あられの日記

カテゴリーは場所優先。鶴岡八幡宮は寺院・仏閣ではなく「鎌倉」に。一部検索し易さ優先で、花カテゴリーに入れてる場合も。

松永記念館と老欅荘

2011年11月18日 04時00分46秒 | 箱根・小田原周辺
「松永記念館は「電力王」と称され、実業界で活躍する一方で、茶道にも造詣の深かった松永安左衛門(耳庵)が、昭和21年に小田原に居住してから収集した古美術品を、一般に公開して広く愛好者に親しんでもらおうと、昭和34年に財団法人松永記念館を設立して、自宅の敷地内に建てられたものです。
安左衛門の没後、敷地と建物が小田原市に寄付されました。その後、この敷地内の改修工事を行い昭和55年に小田原市強度文化館文館として開館しました。」以上、パンフレットからの抜粋。

………。結構ここのお庭と老欅荘を楽しみにしてたんですけどね。
なんなのっ~~!!
「本日は大茶会を行っております」ってな事で、和服姿のご夫人があちこちにいらっしゃいますっ!!清閑亭再び…。
もうね。茶席の順番も時間も決まってるのね。と~て~も~っ。室内を楽しむ事なんか出来ないっ!
せめてもと記念館の裏手にある老欅荘の外観を見に行きました。

老欅荘の中でも大規模なお茶会の最中でした。私はお庭をお歩いてるだけなのに、視線が刺さるっ。「なにあの人っ!あの服装っ!!」ってな具合だっ。
しょ~~がないじゃないかっ!私はお点前をいただきに来たんじゃないんだもの。今日は箱根板橋明治の邸宅巡りなんだもの~~~っ!!
 
老欅荘の外観と庭の画像をささっと写しただけで、そそくさと撤収~ですっ!
あ。
でも一応老欅荘の解説は紹介しておこうか。
「老欅荘は松永安左衛門(耳庵)が、昭和21年に埼玉県柳瀬(現所沢市)から小田原に移り住むために建てられたもので、その名称は、登り口にそびえる欅の大木に由来しています。
耳庵は夫人とともに万年をここで過ごすかたわら、多くの茶会を催し、当時の有名な茶人、政治家、学者、建築家、画家などを招きました。最後の数寄茶人とも呼ばれ、益田孝(鈍翁)とともに、近代茶人の一人として有名です。
老欅荘は国の登録有形文化財に登録されています」
老欅荘の名前の由来となった欅の大木は、今もそのまま残っていて、記念館から老欅荘へ向かう坂道の途中にあります。
記念館前の池まで戻ってくると、庭のほとりにある休憩所はまだ和装のご婦人方でにぎわっていました。

お茶会の最中なのでお庭にある「葉雨庵」を撮影。
茶室「葉雨庵」は、中外商業新報(後の日本経済新聞)社長、三越百貨店社長、鐘紡重役などを歴任した野崎廣太(幻庵)によって、大正13年、諸白小路(現、市内南町)の別荘「自怡荘」内に建てられた茶室です。
ここでは当時の中央政財界人が招かれ多くの茶会が催されました。

こちらは付属の烏薬亭。こちらでもお茶会中。その名称は建物正面にある小田原地方ではここでしか見られない樹木「天台烏薬」にちなんで名付けられました。

松永記念館にある茶室の内部は全て見られず…。がっくりと肩をかかとまで落として記念館を後にしました。
時刻を確認すれば丁度午後2時を回ったところでした。
あれ?
思ったより時間が経ってなかったんですね。でも~、もう体力が…。ヤバいです。
松永記念館の正門を出たところでタクシー発見!
の、乗せてくれ~。とちらっと思ったんですが、これはお茶会の出席を終えたおばさま達の御用達。着物姿のご婦人が乗り合わせて坂を降りていきます。
ちっ!しょうがないなあ~。
もう一踏ん張りだっ!惰性でだらだらと緩い坂を降りていくと、水音が聞こえてきた。
あ。これ、「小田原用水」だわ。
小田原用水は、箱根芦ノ湖」を源とする早川の水をこの地で取り入れ、旧東海道に沿って城下内へ流した上水道で、後北条時代に造られたものです。
なかなかの歴史ポイントじゃないの~。
疲れた時に萌えが発動し、小田原用水の流れに沿って板橋見附まで。
新幹線の高架をくぐり、東海道本線の高架も過ぎ…。
さて、こっからJR小田原駅へ行く最短の道は~。
おや~?信号の向こうになんだか変わった建物が…。何だろう?

実はコレ、消防署なんですよ。小田原は観光客に心配りが心憎い。お城に隣接する小学校も漆喰の白壁と瓦屋根を乗っけたテイストで作られているんですよね~。う~んっ。萌え萌えっ!!
松永記念館から消防署まで約20分ちょっと。地図を取り出して確認すると、東海道本線に隣接して走る道がトンネルになっていて、清閑亭のきつい坂のあった箱根から延びる尾根を上らずに済みそうです。

マ、マジか~。
尾根の一番高いところまで上ることは回避出来たんだけどねっ。その先にやっぱりあったぜ。上り坂。もう~~~っ!!疲れて足が上がンなくなってるのに~~~~っ。
ボヤく元気も残ってないよっ。
這々の体でお城通りまで戻って来た!
ムっ!!こ、これはっ!!
クリスタルカイザー~~~っ!!しかも500ミリリットル1本70円っ!!のっ!!自動販売機~~~~っ!!
ああ。旅行お守りのご利益、今日もちゃんとあったのねっ。
早速購入して、小田急線の車内でむさぼり飲んでしまいました。
本日の小田原明治の邸園巡りはコースの順番をミスってしまいましたが、当初の裏目的だった運動不足解消は100%実施出来ました!ま。帰宅後、シャワーを浴びようと服を脱いだら、またまた赤剥け日焼けになっていたのはいらんおまけでしたが。長々と小田原散歩におつきあいいただきましてありがとうございます。
ちなみに、箱根板橋のお庭は、今頃程よく紅葉してるハズ。お散歩におすすめです。
人気ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

山月、大倉喜八郎旧邸

2011年11月17日 05時15分39秒 | 箱根・小田原周辺
山縣有朋の暮らしていた古稀庵と、大倉喜八郎1837(天保8年)-1928(昭和3年)の別邸は細い道に向かい合ってありました。
現在、大倉喜八郎の旧邸は「山月」という割烹として営業中。
「山月は明治大正期の実業家大倉喜八郎男爵が大正9年に建築した別荘で、当時は共寿亭と名付けられました。
この建物は、外観は御殿風に見えますが、内は瀟洒な作りで、関東大震災でもほとんど被害がなかった堅固な別荘建築です。(後略)」
ちなみに、大倉喜八郎は日清戦争、日露戦争と戦争の度に軍需物資の輸送、調達により巨利を得た。また、その財力を利用して様々な営業を展開し、大倉財閥を築き、日本初の私設美術館、大倉集古館の設立など、文化の面にも大きな足跡を残した人です。
ちなみにここ、NHKの「美の壷」の中でも紹介されていた建物だと思うんだけど、見学出来ないんで判断出来ない~
入り口でトップ画像を撮影しただけで撤収。
山月からほんの数十メートル坂を上がったところに、皆春荘があるのですが、こちらも一般公開されていません
箱根板橋には、明治時代の歴史を彩った人々の別荘群がいくつも点在していたのですが、現存しているものは少なく、公開してるものは更に乏しく…。
見えなくて残念無念です

山月の敷地に沿って細い道が伸びている道は、竹林を抜けてくなかなかナイスな散歩コースです。
香林寺が見えたら突き当たりにあるのが松永記念館。

こちらは電力王と呼ばれ、茶人でもあったた松永安左衛門(1875-1971)の収集品を公開するために設立された記念館です。居宅だった老欅荘は、国の登録有形文化財。
た~の~し~み~~。
人気ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小田原古稀庵庭園

2011年11月16日 05時59分39秒 | 箱根・小田原周辺
古稀庵は明治40年、明治の元勲山縣有朋(1838-1922)が作った庭園です。山縣と益田孝は夫人同士が姉妹で、益田が古稀庵の敷地をあっせんしました。山縣が古稀(70歳)の寿賀を迎え、「古稀庵」と名付け、終の住処とされました。
現在はあいおいニッセイ同和損保保険の所有で、毎週日曜日のみ公開(AM10:00-PM4:00)されています。
入園料:100円。
到着したものの、誰もいない…。
箱があったので、そこに入園料を投入して、パンフレットをいただき、ついでにスタンプも押してお庭へ向かいます。
 
庭はせせらぎが流れていてます。
 
庭の敷地の中に高低差が14、9メートルあって、それを巧みに利用した山水回遊式の庭園となっています。ちなみに、相模湾と箱根山を借景して築造されたとのことですが…。現在は海側に近代的な建物があって、海は見えません。また、山側にもビルがあって箱根山が見えません。借景の意味台無し。
し~か~も~~っ!!
このお庭、庭師さんが手入れしてますか?
なんだか、野趣あふれる…。つーか、これ、単なる雑木林だよねっ。いや、里山に戻りかけてるよねっ。私、ヤブ蚊にかまれ放題なんですけどっ!!
こ、こんなはずでは…。
でも、たぶん、きっとっ!!
庭の紅葉が紅葉すればもっと奇麗に見えるハズ。決して、私が見る目ない訳ではないハズですっ!!(悔し紛れ)

ヤブ蚊退散~っ!!って遠吠えして、私の方が逃げ出した。
あ~あ…。
結構期待していたのに…。
山縣有朋というと、庭作りで高い評価をされてます。
京都の無燐庵、東京の椿山荘も山縣有朋の手がけた庭園。
ちなみ古稀庵にあった洋館は、栃木県矢板市にある山縣農場へ移築され、「山縣有朋記念館」として保存されています。
ち~な~み~に~。
「坂の上の雲」の主人公、秋山真之は、小田原の山下亀三郎の別邸「対潮閣」に滞在し、山縣のいる古稀庵をたびたび訪れています。
山縣有朋はNHKのドラマの「坂の上の雲」では江守徹さんが演じています。
日露戦争当時、山縣有朋は参謀総長でした。
山縣有朋は有名人だから今更解説はいらんので生涯は略。でも軽く紹介しますと、WIKIによりますと、この人も高杉晋作が創った奇兵隊にいたんですね。明治時代には陸軍の基礎を気づき、後に内閣総理大臣にもなっています。
ちなみに、小田原文学館の建物の所有者だった田中光顕は、山縣の側近でした。

夜間工事のお知らせが郵便ポストに入っていた。
工事日時:平成23年11月16日。21時ー翌6時(予定)
なんやてっ!?朝まで工事するんかいっ!コンクリートジャングルな場所でっ!!
目的は漏水工事だそうですが、漏水工事って何度もやってるよね?見ればうちから200メートル位しか離れてません。商店街で夜間通行止めでやるそうなので、仕方ないんでしょうが…。夜にやるんだね…。寝られないよね。また…。いつぞやも夜間工事について都会の常識田舎の非常識って書いたけど、またまただよ~。なんで誰も抗議しないんだろうなあ…。
人気ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

掃雲台がないっ!

2011年11月15日 05時21分18秒 | マンホールのふた
大久寺を出て国道1号線を西へ。
東海道新幹線の高架下をくぐった所でストップ!道路が二俣に分かれてます。え~と?地図によると、ここで1号線を逸れて細い方へ行ったほうがよいのだな…。
細い道と侮ってはいけないっ!実はかつての旧東海道なのです。
感動したいところですが、私、も、疲れています。
普段なら、説明板を発見すると取りあえず読んでみるのですが、もうそんな元気は残っていない。
先だっ!先へ進むんだっ!!
トップ画像を撮影したのは午後1時過ぎ。一日で一番暑い時刻です。
ううっ。焦げる~。
とかノロノロ、トロトロ歩いていると、あれ?
この辺りに「掃雲台入り口跡」があるハズなんだけど~?
あ~れ~~??

掃雲台は、三井財閥を支えた実業家にして、世界初の総合商社三井物産の設立にかかわり、日本経済新聞の前身である中外物価新報を壮観した益田孝が箱根板橋に作った別邸です。
益田孝は茶人として有名で、小田原箱根には近代の茶人が集まりました。掃雲台では数多くの茶席をたてたそうです。
ちなみに、茶人としての益田孝の名前は、鈍翁。先ほど拝見した小田原文学館のある西海子小路に「鈍翁in西海子」があり、茶器やゆかりの品々を展示しています。
掃雲台は南向き斜面の広大な邸宅跡は、健在は分譲され、正門があった付近は道路となっています。
って小田原市の観光協会から送ってもらった「ドラマの主人公たちと小田原」のパンフレットに書いてあるんですけど。う~ん。名残も残ってないのかなあ~。
あれ~~~??

掃雲台入り口を探しながら道なりに進んでいると、なんだか素敵なレトロ建築がありました。朝倉邸です。
またこんなレトロな豆腐屋さんもあった!

あれ~?このお店って確か…。
街かど博物館ガイドマップに載っていたような~??
あ。そうだ!とうふ工房(下田とうふ店)です。
ガイドマップによりますと「関東大震災後に建てられた出桁造りの建物が、独特の雰囲気を醸し出しています。店内には、おかもちを担いだ行商姿の写真など、店の歴史をパネルで紹介しています」だそうです。
でも本日は日曜日。定休日でした!残念。

あ。カラーマンホール発見。疲れてくると、視線が下に落ちるんだよねえ。
カラーマンホールは散歩の後半に見つける事が多いんですよ。
道をそれて北の坂道へ。
緩い坂をゆるゆる上っていくと、ありました!

やった~。あった~。古稀庵だ~…。

東京ガスからガスの使用量お知らせという名前の領収書がやってきた!
ふんふん「11月分は10月14日から11月11日まででご使用量30立方メートルで請求額は5172円です」とのこと。
あれ??ガス代が5000円越えですと??電気代が震災以後の節電効果で5000円ちょっとなのに、ガス代が5000円ってマジかっ!!
…おたくの街のガス屋さんに比べて東京ガスのガス代ってどうなの?水道代は水源に何を使ってるかで日本全国の市町村のバラつきが凄いのは知ってますけど、ガスってそもそも原料って輸入だよね?それで全国のガス屋でバラつきがないの前提だよな?違うのか??
一応念のため、過去のガス代を調べてみる。月間のガスの使用量は、平成22年6月が30立法メートルで4767円。んん~??同じ使用量なのに、去年は5000円を切ってるっ!!5172÷4767=108パーセント!って!!これっ!1年で8パーセントもガス料金が上がってるってこと??なんでやねんっ!今って史上一番の円高じゃないんかいっ!なんでガス代が去年比108パーセントなんじゃっ!!
念の為更に遡ってみる。
平成21年11月は30立方メートルで4593円。
平成18年6月は30立方メートルで4626円。
平成16年5月は30立方メートルで4548円。
平成10年11月は30立方メートルで4599円。
ってことは、これ、今年急激に値上がりしてるんですね。な、なんでだろうなあ~?東京電力のニュースは見るけど、東京ガスのニュースを見た記憶ないんですけど。って、これって東京電力だけ?理由はなんだ??みなさん、気になってませんか~??  人気ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

早川口遺構と大久保一族の墓

2011年11月14日 05時43分58秒 | 墓所巡り
次に目指すは箱根板橋の古稀庵の庭なんですが、移動途中にもあれこれあったんで紹介しますね。
つーか、その前に腹ごしらえだ。さっきの山角天神社のベンチに腰掛けて、いつものアンパンとお茶で一息。いや~、9月に入ったら散歩もしやすくなるかと思いましたが、暑いです~。もう体力がだいぶん目減りしてるんですけど…。
さて。地図を片手に次なる場所は。
人車鉄道 小田原駅跡。
…往時を偲ぶものはこれだけ~。石碑を撮影してて気づいた!
歩道橋に道路の行き先案内板がかかってます。そういや、コレ国道1号線だったわ。

次、次々。もう30度を超えてるピーカンの炎天下、そんなに元気に歩けるか~~っ!!
ぼやきが入り始めました。早っ!!
到着したのは「早川口遺構」です。小田原城の現存する数少ない総構えの一部です。
それって、明治の邸宅巡りと関係ないんじゃないの?と思われましたか。
そんなことないんですよ。この場所はかつては因藤成光の旧邸でして一時期庭園として使われていたのです。小田原城の豪快な土塁や堀を上り下りして体感出来ます。

ちょっと規模が大きすぎて画像ではなんだかよくわからない感じになってしまいましたが、トップ画像も早川口遺構を選びました。画像右手が土塁。左手が空堀です。
説明板発見…。「小田原城は、戦国時代に後北条氏の本城として関東支配の拠点であり、政治•経済•文化の中心を担っていました。
小田原城は、永禄4年(1561)に長尾景虎(上杉謙信)、永禄12年(1569)には武田信玄に攻め込まれましたが、三代氏康は籠城戦により退けました。これ以降、小田原城では相次いで改修工事が進められ、天正15年(1587)なでには丘陵部を取り込んだ三の丸外郭を造営したと考えられます。
さらに、天正18年(1590)、全国統一を進める豊臣秀吉との戦い(小田原合戦)の際しては、城下をも取り込んだ土塁と堀からなる周囲訳キロメートルに及ぶ「総構え」を造営し、小田原城の強化を図りました。
この早川口遺構は、小田原城総構の南西に位置する虎口(城の出入り口)で、その遺構は、二重戸張と呼ばれる土塁と堀を二重に配した構造となっています。この場所は明治時代以降に屋敷の庭園として少なからぬ改変を受けており、本来の遺構の姿を留めておりませんが、外側の高さ2、8メートル程の土塁や堀状の窪地などは当時の遺構の姿が残されたものといえます」だそうで。
………。かつて土塁だったと思われる場所のてっぺんに登り、かつて堀だったと思われる場所に降りてみた。
…なにげに楽しい。でも土塁と堀を堪能したければやはり冬にこないと!草に埋もれて状態がわからん。

続いてサクサク移動です。
陸橋の下をくぐってると、変わった貼板を発見!

この上は東海道本線が通っているのです。

陸橋を抜けると南側に大久寺があります。こちらは大久保一族のお墓があるそうなので、見学に。
あれ?東海道本線になぜに小田急のロマンスカーが走ってるんじゃ??
地図で確認。すると、JRに隣接して箱根登山鉄道が通ってました。画像のロマンスカーは小田急の相互乗り入れで箱根湯本まで行くやつですね。
 
説明板発見「大久寺…大久寺は宝聚山随心院と号法華宗8現在は日蓮宗)の寺で、小田原大久保の初代七郎を開基とする寺である。
天正18年(1590)の小田原合戦に、徳川家康に従って参戦した遠州二俣城主大久保忠世は、合戦後論行賞によって小田原城4万5千石が与えられた。この時忠世は日頃から帰依していた僧自得院日英を二俣から招請し、しばらくは石垣山三の丸(古称聖人屋敷)に仮住いでいた。そして忠世が開基となって寺の建設をすすめ、翌天正19年堂字が完成すると、日英を開山とする大久保家の菩提寺とした。
慶長19年(1614)二代相模守忠隣の時、大久保家が改易になると寺も衰退したので、寛永10年(1633)石川主殿頭忠総(忠隣二男、石川日向守家成養子)が大久寺を江戸下谷に移した。その後、大久保新八郎康任が石塔、位牌を戻して大久寺がこの地に再建された。
墓石は、正面右から小田原大久保氏三代加賀守忠常、二代相模守忠隣、藩祖七郎右衛門忠世、勘三郎忠良(忠勝五男)、五郎左衛門忠勝(忠俊の子)、常源忠俊(忠世の伯父)、忠良の娘の墓で、これらは前期大久保氏一族の墓所として小田原市の史跡に指定されている。
大久保氏の墓所は、法華宗陣門流の大本山京都の本禅寺、愛知県岡崎市の長福寺、東京青山の敬学院にもある。」ですって!
このお墓って、小田原城の城主の一族のものなんですね。
以前、JR小田原駅近くにある北条氏政、氏照の墓所北条早雲像(2010年4月30日)の記事こちらに北条氏政、氏照の墓所の画像があります。
や入生田駅近くの稲葉一族の墓所にも訪れたことがあります。これらの墓所も小田原城主のお墓でした。なんだか不思議~~。
ちなみに、稲葉一族は、今年のNHKの大河「江」でも出てくる徳川三代将軍、徳川家光の乳母を務めた春日局の一族でうす。入生田の長興山紹太寺には春日局のお墓もあります。
さて次だっ!!
人気ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小田原清閑亭

2011年11月13日 05時55分02秒 | 箱根・小田原周辺
昨日の記事が長くなってしまったので、清閑亭の記事を二つに分けました。なにやってんだか~…。
今日は清閑亭の外観を紹介しますね。
トップ画像は清閑亭の庭から眺めた。右手にあるのは客間と鎖の間です。鎖の間は網代天井です。左手は居間と食堂。
蔵です。

庭(南側)から邸宅の外観を撮影。
 
近頃うちの近所は民家の建設ラッシュでして、あちこちで工事を行っています。
なんかねえ~。どの家も窓か小さいんだよね。もう窓というか、壁に小さな四角をくり抜いてあるだけの家!
まあ、防犯には効果あるんだろうが、蒸し暑い日本の夏にはそぐわないような気が…。流行りなんですかねえ~。明治の家って、窓がたくさんあったんだなあ…。これより前に時代となると、これがまた…。まずガラスがなかったからね。室内照明もショボかったからね。私的にはこの時代の建物好きです。今作ろうとしたら、建築基準法的にダメなんでしょうが。いや、その前にこんな立派な木材で家を作ったらどれほど高価になるか~~っ!!

最後に昨日書きそびれていたので、清閑亭について補完します。
清閑亭は黒田長成侯爵の別荘だった邸園(邸宅と邸園)です。
この地は小田原城三の丸の丸土塁の一角を占め、小田原の町や相模灘を一望する素晴らしい眺めに恵まれています。
明治39年(1906)から飼田家の別荘となり、戦後は浅野侯爵家を経て第一生命保険会社の施設として使われていました。
清閑亭周辺は「天神山」と呼ばれ、箱根からのびてきた尾根の先端部です。この地には飼田家のほか、閑院宮家、山下家、北原白秋など、多くの文化人や実業家、政治家や軍人が別邸、別荘を構えていました。
建物全体は格式ばらない数寄屋造り。
黒田長成侯爵(1867-1939)
慶応3年、福岡藩主黒田長知の長男として現在の福岡県に生まれる。
明治21年(1888)英国ケンブリッジ大学に留学、帰国して明治26年(1893)から30年間貴族院副議長を務めた。

やっちまった~~…。
昨日美味しそうなピチピチのスルメイカが3匹398円で売っていた訳だ。すかさずゲット!更に近頃ぐっと安価になった野菜群から、ぼちぼち旬となったカリフラワーも購入。彩りに赤ピーマン(ただし、赤ピーマンをいただくのはダンナだけ)早速調理したのです。
旨かったんです。ええ、とっても~~。なので、今朝もまた同じのが食べたいと、寝ぼけた頭でイカをさばいてて失敗した~~。
イカがっ。イカの目玉を取り除いてたらブチッと弾けて潰れてしまいました~…。
ぎゃあっ!!
着用していたのは、これからお出かけするんでお気に入りのトレーナー。しかも珍しくもイタリアのスポーツブランドの高いやつ。
ここここここの服に飛ぶか~~っ!!
ここんとこ、イカを捌くの失敗したことなかったから、この惨事を予想してなかった~~っ私のアホ~~~ッ!!!
でもまだ諦めるのは早いかもしれん。こういう時こそネットの海に答えがあるハズと、「イカスミ 落とし方 服」をキーワードに検索かけたらありました!
早速台所用洗剤を抱えて洗面所にかけこんでトレーナーにかけたら、落ちましたっ!イカ墨っ!!でもなっ!!トレーナーの色まで落ちたっ!!奇麗な紫がかった青色だったのに、まだらに赤紫に変色したっ!!
な、なんで~~~~っ!!
も、手遅れです。
ええ。「台所洗剤」で落とせとは書いてましたが、「原液を服にぶっかけろ!」とは書いてません。つーか、どうしょうかこれっ。もう元からまだらな紫系のトレーナーってことで行くか?でもねっ。このトレーナーってばおイタリア様のブランドものなので、もとより雪の結晶をモチーフにした柄がトレーナーの前面にちりばめられているのです。そこに更にまだらな紫ってどうなのっ!!
現在、とりあえず漂白剤を落として中性洗剤で洗って干してますが、乾いた時にどれだけ変なのかで判断するしかない…。お、お気に入りだったのに…。焦ってる時程冷静にならんとイカンですっ!!_
人気ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

清閑亭

2011年11月12日 05時46分23秒 | 箱根・小田原周辺
「小田原は明治に入ると、全国でも有数の保養地として注目されるようになりました。
まず明治20年代には、海岸保養施設が数多く作られたほか、時の首相伊藤博文などの有力者が西海子などの海辺に別荘をかまえるようになります。
ついで明治30年代になると、元の小田原城が御用邸として整備(明治34年(1901)されたのをはじめ、皇族の重鎮閑院宮家、元首相、陸軍元帥の山縣有朋(古稀庵)、三井財閥を支えた益田孝(掃雲台)が小田原に別邸を設けたため、これらの人々とゆかりの深い要人たちが次々と別邸、別荘をかまえました。そのうちの一人、山下汽船(現商船三井)創業者、山下亀三郎の別邸では、「坂の上の雲」の主人公として知られる秋山真之がその生涯を終えています。
この時期の別邸、別荘は海辺だけでなく「天神山」や「板橋」といった箱根からつづく尾根の斜面に広がったのが特徴です。山縣や益田のもとには、日本を代表する茶人たちも集い、四季の移ろいや旬の味をめでる席が設けられ、小田原は茶の湯の一大中心地となってゆきました。
さらに、戦後の小田原の庭園を代表するのが、電力業界の礎を築いた松永安左エ門の別邸、老欅荘です。松永は戦前、益田孝から茶の手ほどきを受け、益田が亡くなった後も、長く小田原で過ごしました。益田と松永は近代日本三茶人の一人とされ、三茶比とのうち二人までが小田原を拠点としていたのです。」以上、清閑亭のパンフレットより抜粋。
これを読むと、小田原の明治の邸宅巡りしたいよね~。
前出の文中の伊藤博文の別荘滄浪閣(1902年9月の小田原大海嘯で流出)や閑院宮家の御別邸。山下亀三郎の別邸対潮閣。益田孝の掃雲台などは既に現存してません。また、山縣有朋の別邸古稀庵は、流水庭園のみ有料公開で、建物は移転されてます。現存してるのが少ないのは残念ですが、跡地なりとも見てみたい~~。
また明治&大正と贅を尽くして建てられたこれらの建物にとって致命的だったのは、1923(大正12)年9月1日に発生した関東大震災の影響です。
関東大震災の震源は、相模湾の北東部でした。小田原や鎌倉、横浜は震源に近くて壊滅的な被害を被りました。今鎌倉が世界遺産への登録を目指しているらしいですが、関東大震災で鎌倉の寺院や町家は大被害を受けてます。鎌倉、室町、江戸の歴史ある建物も被害を受けて運のいい建物しか現存してません。
最近震災で消失した物件、をありし日の姿に復元するのが流行りのようでいくつか復元されてますけど、どうだろうなあ~。よほどプレゼンをうまくやらないと難しいと思うんだよねえ。
うまく…。そうだなあ。谷戸と寺と信仰(やぐらを含む)とか昔の道(切り通しや7口)の古の往来を偲ぶといった方向押し!はどうだろう~。
寺で押してもかつての境内を想像出来る程残ってる寺は数える程しかないもんな。鐘楼と鼓楼が揃ってる寺ってあったっけ??伽藍のある寺もほぼない…江ノ島の滝口寺くらいか?庫裏と本堂と講堂と…。や、私もあんまり寺の主要パーツに詳しくないんであれですが…。鎌倉を訪れた観光客がまず思うのって「寺がショボい」だと思うんだよね~。あ。いかんいかん。鎌倉を小田原の記事で語っている場合ではない。清閑亭ですよ。
ではさくさく画像を公開します~~。
 
気分は盛り上がって参上したのですが、当日は邸内で絵の個展が行われており、絵の撮影が禁止されていたんです。室内に展示してあったので、清閑亭の内部の撮影が出来た場所も少なく、また、かつての食堂の部屋を利用して、なにかのカルチャー教室をやっていて、そっちも近づけず…。

かつて居間だったところは、ティールームになっていたんで、ぜひとも居間から見える小田原の海を望みながら室内の設えを堪能したかったのですが、先客がいたんでそれも無理~~という有様。
小田原文学館で1時間半も過ごさずに先に清閑亭をめざすべきでした。
唯一静かだったのはお二階の書の間でした。

画像奥にかつては山下亀三郎の対潮閣がありました。…ということは、秋山真之が人生の最後に見た風景もこんな感じだったのかも。現在は建物が海を大分遮ってしまっていますが…。
客間の床の間。天上板は屋久杉を使用。
あれ?
これって…。「旅順」って書いてある~?な~ぜ~に~~!?
説明文発見!「渓水金子堅太郎詠、筆…日露戦捷ノ詩
金子堅太郎は伊藤博文に仕え、明治憲法や民法などの原案を作り上げた人物。
日露戦争では、アメリカで直接ルーズベルト大統領と折衝にあたり和平の成立に尽力しました。金子が大統領と折衝できたのは、若い頃、出身の福岡藩飼田家の援助でアメリカに留学、大統領とハーバード大学の同窓生だったからです。金子はまた黒田長成侯爵のケンブリッジ大学留学を助け、飼田家の財政顧問をつとめるなど、黒田侯爵とも深い親交で結ばれていました。
この軸は、金子が滞米時、旅順陥落の報を聞き、立役者、乃木希典に捧げた自作の詩。」だそうです。
へえ~へえ~へえ~。
明治の人にとって、日露戦争はやはり大きな出来事だったんですねえ。あちこちの場所で名残を見かけるものな。
ちなみにWIKIで検索かけたら、金子堅太郎はNHKの「坂の上の雲(第8回)」でも登場してました。演じたのは緒形幹太(父:緒形拳、弟:緒形直人)さん。金子は「伊藤博文の懐刀」とも呼ばれた人でした。
人気ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

瓜生外吉の胸像

2011年11月11日 05時48分46秒 | 箱根・小田原周辺
秋山真之終焉の地であった対潮閣跡地より、西へ約100メートルの所に山角天神社があります。
そこの急階段を上がっていると、階段の左手に胸像があります。瓜生外吉の像です。
wikiで調べましたら、この人物は加賀藩(石川県)出身で6年間のアメリカ留学経験があり、海軍で艦長を歴任。日露戦争当時海軍に所属し、第4戦隊司令官を務めていた人で、仁川沖海戦で勝利。1907年(明治40)には男爵を授けられておりました。
1914年(大正3)にはパナマ運河開通記念博覧会に日本代表として参列。1927年(昭和2)の退役。
山角天神社の近所に邸宅があったので、「瓜生坂」の名前がついた坂も残っている。


次の目的地は黒田長成侯爵の別荘だった「清閑亭」です。
でもさ~、もしやせんでも坂を上らないとダメなのね…。
う~む。小田原明治の邸宅を巡るお散歩コースの訪問地の順番設定を間違えたか…。つーか、まさかここにこんなにキツい坂があるなんて~。ぼやいてもダメなので、気合いを入れて進むほかありません。

根性入れて上る結構な角度の坂を上がると、学校が見えた。でもコレ、廃校?使ってる形跡がないような??

そんなこんなで到着した清閑亭です。立派な石の門構えの入り口を抜けていくと、風格ある日本家屋が見えてきました。
清閑亭は平成17年(2005)、建物が国の有形文化財に登録され、翌年には敷地が国の史跡に指定されたのち、平成20年(2008)小田原市の所有となりました。
開館時間:午前11時ー午後4時(毎週火曜休館)
入館料;無料

ここ数日雨が降りそうで降らないという状態が続いてて、自転車で出るのは不安がある。そんなこんなで昨日はフォトチャンネルを作ってました。
そもそもは先行記事を作成していたんですよ。それが、またもレトロ建築物巡りだったのです。んで、ふと思ったのね。
私、レトロ建築物ってもう相当数見たよね?どんくらい見てるんじゃろ~と。
んで、ついつい画像フォルダを遡ってしまいましたっ!どんどん出て来ました。それでうっかり「レトロ建築」で新たなフォトチャンネルを作成してしまいました~。
ところがところが…。フォトチャンネルに登録出来る画像ってMAX100枚ぽっきりだったんです。しかも既にいくつもチャンネルを作ってて、ブログの左の柱にも載ってない~。んでテンプレート編集にまで手を出してしまった~。ついでに言えば、登録出来るのが100枚ぽっきりだったので、レトロ建築の所在を東京&神奈川&川越に限って抽出。それでも昔の画像は100枚を超えて登録出来なかった~~っ!!
1カ所1枚の抽出ならば、建物の外観優先で、画像登録なかった建物のみ内部画像も~というセレクトで作ってしまいましたっ!
よかったら見てやって下さい。このフォトチャンネルに掲載してる画像は、画像フォルダを利用して作成したので、気になった画像はブログの右肩にある検索欄を使ってみて下さい。キーワード設定によっては該当記事がヒットしないこともあるのですが、建物名でキーワードがヒットしなかった場合に備え、画像毎に撮影地を記載してあります。
東京神奈川川越レトロ建築

こちらが作成したフォトチャンネル。昨日の午後いっぱいをかけてしまいましたまさかそんなに時間がかかるなんて…。集中して作成したせいか、半日で口の中に口内炎が出来たっ!!あ~り~え~な~い~~っ!!
レトロ建築の画像は100枚以上あったので、そのうち「レトロ建築Part2」を作りたいですね。   人気ブログランキングへ


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「坂の上の雲」秋山真之終焉の地

2011年11月10日 05時25分23秒 | 箱根・小田原周辺
小田原文学館を出たのは11時30分を回ってました。ハイ、私ここに1時間半もいたんです。どんだけ気に入ったんじゃ~~。
あ。そうだ!レトロ建築巡りのポイントの一つにトイレチェックがあります。
レトロ建築公開といっても、外観のみ公開してることが多い。
内部公開の場合、トイレなどの水回りは使用禁止の場所も多い。中にはトイレはかつての場所に。でも今使えるのは別に増築してます。みたいなのもあります。でもまれ~に、かつてトイレがあった場所を改修して現在の水洗便所を作りました!というのがあるんです。これ、要チェック!なんですよ。配管の場所はかつてのままなので、近くにバスルームや台所がある場合もあったりして…。わかりやすいチェック方法は、大便用の空間の狭さです。日本人は最近大きくなりましたからね。明治時代の人は栄養状態が悪かったのか、あんまり体格のいい人少ないので、トイレ空間が小さいんですよ。これ、私的におすすめです。この小田原文学館を訪れたら、ぜひトイレに寄ってみて下さい。結構感動ものです。

さて、西海子小路を西へ。100メートルほどいくと、「静山荘」があります。
説明板発見。
「静山荘は、明治25年に建築された民家を長年財界で活躍した望月軍四郎(1879-1940)が昭和14年に上府中村から現在地に移築した別荘です。
この建物は日本農家を別荘にした珍しい建物で、書院作りの屋敷と、民家風の広間が良く調和しており、材料的にも技術的にも高い価値があります。屋根は日本瓦葺きで、落ち着きと優雅さを見せています。棟瓦についている九翟の紋は、所有者である望月家の家紋です。欅材の大梁、柱、神棚は大きく、太く、がっしりとしていて重量感があり、手入れが非常に行き届き、欄間は概ね建築時の組子欄間で細工が見事です。
庭は、小田原では珍しい苔庭で、広く味わいの深いものになっています。手入れの行き届いた老樹、石灯籠、九重の石塔は落ち着いた雰囲気を醸し、重厚な建物の奥行きを引き立てており、外の世界を遮断した一つの独立した空間を醸し出しています。
望月軍四郎(実業家)
明治12年静岡県に生まれる。明治26年に上京し、明治43年には望月証券株式会社を開設した。大正7年に業界を代表して米国に派遣さて、ニューヨークの株式会社を実情ちょうさして帰国した。教育界にも関心を示し、大正8年成城学園に中国人留学生の寄宿舎建設費を寄付したのを始め、大学や学術研究機関に多額の寄付を継続した。大正13年には田口銀行頭取に就任し、以後、帝国商業銀行専務、日清生命保険社長を歴任した。昭和5年には京浜、湘南鉄道の取締役会長となり、京浜電鉄と連帯運輸を開始し、昭和8年には京浜線の品川駅乗り入れを実現し、品川、浦賀間を結ぶ京浜急行の基礎を築いた。昭和15年死去。享年61歳」
な~るほど!そんなに立派な人が落ち着いた日本家屋の静山荘に暮らしていたのか~。でも心から残念なのですが、現在非公開なんですよ。未だこちらで暮らしてる方がいらっしゃるんですかねえ~。

静山荘そばの小道を北へ。
この辺りに三好達治の旧居址があるハズなんですが…。
ありました。これです。
でも、面影は全くありません。
すぐに国道1号線に着きました。毎年正月に箱根駅伝をやってる場所です。たしか、たすきリレーをしてるチェックポイントもこのあたりなんだよね。

さ~て!
お次は、一番行きたかった場所です。
MHKのドラマ「坂の上の雲」(原作:司馬遼太郎)の主人公、もっくん演じる秋山真之(1868-1918)の終焉の地です。

でもねえ~。実存してないんだよね。

この玄関へ続く石組みは名残ですかねえ?…わかりません。

道路から見ると、少し小高くなっていて、樹が見える辺りに秋山真之が没した「山下亀三郎の旧邸」がありました。もしかしtsら、上の画像の下部の石組みはかつての名残やもしれない…。
山下亀三郎(1867-1944)は、山下汽船(現商船三井)の創業者で、秋山真之とは郷里が同じ伊予(愛媛県)で友人です。

上の画像にあるように、秋山真之は、こちら山下亀三郎の別邸である対潮閣から箱根板橋にある山形有朋の別邸「古稀庵」を散歩を兼ねて訪ね、国防論について議論を交わしていたんですって。
対潮閣は山下亀三郎がこの地の別荘を譲り受け、山県有朋に庭園づくりを依頼、「対潮閣」の名前も山県有朋が名付けたんだそうですよ。

wikiによりますと、秋山真之の死因は盲腸。相模灘の朝日をのぞみながら亡くなったそうです。
腹膜炎ですかねえ~。今では盲腸といえば、日帰り手術なんじゃないの?でも彼が死亡した1918年(大正7)2月4日未明…。その時代には命に関わる病気だったんですね。JIN先生に盲腸の手術してもらった西郷隆盛…という具合にはいかなかったんですね。ドラマでは第2部で秋山真之は日露戦争の始まる直前に若いお嬢さんを嫁にもらってましたが、え~と、日露戦争は1906年頃のことだから、結婚生活は10年ちょっとしか続かなかったのね。
とか、ついついおばちゃんは計算しちゃったよ~。
人気ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

北原白秋童謡館

2011年11月09日 05時06分50秒 | 箱根・小田原周辺
田中光顕の洋館は小田原文学館になってます。同じ敷地内にある和館(大正13年)は北原白秋の童謡館として使用されています。
あれ??今年の1月下旬に城ヶ島を訪問した時に、橋の下に北原白秋の記念館があったような…。なぜに小田原にもあるんじゃろ??
 
「福岡県柳川市に生まれた北原白秋は、大正7年から同15年までの8年ほどの間を小田原ですごし、この間に全童謡作品の半数近くを創作しています。これを記念して、童謡集や童謡原稿など、白秋の童謡創作に関わる資料を展示しています。」以上、小田原文学館のパンフレットより抜粋。
実は10時過ぎに和館の方を訪れた時、まだ係の人が来てなかったのね。んで、資料を見てましたら係の人が到着しまして、ようやく入館料を支払うことが出来たんですが、あ。この北原白秋童謡館と小田原文学館と尾崎一雄邸書斎は、全て同一の旧田中光顕の屋敷の敷地内にありまして、観覧料は250円の同一料金で見る事が出来ます。
昨日の記事と矛盾してるのは、実は先に和館の方へおじゃましたからです。入館する時に、正面から入らず、駐車場から入ったので、道なりに進んだら、文学館の建物の庭へ出てしまい、更に道なりに進んだら、和館に到着したんだよね。
チケット代を支払っていると、係の人が2階で「童謡のふるさと小田原ー白秋が愛したまち」などのビデオ放映があります」と声かけていただいたので、早速あがりますと、これがいいんです。訪問したのは9月でしたが、台風が近づいているせいか真夏日!でした。30度超えっ!!
畳の座敷に机と掘りごたつ式の腰掛けて座れて、いい風が通るんです。かつては窓から海も望めたんですかねえ~。今では庭木が大きくなってしまい、海側の視界は遮られてしまいましたが、入ってくる風がとても気持ちいいんですよ。白秋の人生と童謡のビデオを2本見たら、30分ほどかかったんですけど、もう~~このままお昼寝しちゃいた~~~いっ!!という誘惑にかられてしまい、振り切るのが残念な程でした。
受付で礼を述べ次ぎに向かったのは同じ敷地内にある尾崎一雄邸書斎です。

家はこんな感じの見取りです。

尾崎一雄は昭和58年3月、惜しまれつつ死去した小説家。小田原の下曽我にあった書斎を平成17年に移築。
可能な限りもとのお部材を活かしており、室内の調度品類もすべて尾崎家から寄贈されたものです。
なんかねえ、私の最近のマイブームがレトロ建築巡りなので、古い建物は結構な数拝見してますが、建物だけ。せいぜい大きな家具がいくつか置いてあるだけという建物が多いんです。というか、本とか服とか食器といった生活用品が置いてある場所はまれです。こちらば全てまるごと展示してあるんです。
たまに●●先生のアトリエを再現しました。というのはあるんですが。例えば青山の岡本太郎の私邸を美術館として公開してる岡本太郎美術館とか、上井草のイラストレーターのいわさきちひろさんの自宅跡に建っているちひろ美術館とかとかとか。
でもこの尾崎邸はローカの奥から尾崎一雄がひょいと出てきそうな雰囲気があります。机に座って先生が今にも執筆に取りかかれる雰囲気ばっちり!

今朝のワイドショーで、年賀状の文面について話題にしていました。
曰く「来年の年賀状に『あけましておめでとう』とは書けない」という事らしい…。
そ、そうだよねっ。ちっとも考えてなかったですが、大震災&原発爆発と放射線漏れ。さ~ら~に~台風による風害&水害と、今年は散々だったし、来年に至っても生活のあれこれが大変な状況が想像される折り、『あけましておめでとう』はナイかもな。
どっしょっかな~?
実は今年の9月に私のMACがぶっ壊れてしまい、新しいMac Book Airがやって来たんですが、ソ、ソフトがな~いっ。
以前使っていたMacはなんの前触れもなく突然壊れて、中のソフトのあれこれもふっとんだのね。今までは年賀状の作成はイラストレイターで作成してたんだよね。や。今までの年賀状の文面はプリントアウトしてるから、最悪年号の2012年だけ書いて、添付する写真だけ変えて使い回してしまえっ!と姑息な手で乗り切るつもりだったのですが(おいおいおい)、『あけましておめでとう』が使えないとなると事情が変わる。ここは一つ、何かソフトを購入すべきか?購入するならどんなソフトがいいのか??思案のしどころだわ~。   人気ブログランキングへ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

非常事態ですっ

2011年11月08日 11時56分54秒 | 紅葉散歩
一昨日の夜は雨。でも翌朝にはよい天気だったので、友人を誘って江ノ島へ散歩しに行きました。
トップ画像は江ノ島のてっぺんにあるサムエル•コッキング苑です。ここは明治18年に完成したイギリスの貿易商だったサムエル•コッキングさんが造園した植物園です。かつては邸宅の他、温室も完備してました。
ここで注目っ!!
なんかおかしいと思いませんか?
おかしいんですっ!!
植物の葉っぱがなかったり、茶色だったりしてます。コレ、決して紅葉してるんじゃありませんっ。右下に見える白っぽい固まりは、イチョウ並木です。本来なら11月の初旬だからボチボチ黄色に染まろうか?というタイミングです。
と~こ~ろ~が~っ!!
イチョウには葉っぱが残っていません。
サムエル•コックング苑だけがこうなのか?と思われた方もいますよね?
違うんですよ。

こちらはサムエル•コッキング苑から少し下った所にある江島神社(中津宮)にあるイチョウの木です。このイチョウにも葉っぱが残ってません。
なんでやねんっ!!
サムエル•コッキング苑の塔に上がるチケット売り場にいたお兄さんに尋ねてみる。
私「なんか…、ヤバい感じの木があるんですが、アレどうしたんですか?」
お兄さん「9月の台風でやられましたっ!!」
私「やっぱりか~…
あの日、都内では電車が全て止まり、街路樹が倒れてタクシーを直撃しました。

上の画像は先月コスモス畑を見物に行った昭和記念公園内で倒れていた木の一部です。画像撮影したのはこの木だけですが、公園内にあちこちで大きな木が倒れてました。あの時はもっぺん植え直したら、根付くんじゃないの~?とのんきに思ったものですが…。江ノ島は台風の風にようダメージ以上に海の潮を巻き上げた風の直撃による塩害が酷いんですねっ。
そこでもう一度トップ画像を見ていただきたい。
青い矢印あるよね。ここを下から見るとこんな感じです。

注目して欲しいのは中央で一番高い木です。
この木は実はサムエル•コッキングさんが植たもの。つまり、植物園が出来た時は1886年だから100年以上前からここにある木です。それだけでも素晴らしいんですが、実はこれ太平洋原産で、なおかつ原産地の島では既に絶滅してしまった木なのです。ちなみに原産地は太平洋のニューカレドニア島とかノーフォーク島。乱獲で絶滅しました。
ちなみにコレ、藤沢市の指定天然記念物。木の名前を和名でシマナンヨウスギと言います。
このままでは枯れてしまうやもしれん…。木は枯れてしまっても、植物というのは挿し木で増やせるよね?今のうちに手を打たねばならんのではないでしょうか??
ちなみに、この木を間近で見上げるとこうでした。

今なら、健康な挿し木の枝を採取出来るのではないでしょうか?このまま放置してもいいのか??
鎌倉の鶴岡八幡宮のご神木のイチョウが強風で倒れた時はTV報道が何度となくされ、植物学の有名な人やもう心ある人がよってたかって知恵を絞って、ご神木を再生するのに奔走しましたが、サムエル•コッキング苑はどうなっているのか??
トップ画像を見る限り、なんの手当もされてないようで悲しいです。つーか、コレ、入園料200円。塔に上がるのに更に300円を徴収してるんだが、普通ならこの状態の植物園を見せられたら客は「金返せっ」って暴れるよね。…なんで閉園して植物の再生育成しないんだろ?
お金?金の問題なの??
でも、再生の為の募金箱とかなかったんですよねえ~。
サムエル•コッキング苑はどこが管理運営してるんだろうか?サムエル•コッキング苑のホームページのお問い合わせ先は江の電の観光課なんだが、気になるなあ~…。なんか対策してるんですかね?せめて樹木医には見せて欲しいけど。このまま放置していたら、ヤバいと思うんだが…。台風は天災だけど、放置して植物枯らすのは人災じゃないのか?しかも、現地で絶滅してる木を人災で枯らしたら、世界の笑い者になる気がする~。どう思う~?
ちなみにこれは江ノ島の対岸にある龍口寺です。
龍口寺は日蓮さんの法難の地でして、斬首寸前で神秘的なことが起きて回避した~という場所です。本堂の裏手の山の中に明治時代に建てられた五重塔があります。五重塔の左手にあるのはイチョウです。ここも葉っぱが…。
建物探訪する時は、葉っぱがない冬がオンシーズンなのですけど、黄色いイチョウと神社仏閣のコラボはフォトジェニックで良いんですよ。な~の~に~~っ あ、あはは~

私の紅葉を見たい欲望には波があって、去年のここ数年来にないという素晴らしい紅葉の時は波が低下して、紅葉狩りには殆ど出かけませんでした。
でも今年は違うっ。もうね、モミジの赤が見た~いっ。元気の出るイチョウの黄色が見た~いっ。と、紅葉狩りに出かけるべく、コースを数通り既に完成させてあって、あとは出かけるだけという準備万端だったのですが…。
この記事を書いた後、紅葉情報をあちこち彷徨い歩いた結果、今年の関東地方の紅葉は全く期待出来ないことが判明しました。
敗因はやはり9月の台風12号&15号です。
木のダメージが凄いのねっ。イチョウはこの記事で紹介した通り、葉っぱはまばらにしか残ってない木だったり。モミジはなんか、縮れてショボい茶色の葉の木があったり。それが多かったり。もちろんダメージの少ない木もありますよ。ただ、ダメージの大きい木が例年になく多いって事が今年の紅葉は期待出来ないという結論になる訳だ…。
あ~あ…。がっかりだぜっ!
でも、紅葉狩りには行きますよ。ただし、調べていたうちから少し遠い運賃をかけて行く紅葉の名所巡りじゃなくて、近場の公園や神社仏閣巡りにチェンジですが…。
う~~~~~っ!!やっぱこういうのも一期一会なのね…。美しい年には積極的に行くべきなのねっ。   人気ブログランキングへ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

龍馬暗殺現場に駆けつけた?

2011年11月08日 05時39分43秒 | 箱根・小田原周辺
道が大蓮寺に突き当たったので、そこから北東(海と反対側)に進んだら、何やら趣きのある道へ出た。
トップ画像がそれです。
さっきの伊藤博文の屋敷跡の前の道と比べると、全然広いんですけど~。映画とかに出てきそうなんですけど~。
調べたらこちらは「西海子小路」という道でした。両側に植えてある並木は桜の木です。桜の季節にはさぞ童話に出て来そうな感じになるんでしょうねえ。
道なりに進んで到着したのは、小田原文学館です。

こちらはかつて龍馬暗殺現場に駆けつけた幕末の志士で田中光顕(1843-1939)の別邸でした。
昭和12年建築の当時流行した南欧風の洋館です。
田中光顕は土佐藩の郷士で、幕末に奇兵隊の客分や、陸援隊の隊士として名をはせた。明治維新後は、初代内閣書記官長(現官房長官)や警視総監、宮内大臣などを歴任した伯爵です。伊藤博文や山県有朋の側近でした。

7月だっけ?NHKの「美の壷」という番組の中で登場していました。3階のベランダに出ると、
 
なるほど、南欧テイストです。色のついた瓦がそれっぽい。
「美の壷」の中で、草刈正雄さんが、丸いベランタのかべにつけてある鉄の輪に、テントを張っていましたが、なる程船の帆に見立てる場所です。潮風だって吹いてくるでしょうし。
足を洗う場所ですかね?昭和の初めにベランダにこんなものを備え付けてるのがおしゃれ~。
こちら文学館入り口です。入り口の屋根にある煙突にコケがついていて、なにげにメルヒェン。
中に小田原ゆかりの文学者のあれこれが展示してあります。1階には小田原出身の文学者、北村透谷、尾崎一雄、川崎長太郎、北原武夫らの小説家のもの。2階には谷崎潤一郎、三好達治、坂口安吾らのもの。でもねえ~、も。全部忘れてしまいました!
なぜって、文学館の一角にミンキー=モモのアニメの台本や、ポケットモンスターのミュー2復讐するは我にありの映画の台本。更には私が若かりし頃大好きだったゴーショーグンのアニメに出て来たヒロインのセル画なんかが展示してあったからです。
首藤剛志さんの作品のあれこれですね。こちらに寄贈されていたんですね。
ってゴーショーグンって知ってる?ブンドル様とかケルナグールという…。いわゆるロボットアニメなんですが、敵方のブンドル様が好きでした。懐かしいなあ。音楽も好きだったんだよねえ。再放送してくれないかしら?
さて、文学館の庭の片隅に、かつて小田原城においてあった北村透谷のでっかい石碑が鎮座してあります。

この石碑は去年の12月まで小田原城にありましたが、馬屋曲輪整備事業に伴い移設されたそうです。
碑に刻まれた字は、透谷を尊敬していた友人の島崎藤村の筆によるものです。北村透谷は明治の初め、近代浪漫主義文学の先駆者として大きな功績をあげましたが、27歳の若さでなくなりました。
田中光顕の別邸の敷地には洋館だけでなく和館もあるのです。和館も素敵~。
人気ブログランキングへ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

伊藤博文別邸跡

2011年11月07日 05時32分48秒 | 箱根・小田原周辺
御幸浜を西へ。
見えて来たのは正恩寺の鐘楼門です。
『正恩寺…正恩寺は、法性山妙賢寺と号し、真宗大谷派東本願寺の末寺です。平重好入道了願が、尾張国(愛知県)海東郡富田庄に創建したもので、後に、専信の時、三河国(愛知県)額田郡土呂に移されました。天正18年(1590)、大久保七郎右衛門忠世が遠州(静岡県)二俣より転封されて小田原城主となった際、その子忠麟の室妙賢院(石川日向守家成の女)は、日頃より帰依する正恩寺の僧信賢を小田原に招き、文禄2年(1593)には三河の寺をここに移し菩提寺としました。よって信賢を中興開山とし、妙賢院を中興開基としています。このようなことから、当時から尾三相州転遷之道場と呼ばれています。
寺内本堂脇には、中興開基妙賢院(妙賢院円空禅尼、寛永元年9月29日卒)の墓所と、その傍らに、忠臣杉浦惣衛門政吉の墓があります。近年、作家故吉川英治の先祖(小田原藩士)の墓が寺内墓地から発見されました。
入り口の鐘楼門は、平成4年11月2日、市指定文化財に指定されています」
地図によりますと、この辺りに伊藤博文の屋敷跡があるハズなんですが…。どこだろう?
というか、この細い道で合ってるのか??
だって、この道は細すぎて車が入って来れないよね?
あれ?
伊藤博文っていつ頃暗殺されたんだっけ?確かNHKの「坂の上の雲」で加藤剛さんが演じていた人が伊藤博文だったから、日露戦争の時の人だよね。
調べました!
伊藤博文は1841年ー1909年が生存年です。
あ!これっぽいぞ。
滄浪閣!これだっ!!
こちらは民法発祥の地とも呼ばれてるようです。
でもね、今は…。なんか、どこかの誰かの家の敷地っぽいです。
トップ画像の胸像と入り口の石組のみに名残を止めているようです。
あの時代ってまだ自動車って一般的じゃなかったっけ?
伊藤博文はしばしば小田原の海岸の旅館などに滞在していたが、1890年、別邸滄浪閣をかまえ、日清戦争への対応や民法の起草などの重要課題にあたった。その後、大磯に同名の別邸を建て転居。小田原にあった建物は、1902年(明治35)9月28日に発生した小田原大海嘯で流失してしまいました。残ってる写真を見ると、2階建ての洋館なんだけどねえ。
ーーって小田原大海嘯って何?
調べました。いつものwikiで。それによりますと、折しも襲来した台風の波にやられたそうです。6メートルの波が2時間に渡り神奈川の海岸を襲ったようで、根府川から小田原。大磯と大被害を受けたようです。
へえ~へえ~へえ~っ。

道なりに西へ。細い道の突き当たりに、大蓮寺がありました。この辺り、お寺さんが多いようです。
人気ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

御幸浜の由来

2011年11月06日 05時55分09秒 | 箱根・小田原周辺
小さなトンネルをくぐるといきなり海岸でした
トップ画像は西。伊豆方面。
こちらは東の鎌倉方面。
時刻はまだ午前9時27分。いい風です。波がちょっと荒いのは、遠くこの海の南で台風が停滞してるからやもしれません。大きな石を組んであるのは、波消しの為なのでしょうか?でも大きな石の上で身体を焼いてる人がいまして、とっても気持ち良さそうなんだよねえ~。私もこの近くに住んでたら、つばの広い麦わら帽子をかぶって、文庫本と枕持参で石の上に寝転んでいたいですねえ~。

う~む。時節柄、ついついこの手の看板はマジ読みしちゃうなあ~。
せっかくなので、海岸の波打ち際に沿って西へ進んでみます。
あ。登り口の階段を発見!

あ。ここは海水浴場なんですね。でもこんなに波が強いのに、子供が泳いで大丈夫なのか??
ここ、普段からそこそこ打ち寄せる波の力が強いんじゃないの?だって砂浜ないよ。海岸に砂が溜まらないってこちは、波が強いからじゃないのか??それとも砂浜がないのは、もしかして3月の東日本大震災で、もともとあった砂浜が削られてしまったのか??
………。
や。今日は小田原の明治の邸宅散歩が目的なので、そこんとこは詮索しない方向で。

海水浴の注意の看板の向こうに、木の柱を見つけました。その前に説明板がありました。
「御幸の浜由来…明治6年、明治天皇は、皇后宮とおそろいで箱根宮の下に避暑に赴かれたが、その際当地にお立ち寄りになり、8月3日清水本陣にご宿泊になった。
翌4日は、天気晴朗、宿をお立ちになった陛下は当海浜において漁夫の地引き網をご覧になった。
以来、この浜は明治天皇の行幸を記念して「御幸の浜」と称せられている。」だそうです。
御幸浜って変わった名前だと思ったけど、そういう由来だったのね。
へえ~へえ~へえ~!!人気ブログランキングへ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小田原宿なりわい交流館と本陣跡

2011年11月05日 05時18分02秒 | 箱根・小田原周辺
松原神社の正面側の階段を降りたところで、参道らしき道の奥に時代がかった建物が見えた。
今回は明治の邸宅を巡るのが目的なので、時代を帯びた建物には興味がある。
いそいそ依って行くと、トップ画像の建物がありました。
あ。立て看板発見。
「小田原宿なりわい交流館…この施設は、昭和7年に建設された旧網問屋を再整備し、市民や観光客の皆様の『憩いの場』として、平成13年9月に開館しました。誰でも立ち寄れる『お休み処』や市民活動の発表の場として、気軽にご利用いただけます。 
開館時間…4月-10月 10:00-19:00 11月-3月 10:00-18:00
休館日…年中無今休
入館料…無料」
そうなのか。いいなあ。
え~と?今、何時だっけ?
………午前9時16分!!
まだ~開いてない~~。
建物は出桁造りです。
出桁造りとは、柱の上に載せた太い桁を店の前面に何本も突き出し、そこに軒や屋根を載せた江戸時代から続く伝統的な商家の建築方法。
閉まってるので、内部の様子はわかりません。
こちらは建物の後ろ側ですが、午前の太陽の光に照らされて木の風合いがよく観察出来ました。

さて、次は~?
あれ?地図によるとこの近所に『明治天皇宮ノ前行在所跡』というのがある。どこだろう~?

ありました!説明の立て看板もありました。『明治天皇宮ノ前行在所跡は、明治天皇が宿泊した清水金左衛門本陣のあった場所です。正碑は高さ2、73メートルの小松石の総磨で、碑面に「明治天皇小田原行在所址」と刻んであります。副碑には由来が刻まれています。
清水金左衛門本陣は、小田原宿に4軒あった本陣のうちの筆頭で、清水金左衛門家は江戸時代に町年寄も勤め、宿場町全体の掌握を行っていました。本陣の敷地面積は、およし240坪で、大名、宮家などの宿泊にあてられました。
明治天皇が宿泊したのは、明治元年(1868)10月8日の御東行の際を初めとして5回を数えます。明治天皇聖跡小田原町保存会は、この土地を買収して、昭和15年に整備工事を着手し、昭和15年10月に落成しました。」だそうです。
小田原宿なりわい交流館の裏手を撮影し、ふと見るとそこは昭和レトロな細い道でした。
ウキウキとそぞろ歩く。

普通の民家のようなのですが、こんなに素敵な建物がっ!!
ああっ!!
あれに見えるのはもしやして~~っ!!!

海ですっ!!
人気ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする