにかくいろんな道が幅広く目の前に開けているようでありながら、要するに自分でどうにかしなきゃ一歩も始まらないってことで、下手すりゃニートまっしぐら。ぼやぼやしないで調査、準備、怠りなくお願いしますよっていっても、またろうは第一志望の進路を決めたらあとは悠々と春休みを過ごし、でもバックアッププランなしで新学期始まっちゃったよ、それはまずいでしょう ←いまココ

それで巻きを入れて要項取り寄せたりとか、過去問調べたりとか。

それに比べて、学校の「本流」に乗っていけばどこかおさまるべきところにおさまるであろうこじろうは、ずっと気が楽。

またろうのごたごたに加えて、こじろうの一般大学受験なんてあった日にゃー、白髪が増えるくらいじゃおさまらなかったよ。ほんとによかった…

それにしても、情報収集ならまだ手伝えるところもあるけど、勉強はもう手伝えないから、自分でやってくださいよ。


六年間、あまりに快適だったんで名残惜しい…
試合を見に行ったり、文化祭行ったり、ランチ行ったり
せいぜい、マメに楽しもうと思います。

二人とも、合ってる学校に出会えて、ほんとよかったね。

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お菓子作り、鉄のオキテ

2014年04月16日 | 生活
小さいころ、うちによく遊びに来ていた、るんちゃん(はなひめの幼馴染)から、「はなちゃんちではよく手作りおやつが出てくるね」と言われたことがありますが…

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そんなしょっちゅう作ってるわけがない(ことは、ブログ読者なら当然わかっていらっしゃるでしょうが)。

けど、るんちゃんが遊びに来てるってことは、休日で、特に用事がなくて家にいる日ということになるから、そりゃおやつを作る確率は高かったかもしれない。

非常に意外かもしれませんが、私はお菓子作りに関して「心のハードル」が低いです。つまり、ちょっと思い立って、さっと作れるってわけです。そんな、マメな人じゃないはずなのになんで!? というと、我が家には「鉄のオキテ」があるからなんです。

我が家のお菓子作り、鉄のオキテ:
・粉はふるわない
・卵の、白身と黄身を分けない。卵は半端で残さない(一個まるごと使う)
・泡立てない
・揚げない
これはもう絶対です。法律です。

そして、鉄まではいかないけど、心構え:
・買い置きしておける材料、いつも家にある材料、要するにあらためて材料を買わなくていいもの
・なるべく、レシピを見ないで作れるもの
・なるべく、計量しないで作れるもの
これは、なるべくです。レシピを引っ張り出してきて見る、確認しながら作るなんてことをするとその分、おっくうになりますからできればそれをしないでいいものを。材料がシンプルで覚えやすく、量がアバウトでも済むものがいいです。量をはかるにしても、「1カップ」とか体積で測るのはまだしも許せますが、何グラム、といって計りを出してこなきゃいけないやつはなるべく避ける。

この範囲で作るなら、たいしてめんどくさくありません。「あ、食べようかな」で、さっと作れます。

つまり、うちで作るものは
・ホットケーキ(と、そのバリエーション)
・白玉(と、そのバリエーション)
・蒸しパン(と、そのバリエーション)
が大半になります。白玉粉と、ホットケーキミックスは常備品の位置づけです。

るんちゃんが「しょっちゅう、いろいろ」作ってるように見えたのは錯覚というか、ある日は白玉で「あんこ」がかかっており(当然、あんこは缶詰)、ある日はプレーンなホットケーキ、またある日はフルーツ白玉、ある日はりんごのホットケーキだったりして、見た目で幻惑されてるだけの話です。

我が家でなんとか作れるものの「上限」は、またろうレシピのパウンドケーキということになります。私も作ることはありますが、滅多に作りません。バターは常備してないこともあるし、なにしろ計量しなきゃいけないのが私のポリシーに反するからです(何)。またろうがバターを買いに走り、またろうがパウンドケーキを作る分にはうぇるかむです。ありがたく一切れいただきます。

この、鉄のオキテを犯して、はなひめがクッキーを焼いたときは、もちろん私がすることじゃありませんから、ダメと禁止はしませんでしたが(←理性で)、私としてはそこまで手をかけておやつを作ることが許せない…とまではいわないにしても、気持ちよくないというか、なんか落ち着かない感じでした。あ、できたクッキーはおいしかったですけどね。半端に残った卵とか、粉が散らばった作業台とか、なんかイヤ。

このように、厳しいルールがある我が家のお菓子作りですが、最近この厳しい基準に合格したお菓子が現れました。
クラフティーさんです♪いぇーい!!

ホットケーキミックス50g (だいたい)
砂糖30g (だいたい)
牛乳100cc (だいたい)
プレーンヨーグルト100cc (だいたい)
卵2個 (*)

…これを、まぜて皿に流し、冷凍ミックスフルーツをばらまく。180度のオーブンで20分。

写真のクラフティーは、今日作ったものですが、実は砂糖を入れ忘れたので、食べるときに上から粉糖をぱらぱらしてみました。甘すぎなくてちょうどよかったかも。ま、そんな感じで、なんとでもなります。分量だいぶ違ってても、食べられるものになります(笑)

ほかほかを取り分けて食べるとおいしいよ(^-^)


今日は、特に用事がないのに休みを取り、といっても午前中は家で仕事してたけどorz 散歩日和の中、外に出て、郵便局、スーパー、コメダコーヒーでお昼、図書館ゆっくり回って帰ってきて、借りてきたDVDみながら文房具の棚を隅々まで整理して、クラフティー作って食べた。なんかすごーくリッチな気分になったよ。


(*) レシピは、「ぜ~んぶホットケーキミックスのおやつ」というムックを参考にしてます。ずいぶん昔に買った本だけど、次々新版が出ているところからするとわりと人気? 私のほかにも、「簡単」を身上にする人がいるのでしょう。

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下手なピアノの特徴

2014年04月15日 | ピアノ
ピアノの上手下手ってのは、ひとつには「弾ける曲の難易度」というのがあって、子どもがずらーっと出るピアノ発表会とかだと、もろ「曲の易しい順」に出てくるんですよね。

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最初が「ぶんぶんぶん」か、「かっこう」。途中くらいで、「エリーゼのために」。最後のほうで、ベトソナ一楽章とか、ショパンのワルツとか。

そういう世界では、ピアノの技量(?)を測るものさしっていうのは、「どの曲までいったか」なんだけど。
そういう世界…というのは、まぁ、昭和なピアノ教室というか。

要するに、私が小学校三年生でピアノを止めるまで、というのは、そういう感じだったんです。
で、ピアノ教師の娘なのに(^^;; そのものさしでいって、年齢より「速く」進んで行かないとなるとちょっと親の体面上もツライというか(別に親から面と向かってそういわれたわけではない。けど、なんとなくよくないだろうと思っていた。子どもながらに)

…それから三十年とか経って(少々サバ読んでますが気にしないでください)、大人のピアノサークルに出入りするようになってからは、さすがに「どの曲まで進んだ?」とかそういう価値観はないですね。うまい人が、譜面づらは簡単な曲を弾いてることもよくあるし(先生が「次はこれね」と指定するわけじゃないんだから、弾きたいものを弾けばいいわけだ)。

でも、それとは別に、ピアノがうまい下手っていう、印象は、あるよね。

ところで、この演奏をどう思いますか?
TOSANDO music CM 披露宴編 full

この「パッヘルベルのカノン」は、娘が昔、(今は亡き)お母さんに教えてもらって弾いた思い出の曲で、お父さんは、娘が家を出たあと、使われていなかったピアノのほこりを払って音楽教室の門を叩き、必死にこの曲だけ練習して、娘の結婚披露宴でこの曲を弾いたと、そういうことになっています(CMですからもちろん架空の話ですが)。

とてもよくできたCMで、「音楽教室がこんな気合の入ったCMつくるの!?」びっくりです。これで続々と団塊世代がピアノを習いに来てくれたらいいですけど、どうでしょう、習いに行くとしても、この教室に行く必然性をうたってないCMだから、ヤ●ハとか行かれちゃう可能性もあるかもね(^^;;

それはともかく、この演奏は、初心者の特徴を盛り込んで弾かれています。
・意味なくばらけるタッチ、リズム
・ところどころ音の鳴りそこね
・次を考えたり探すために空く、ちょっとした間
・途中で真っ白になって止まる
・回復途中はちょっとわやくちゃ(右と左ずれる)

けど、これは、初心者のマネをして弾かれているだけで、弾いてるのはうまい人っぽいですね。そんな気しちゃいます。なんでそう聞こえるんだろう…

確か、「101回目のプロポーズ」のときの「別れの曲」は武田鉄也自身が練習して弾いたとかじゃなかったっけ…
やっぱ、ほんとうに、レイトスターターが「その曲だけ必死に」練習したリアリティーは、なかなか、うまい人がマネしても出ないと思います。いやCMでそこまでする必要があるかっていったら、ないだろうけど。

一方、ほんとに下手な人の録音サンプルというのは出しにくいんで、とりあえずまたろうのを:
アンインストール(2010年録音)

この曲はほんとによく練習してあったんでややわかりにくいですが(笑)
次がわからなくなってちょっと間が空くより、むしろ、
意味なく次につっこんで、あるいは走って、つまり前のめりになるほうが、急に初心者っぽい雰囲気になるような気がします。

あと、左手と右手のずれとか…あと逆に、独立してなくて微妙につられているとか。

要するに、上のCMの演奏は、(意図的にずらしているところを除くと、ベースは)
・インテンポで
・リズムが正確に刻まれていて
・左手と右手が合っている
から、「ほんとの初心者じゃないだろう」感が漂うのかなと。なんとなく。

そういうことをつらつらと考えてみるに、じゃ、きっちりテンポとリズムをキメれば、多少トチるところがあっても、「脱・初心者」っぽく響くのでは!? ということを思いつくんだけれども、たとえば私のバイオリンの場合でいうと、

「だからそれが難しいんだってば」状態orz
(自分が思ったタイミングで弓が制御できない)

ってことで、あんまり役に立たない知見でした(^^;;

まぁ、それにつけても、下手な演奏だからって、つまらないとも限らないし、感動しないとも限らない。ということはよくわかります。

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科学的であるということ

2014年04月12日 | 生活
有名な数学ジョークがあって、曰く、「すべての奇数は素数である」。

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工学者は次のようにして「すべての3以上の奇数が素数である」ことを証明する。

3は素数である。
5は素数である。
7は素数である。
9は素数ではない。しかしこれは例外である。
なぜならその後に続く11も13も素数ではないか。

以上より「すべての3以上の奇数が素数である」ことが示せた。
----「役に立たない数学用語事典」より

これは、演繹的であることを好む数学者が、なんでもかんでも帰納的に論じようとする工学者を揶揄するジョークだそうだ。

別に、工学者の頭が悪いのではなくて、フィールドの性質が違うだけなんだけど。

ちなみに、この「役に立たない数学用語事典」では、「演繹法」「帰納法」についても、たいへんわかりやすくまとめられている(いやぁ、けっこう役に立つんじゃないですか?)。

ということで、数学というフィールドにおいては、「あらゆる定理や法則は、なんらかの公理からスタートして演繹的に証明されなければならない」というお作法に基づいて話が進められるので、演繹的に作られたユークリッド幾何学は2000年以上経ってもゆらぐことがないし、一方、帰納的に作られたニュートン力学は、すごくうまくいってるように見えたのに、「20世紀初頭に発見された反例によりその根底を揺るがされることになった。」(ニュートン力学が役に立たなくなったという意味ではないですが)

数学的研究における「勝負どころ」は、その演繹的な道筋であり、
工学的研究における「勝負どころ」は、その帰納的結論の元となったデータの真正性である。

ケプラーさんが、無事「ケプラーの法則」を導き出せたのも、そしてさらには万有引力発見につながったのも、ティコ・ブラーエさんが天体の動きを観察して残したデータが、膨大かつ精密であったおかげですね。

そういう観点でいえば、フェルマさんは、ちとひどい:
「余白がないので書けない」(同じく、「役に立たない数学用語事典」より)

ほんと、紙ぐらいいくらでもあげるから書いといてよ!! である。その後、三百何十年もひっぱって…でも、それで決着がついたってのはすごいことですね。真なのか偽なのかどちらの証明もできないまま、世界を江戸時代レベルの期間ずっとひっぱれる着眼点を思いつくこと自体はすごい。

数学者さんからいえば、演繹的なほうが帰納的なのよりエライというのは当たり前なことかもしれないけれど、フィールドが違えばそうともいえないわけで。

先日、話題にした「メカニズム派の呪縛(SIDSの例より)」なんかでいうと、むしろ帰納的(エビデンスベース)のほうが、演繹的(この成分はこういう働きがあるからこうなる、みたいな)より科学的といえるって話になってくる。

これは、演繹とかなんとかいっても、人間の体の働きとかを、数学でいう演繹と同じ精度でできるわけがないから、当たり前っちゃ当たり前なんだろうけれども。

「帰納的」のやっかいなところは、迷信・呪術レベルの「経験者は語る」的ないい加減さと、すぐ地続きになってしまいやすいところ。もちろん、「科学」であるためにはいろんな手法があって、どのくらいの「数」があればどのくらい確かといえるのか、そもそもサンプルを選ぶにはどんなルールが必要なのか、とか、そういうノウハウがあって、科学と「えせ科学」を峻別している、はずなんだけれど…

そこに、人間の妙な意図がからむと、データの真正性なんてものは、外部の人からは見えなくなってしまうので、たとえば、製薬会社の息のかかった人を送り込んで、この人はかくかくしかじかなのでデータから除外、なんて、都合の悪いデータを省いたりしていけば、形のうえでは正しく科学的手法を使っているようであっても、非科学の結論は出せてしまう。

そういう非科学の結論を出すときに、論文の表面上がきれいに作られていれば、それを読んだだけでは嘘を見破ることなどできないかもしれない。でも、いつか別の人が同じ実験あるいは疫学的調査をしたときに、同じ結論に至らず、おかしいということになる。たとえば、安全といわれたはずの薬や予防接種が安全でなかったり。そのとき、元の論文に戻って、インチキがばれれば、それはもう気まずいことになってしまうわけだ。

嘘のデータを使って表面上きれいな論文を作ることと、論文上を精査するだけでもおかしいとわかる間違いがあることは、かなり違うレベルの話だと思うんだけどなぁ…なんか釈然としない今回の騒動。研究ノートが2冊しかない、とかをつっこまれているのを見て、ちょっとだいぶ違うけど「余白がないので書けない」を思い出した私。論文がちゃんとしてなくても、いろいろ別の人が試しまくった結果、根っこのネタがまともだったりしたら、なんていうロマンをつい持ってしまう人が多いあたりが、「女子力」のなせるわざなのか…ということを、昨日、「あれは女子力のイベントだった」を読みながら思った。

(ところで、上記では「えせ科学」を、科学的手法にのっとっていないもののこと、「非科学」は科学的手法にのっとり嘘データから嘘を導くこと、という意味で使っています。「えせ科学」って、結論は大嘘であっても、悪意がまったくなかったりするところが、別次元でやっかいだよなぁと思ったり)

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