あるBOX(改)

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追悼:「ドアーズ」のキーボーディスト=レイ・マンザレク氏

2013年05月22日 | 洋楽
ロックバンド「ドアーズ」のオルガン奏者レイ・マンザレク氏までが亡くなってしまった・・・。

まぁ、年齢で言えば74才だから、普通に病死されても不思議じゃない年だが
それでも寂しい・・・。

亡くなったのは5月20日。
胆管がんのため独ローゼンハイムの病院で亡くなったとの事。



※上の画像はドアーズのグループフォト。
右前の金髪サングラスがマンザレクさん。知的ムード醸し出してるねぇ・・・。

米ロックバンド「ドアーズ」の創設メンバー、レイ・マンザレクは米シカゴ生まれで
カリフォルニア大ロサンゼルス校の映画専攻の学生時代にジム・モリソンらと出会い、芸術的趣向で意気投合。

1965年にドアーズを結成し、キーボード奏者として「ジ・エンド」「ハートに火をつけて」「タッチ・ミー」「ハロー・アイ・ラヴ・ユー」などヒット曲を送り出した。
※ただし、「ハロー・アイ・ラヴ・ユー」はキンクスの曲と酷似しているとして物議を醸した

71年にモリソンが急逝、ロビー・クリーガー(g)とジョン・デンズモア(d)とトリオでドアーズを続けたが、モリソンの抜けた穴は大きく、72年にアルバムを発売したのち解散した。

解散後はソロ活動や自叙伝・小説の執筆、映画製作を重ねたが
2002年に、ザ・カルトのイアン・アシュトベリーをヴォーカリストに迎え「21世紀のドアーズ」として活動を開始。

「21tsセンチュリー・ドアーズ」は、2003年のサマーソニックで来日してるから、
今にして思えば、行けば良かったなぁ・・・。
マンザレクさんのオルガン聴けるだけでも儲けものだったんだよなぁ・・・。

ベースレスで、それをキーボードの低音で補うスタイルは独特で、
しかも「ジ・エンド」なんてギターがシタール的な音色を出して延々とモリソンの独白を盛り上げるから、その世界の独自性は凄まじかった。



あとは「ライト・マイ・ファイア」ですよ。
あのオルガン・リフですよ。最初も最後もアレで決まりですよ。

ジム・モリソンのカリスマ性(ステージでアレを露出して逮捕されるなんちゅうスキャンダラス性)も凄かったが。
やっぱり「曲」が良くなければ売れません。

それを担ったのは「インテリ然」としたマンザレクさんです。

60年代後半から70年代初旬のロック界を担ったドアーズ。
その中心人物の一人、マンザレクさんの功績は永遠に讃えられるでしょう。

レイ・マンザレク氏のご冥福をお祈りいたします。

元ボクシング日本ミドル級王者・大和武士、覚醒剤使用の疑いで逮捕

2013年05月22日 | ボクシング
5月10日、元ボクシングミドル級の日本チャンピオン、大和武士容疑者(47才)が、覚醒剤を使用していたとして、逮捕された。

本人は「身に覚えがない」と容疑を否認し、覚醒剤や注射器は所持していなかったが、
尿から覚醒剤の成分が検出されたという。

警視庁渋谷署によると
10日午後5時20分ごろ、渋谷区道玄坂の路上で、大和容疑者をパトカーが発見。
挙動が不審だったため職務質問を行い、渋谷署に任意同行したとの事。

同容疑者は
2008年にも東京都目黒区の寿司店で店主に包丁を突きつけ、「ぶっ殺す」などと脅して、
顔を十数回殴って逮捕され、
東京地裁で傷害と暴力行為法違反の罪で懲役1年6月、執行猶予4年の有罪判決を受けていた。

う~ん
これはキビしいなぁ・・・。

先日も元王者の徳山昌守氏が傷害の容疑で逮捕されたが
釈放後は会見で神妙に反省の態度を見せ、相手側へ誠意ある対応を見せれば名誉回復も可能と思わせた。

一方、今回の大和容疑者は執行猶予中の逮捕だもんねぇ・・・。

本名を江口義光という大和武士容疑者は、1965年まれの47才。
185cmの長身とリーチで1980年代ミドル級で活躍した元プロボクサー。

岡山県の少年院で、『一瞬の夏』(沢木耕太郎)を読み、ボクサーになるために上京。
ワタナベ・ボクシングジムに所属し、新人王戦で勝ち上がる中、その経歴がマスコミに取り上げられ、結構な知名度を得た。



1987年12月14日、大和田正春の日本ミドル級王座に挑戦。
初回に大和田からダウンを奪ったが、大和田の強打を前に詰めに至らず。
逆転のKO負けを喫した。

この時は生観戦したが、苦労人・大和田を応援していた私と知人は大騒ぎで声援を送ったもんです・・・。

1988年3月21日に、大和田が網膜剥離のために返上したタイトルを松柳俊紀との王座決定戦で4回KO勝ち、第38代日本ミドル級チャンピオンとなった。
同年9月19日、2度目の防衛戦で田島吉秋に4回KO負けし、王座から陥落した。
実際のところ選手としては初防衛あたりで「下り坂」の印象があった。

翌1989年、「どついたるねん」で俳優としてもデビュー。
同じ阪本順治監督の「鉄拳」(1990年)で、1991年の日本アカデミー賞新人俳優賞に選ばれた。

選手との両立は難しかったか、半分芸能人気分でボクサーは副業気分だったのか
大和田戦の充実からすると信じられないほど練習不足の試合も見受けられ
横崎(オサム)戦など、私は結構ヤジった記憶があります。
※横崎が地味に頑張る選手だっただけにね・・・

渡辺会長も後に「同じジムの練習生にケンカ売ったりして参った。大和の事では私が随分と人間的に鍛えられました(苦笑)」と言っていたが、やはり完全に「更生」はしてなかったのか?・・・と思わされたものです。
※チヤホヤしたマスコミも悪いが。
  新人・大和が作家さんと一緒に自分の試合ビデオを見ながら
 「魂を打たれるものが無いんだよ!」とか叱責されてたのは可哀想だった。
  アウトボクサー大和は淡々と試合を進めた方が良かったかも知れないのに・・・

1992年6月の試合を最後にプロボクサーを引退。
戦績は19戦10勝5KO7敗2引分。

引退後は、Vシネやヤクザ映画を中心に活動していたが、最近は仕事が減って芸能界の活動が滞っていたという。
一度華やかな世界に身を置いたから、なおさら気落ちして生活が荒れたんだろうな・・・。

元ボクサーには充実した第二の人生を送って欲しいと思うのは、ファン共通の願い。
大和容疑者も・・・・。